SECT.18 別れの隠喩
ねえちゃんの家に戻って夕飯を済ませると、自分にあてがわれた部屋に戻った。
今まで住んでいたアパートの部屋の3倍以上はある。ベッドの大きさもそのくらい違う。いくら転がっても落ちないはずだ。ふかふか具合もぜんぜん違っていて、端っこのほうに座ると押し戻されてしまいそうなくらいに弾力があった。
それ以外にも部屋には、何枚も服の入る洋服ダンスやゆうに3人はいっぺんにお化粧できそうなドレッサー、それこそ今まで使っていたベッドより大きなソファ、それから家族が食事できそうなくらいに大きなテーブルもあった。
行くときに着せられた服をいったいどうしようかと途方にくれていると、アイリスとリコリスの双子の姉妹がやってきた。
「今日からラック様のお世話係を命じられました」
「よろしくお願いします」
「ほんと! やったあ!」
駆け寄ろうとして、異様に足が重いのを思い出す。
「ごめん、早速で悪いんだけど、着替えたいんだ……手伝ってもらえるかな?」
「もちろんです」
リコリスがさっと前に進み出ると、慣れた手つきでマントからはずしていく。
アイリスはその服を受け取って片付けていった。そういう風に役割分担しているらしい。
寝巻きに着替えさせてもらって、それからソファで包帯を取り替えてもらった。
「ねえリコリス」
包帯を巻いていたリコリスは大きな茶色い瞳をこちらに向けた。
「なんでしょう」
「天文学者……レメゲトンてさ、どんな仕事してるのか知ってる?」
「そうですね。私たちのような平民にとってはとても遠い存在ですから、どちらかというと昔話として耳にすることのほうが多いかもしれません。太古の天文学者は占星術を駆使して未来を読み、悪魔の力を駆使して戦争を勝利に導き、グリモワール王国の繁栄の時代を築き上げたと聞いています」
「ふうん。それって、占うヒトと戦うヒトとに分かれてたってことなのかな」
「そうですね。今でもその二つは分かれていると言います。お嬢様が戦闘に参加されることは少ないですが、同じ天文学者のクロウリー伯爵は騎士団の一員として鍛錬を欠かさないと聞きます」
「クロウリー?」
「クロウリー公爵家のご子息で、今では炎妖玉騎士団に所属される騎士でもあり、レメゲトンのお一人でもあります。お嬢様とも交流が深く、その血筋を辿ればレティシア=クロウリー様にも通ずるとか」
「もしかしてそれってアレイさんの事?」
「そうです、アレイスター=W=クロウリー伯爵。お目にかかったことはないのですが、黒髪に紫色の瞳のとても見目麗しい方だと噂には」
「ミメウルワシイって言うと、綺麗だってことだよね」
「そうです」
「そうだね、アレイさんは綺麗だと思うよ」
腰まで流れるつややかな黒髪と端正な顔立ちはとてもよく合っていると思う。切れ長の涼しげな眼の中に納まっている紫の瞳に灯る理知的な光は好きだし、かなり見上げなくてはいけないがすらりとして引き締まったとても綺麗な体のラインをしている。
「でもね、アレイさんよりもアレイさんの悪魔さんのほうが綺麗なんだよ。マルコシアスさんて言うの」
「第35番目の悪魔のマルコシアスですか?レティシア=クロウリーと共に戦った勇壮な戦士だという」
「うん。肌が褐色でね、目が猫みたいに鋭くて青と赤が一つずつなんだ。鍛えてあるけどしなやかで、すごく強そうな感じ。でもね笑ってくれるとちょっとどきどきする」
「そうですか。ぜひ見てみたいものです」
「きっと一度見たら忘れられないよ!」
イチド 見タラ
「青い刃の剣と赤い刃の剣を一つずつ持っててね……」
忘レラレナイ
「一つずつ……」
一瞬で惹きこまれて逃げられなくなる。あの深い群青色の瞳が脳裏に焼きついて離れない。銀色の髪と陶磁器のように滑らかで真っ白な肌に吸い込まれそうなほどに魅入られた。
あの時のフラッシュバックがもう一度返ってきそうになる。
が、なんとか押しとどめて目を閉じる。
でも、銀色の面影はまぶたの裏から消えてくれなかった。
「どうなさいました、ラック様」
「……あのね、もう一人いたんだ、すごくきれいなヒト。そのヒトの事思い出してた。」
もう何十回もねえちゃんに向かって繰り返した台詞だ。
「青がちょっと入ったさらさらの銀髪で肌の色はすごく白くて昔のヒトが創った彫刻みたいなんだ。瞳の色がすごく深くて暗い群青色だけど、そのヒトのオーラが炎と同じ色だから……」
言葉はそこで止まってしまった。
これ以上あのヒトを言葉に表すのは無理だった。
会いたい。会いたい。
低くてよく通る声を聞きに。柔らかな銀の髪に触れに。炎のようなオーラを感じたい。
理屈じゃなく会いたい。話したい。何を話すかなんて分からないけれど……。
その瞬間唐突に理解した。
そうか、自分は一目であのヒトの虜になっていたんだ。
それは理屈でなく感覚だった。でも、その感覚はすんなりと自分の中に納まった。もやもやとしていた部分をすっきりとさせてくれた気がした。
ぼんやりと中空を見つめる。
「どうかなさいましたか、ラック様」
「銀髪のヒト……探しに行かなくちゃ」
あの日、路地裏で見つけた瞬間からきっともう――
寝巻きのままふらりと立ち上がった。
「ラック様!」
部屋を出て行こうとすると、アイリスが血相を変えて止めようとした。
「おやめください、どこに向かうおつもりですか?!」
「銀髪のヒトに会いに行くんだ」
「それはどなたです?!」
「わかんない。でも、ねえちゃんが王都に送ったって言ったんだから近くにいるはずだよ」
「もう遅いのです。明日になさってください。お嬢様にも聞いてみないと」
「いったい何の騒ぎ?」
アイリスの声を聞きつけたねえちゃんがやってきた。
「お嬢様! ラック様が……」
アイリスに続いてリコリスも部屋を飛び出してきて、眠っていたヨハンも起き出してくるしばあやもやって来るしで大騒動となってしまった。
ねえちゃんはその事態を治めるためかは知らないけれど、こう言ってくれた。
「明日、ちゃんと悪魔と契約を結ぶことが出来たらきっと銀髪の人たちに会わせてあげるわ。絶対よ。約束するわ」
「ほんと?」
「本当よ」
「んじゃあ今日は我慢する」
「そうなさい。疲れているはずよ、ゆっくりお休みなさい」
そうだ。確かに足は棒のように重いし、頭もぼんやりする。左手は相変わらず動かない。
どうしてこんなこと言い出してしまったんだろう。こんなに夜も遅くて、疲れているのに……。
ねえちゃんは部屋のベッドまで付き添ってくれた。
横になった自分にまっさらのシーツをかけながら、ねえちゃんは困ったように言った。
「いったいどうしてこんなこと言い出したの」
「んと、アレイさんの話をしてて、そしたら銀髪のヒトの事思い出して……思い出したらすごく会いたくなったんだ。んーでも、何であの瞬間だけあんなに急に会いに行こうと思ったのかはわかんない」
「そうなの。コインを3つ身につけたせいで少し精神が不安定になっていたのよ。それにしてもあなたはよっぽど彼らのことが気に入ったみたいね。何度も殺されかけたって言うのに……おかしな子」
「ホントに何でだろう。自分でもわかんないや」
「彼らは私たちの敵なのよ。出会ったら殺し合いを始めなくちゃいけないくらいにね」
「殺し合い……?」
「そうよ。きっとあなたはそのうちすごく悩むことになるんでしょうね。私はそんなところ見たくないのに」
「ねえちゃん?」
「あなたはすべてを知った時いったいどうするのかしら。それでも私と一緒にいたいといってくれるのかしら……?」
ねえちゃんは悲しそうに微笑んだ。
どうしてだろう。最近はずっとねえちゃんに悲しい顔をさせてばかりだ。
「ごめんなさい、ラック。私があなたにしてあげられることなんてほとんどないの」
「なぜ? ねえちゃんは隣にいてくれるのに? おれはそれだけが望みなのに?」
「あなたはきっとそのうち私よりずっと大切なものを見つけるわ」
「わかんないよ、ねえちゃんより大切なものなんて思いつかないよ」
「いいのよ、今はわからなくて。そのうち少しずつ分かってくるはずだわ」
「分かりたくないよ」
「でも今は銀髪の人の事を考えていたんでしょう? その間、私のことなんて頭になかったはずだわ」
「そうだけど、ねえちゃんのこと考えてる間は銀髪のヒトのこと忘れてたよ?」
「今はまだそうなんでしょうね」
ねえちゃんは泣きそうな顔をしていた。
いったいねえちゃんは何を悲しんで、何を恐れているんだろう。
自分にはまだ分からない。
それでも、ねえちゃんがこの瞬間に心のどこかで自分に決別を告げた気がした。
「ねえちゃん」
「なあに?」
「一緒に寝よう……昔よくしてたみたいに」
すごく切ない気分になって、ねえちゃんと離れるのが嫌になって、思わずそんなわがままが口から出た。
「しょうがない子ね」
ねえちゃんは困ったように笑うと、横になった。
ブロンドの髪が顔をくすぐって、思わず微笑んだ。
「くすぐったい」
「ばかね」
ねえちゃんの柔らかい手が頭をなでてくれる。それから頬に一つキスをしてくれた――一緒に寝るときや眠れない夜にはいつもそうしてくれていたように。
やさしい眠りが近づいていた。
「おやすみなさい、ラック。明日から忙しくなるわよ……」