SECT.15 ヨハン=C=ファウスト
でも、楽しく話していられるのはそこまでだった。
服を脱いで風呂に入れられると、花みたいに甘い匂いのするオイルで全身をこすられて、髪は何度も洗われ、のぼせるまで湯に浸かってからやっと風呂場から出た。と、思ったら顔にも腕にもツンとした匂いの液体を塗りこまれてそのあとミルクみたいなとろっとした液をかけられ……。
いくつもの液体を塗り終わってバスローブを着たところで、やっと古い包帯をはずしてもらえた。
久しぶりに傷跡を見るともう大方ふさがっていた。もう痛みもないし、肩の関節までは完全に動かせた。
「あと3日もすれば抜糸できると思います」
リコリスはそう言った。どうやら少なからず医術の心得があるらしい。
でも、左手の指がピクリとも動かないところも見ると、傷はふさがってももう一生この腕は使えないだろうと思った。
まっさらな包帯を巻いてから、今度は着せ替えが始まった。
ねえちゃんと自分の身長差は大きなりんご一個分くらいだ。ちなみに言うと、スタイルはぜんぜん違う。胸の大きさもそれこそりんご一個分くらい違うんじゃないだろうか。
「ラック様は華奢でいらっしゃいますから……」
「ねえちゃんの胸がでかすぎるだけだよ」
「困りましたね」
マリーばあやさんも巻き込んで、衣装部屋をひっくり返しての大事となってしまった。
「ばあや、どうなったの?」
そこへ、ねえちゃんが入ってくる。
ここまで来たときとは違って、動きやすそうなベージュ色のふんわりしたドレスに変わっていた。
「どうもこうもお嬢様、合う服がございません」
「困ったわね。全部私の体に合わせた特注だから……」
ねえちゃんは腰に手を当てて眉を寄せた。
「どうしようかしら」
その時、ねえちゃんの後ろ、開けたままの衣裳部屋の扉から一人の少年が顔を出した。
「姉様? 帰ってらしたんですか?」
「まあ、ヨハン!」
ねえちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
「こちらにいらっしゃい。大きくなったわね!」
「お帰りなさい、姉様」
こげ茶色のふわふわカールした髪に、ねえちゃんと同じ金色の瞳がきらめいている。年は12か13かそんなところだろう。
「ラック、私の弟のヨハンよ」
「おれはラックだ。よろしく、ヨハン」
「初めまして。よろしくお願いします」
サイズが合わないとはいえ、女性の服を身に着けている自分が『おれ』と言ったことに少し首を傾げたみたいだけれど、すぐに微笑み返してくれた。
ねえちゃんが金色の瞳の猫なら、ヨハンは子犬みたいにまん丸な瞳をしていた。
黒い細身のパンツに黒く滑らかなごつい皮ブーツ、ひらひらが縦に並んだ白いシャツの上のボタンを二つくらい留めずにはだけさせていた。
「ボタンはちゃんと留めなさい。もう今年で15になったんでしょう?」
「はい、姉様」
年齢のわりに幼い少年はボタンを言われたとおりに留めて、しゃんと背筋を伸ばした。
自分とちょうど目線が一緒だった。
「あら」
ねえちゃんはポン、と手を叩いた。
「そうよ、その手があるじゃない」
「ん?」
ねえちゃんはにこりと笑って自分を見下ろした。
王都まで乗ってきた馬車は見たこともないくらい大きくて豪勢だと思った。
でも、ねえちゃんの家の前に止まっていたのはそれ以上だった。御者さんが2人いる。護衛の兵士が2人馬に乗って馬車のそばに控えていた。
黄金の装飾がなされた大きな馬車には、すでにアレイさんが乗り込んでいた。
「お前……」
入ってきた自分を見て、アレイさんは頭を抑えた。
「どういう理由でそんな格好になったんだ?」
「んとね、ヨハンに借りた」
それはまだ騎士の身分ではない若者がグリモワール国の名の下に任務を遂行するときに使う、見習い騎士用の正装だった。天文学者の資質がないヨハンは騎士を目指していたというのだが、15の誕生日と同時に騎士の位をもらい、今ではこの服を着ることもないらしい。
銀の脛当てから細い足が伸びる。燕尾服のような形の硬い黒の外套を腰の幅広ベルトで止めて、黒い手袋をはめる。さらにその上から白のマントを装備した。
若干暑いが我慢するしかない。
「……」
アレイさんはなんとも言えない表情をした。
いつも表情がない分、こんな顔をするのは珍しい。
「仕方ないわ、本当はドレスを用意したかったのだけれど、私の服が合わないんですもの」
「……そうだろうな」
「残念だったわね、ドレス姿のラックが見られなくて」
「……」
アレイさんはねえちゃんの言葉にふいとそっぽを向いた。
別にアレイさんは自分がどんな格好をしているのかなんて気にしないだろうに。
くすくす笑ったねえちゃんはこれが本当に正装なんだろうかと思うような、胸元が大きく開いたとてもシンプルなドレスを着ていた。黒一色で飾りがない分、体のラインが浮き彫りになる。それを、裏地が紫色のマントで少しだけ隠していた。
ドレスにマントというのはとてもおかしな感じがした。
「これは女性の天文学者の正装なの。天文学者の位を表す色は黒、そして国を守る役職につくものはマントを羽織ると決まっているわ。何より、古来の女性天文学者は『ウィッチ』と呼ばれ恐れられていた。伝承に残る彼女たちは黒のワンピースに黒のマント……つまり、今の私に近い姿をしていたと言われているのよ」
上半分には全く飾りがなく滑らかなシルクが体をぴったりと覆い、細身のスカート部分には銀や金、赤の糸で何か細かい紋様が縫い取られていた。金のチェーンで作られた細いベルトには、くすんだ鈍い光を放つコインが5つ、並んで吊り下がっていた。
髪をアップにしたねえちゃんは小さな紅玲玉のピアスや動くとシャラシャラと軽快な音を立てるネックレス、それに胸には輝光石がふんだんに埋め込まれたブローチをつけていた。
黒の中でそのアクセサリーたちは闇夜の星のように煌いていた。
「アレイさんはいつものマントと違うね」
闇色のマントではなくて、ねえちゃんと同じ上質の糸で織られた裏地が紫のマントだった。
アレイさんはどちらかというと自分に近い格好で、やはり黒を基調にした長い外套を羽織っていて、腰にはねえちゃんよりしっかりした幅の広いベルトにコイン嵌め込んでいた。外套にはねえちゃんのドレスと同じように細かい紋様が刺繍してあって、よく見るとそれはコインに描かれた幾何学模様に酷似していた。
「これは男性用の正装だ」
「ふうん。おれの格好と似てるね」
「お前と同じ服を着た記憶はない」
アレイさんは絶対自分を嫌ってると思う。
「似てるって言っただけじゃないか!」
「ラック、ジュデッカ城に入ったら絶対そんな大声出しちゃだめよ? アレイももう24になるんだから子供をからかうのはやめなさい。」
「わー、ねえちゃんまでおれのこと子供って言った!」
ひどい!
「もう、ラックだって20近い年のはずよ? おとなしくしてなさい!」
「むー」
唇を尖らせて黙りこんだ。
ねえちゃんは窓の外を見ているアレイさんとむっつりと黙り込んだ自分を交互に見て、大きなため息をついていた。
ゆるい坂を馬車が上って、最後の門に辿り着く。
今度はわざわざ降りて手続きをするなんてことはないらしい。いったん停止した馬車は、すぐにまた動き出した。
「さあ、ジュデッカ城に入るわよ。頼むから、おとなしくしてなさい!」
ねえちゃんに念を押されたので、こっくりと頷いた。
さすがに緊張してきたぞ。
馬車を降り王様のいるジュデッカ城を目前にして、緊張は頂点に達した。
城に一歩足を踏み入れると、ねえちゃんが自分の家を豆粒だといった理由がよく分かった。
くらりとするくらい真っ赤な絨毯がまっすぐに敷き詰められていて、壁と柱は全部最上級の大理石だった。廊下は地の果てまで続くんじゃないかと思うくらいに長い。天井は絶対届かない高さだし、天窓からは太陽の光がきらきらと差し込んでくる。
何より、目の前にある空間が広すぎる。
脇のほうに飾ってある絵画や工芸品も見たことないものばかりで、自分の頭ではどうにも処理できそうになかった。
前に進もうとして、足が動かないことに気づいた。
あれ、息がうまく出来ない。体も動かない。あまりに今までと違う世界に放り込まれたから脳みそがびっくりしちゃったみたいだ。心臓の音が耳元で聞こえる。
おれ、ここでいったい何してるんだろう?
目の前が真っ白になりそうだった。
「行くぞ、ガキ」
ぱしん、後頭部をアレイさんにはたかれた。
「もうっ、何するんだよ!」
「もたもたするな。そんなところで突っ立っていたら日が暮れる」
「!!」
むっかー。
怒鳴り返そうとした瞬間、ねえちゃんの手が自分をさえぎった。
「静かにしなさいって言ったでしょ、行くわよ、ラック」
しぶしぶねえちゃんについて歩き出して、ふと気づいた。
体が軽い。さっきまで緊張で全く動かなかったのに。
「アレイさん……」
まさかでもあのヒトが自分を助けてくれるとは思えない。
それでも助かったことだけは確かだったから、心の中でだけお礼を言った。
ありがと、アレイさん。でも、絶対本人に言ったりなんてするもんか!