SECT.11 マルコシアス
「何?」
ねえちゃんがこんこん、と御者の窓を叩く。
返事はない。
「ここで待ってろ」
アレイさんはそう言うと馬車を出た。
「ラック、ここを動いちゃだめよ」
ねえちゃんもそれに続く。
ぽつんと一人馬車の中に置き去りにされた。
外からは、微かに言い争う声がする。内容は聞き取れないが、声には覚えがあった。
ねえちゃんの澄んだメゾソプラノと、アレイさんのバリトン、それから、
そう、低くてよく通る声。
「あっ!」
これ、銀色のヒトだ!
言いつけを破って外に飛び出した。
そこで目にしたのは、銀色のヒトが二人とそれに対峙するねえちゃんの姿、それから……
「中にいろと言っただろう」
バリトンの声が冷たく響いた。
左手に細い剣を構えたアレイさんの背後には、何か影のようなものが見えた。
目を凝らすとそれはどうやらヒトの形をしているのが分かった。腰から下はぼんやりとしていて見えないが、背には白い翼が見えるし、頭の上には金冠が浮いている。
「……天使?」
「黄金獅子の末裔か 本当に生き残りがいたとは」
白い翼のそのヒトは自分の声に反応して不意にこちらを振り向いた。
風に靡いた黒髪からは短い角が二本生えている。猫のように釣りあがった目には炎妖玉と碧光玉が一つずつはめ込まれていて、袖なしのくすんだ紺の服からは鍛え上げられた腕がのびている。赤い刃の剣と青い刃の剣をひとつずつ手にしていた。ただ無闇に筋力がついただけでなく、しなやかで躍動的な肢体。年は自分と同じくらいだろうか、まだ少年のようなあどけなさを残した表情と褐色の肌、八重歯の目立つ顔が視線をひきつける。
その野生的な雰囲気は、凛として物静かな雰囲気のアレイさんとあまり似つかわしくなかった。が、瞬間的に理解できた。
「アレイさんが持ってるコインの35番目の悪魔さん? えーと、マルコシアスさん」
「ほほう 我の名を知るのか 過去を持たぬ少女よ」
少年のような風貌には似つかわしくない口調でその悪魔は微かに唇の端をあげた。
けれどもそれは、先ほど聞いた勇壮で正々堂々としているというねえちゃんの説明に違わぬ立派な剣士そのものだった。
「さっきアレイさんが教えてくれたんだよ」
にこりと微笑みかけた。
悪魔という名前から想像していたよりずっと親しみやすそうだ。ただ、この悪魔さんから発せられる闘気はこれまで感じたこともないくらいに強いものだったけれど。強い闘気でびりびりと肌が震えるような感覚を受けた。
「初めまして。よろしく、マルコシアスさん」
「ふふ 礼儀正しいな」
悪魔のマルコシアスさんは楽しそうに笑った。
でも実は、それよりも、初めて見る悪魔さんよりずっと気になっているヒトがいる。
「銀髪のヒト……」
明るい太陽の下で見る青みがかった銀髪のヒトは、周囲の背景から浮いてしまうほどに白い肌をしていた。
この間のような聖職者の服ではなく肌にぴったりとした黒い服。袖はなく、白地に金の紋様が描かれている手甲から銀のブレイドが飛び出していた。
「この間のレメゲトン! 貴様らやっぱりグルだったのか!」
真っ赤なオーラをほとばしらせて、その銀髪のヒトは自分を睨みつけた。深い群青に吸い込まれそうになった。
治ったと思っていた左腕の傷が疼いて、思わず顔をしかめた。
その空気を感じ取って、アレイさんが自分と銀髪のヒトとの間に立ちはだかる。
「貴様……またしても邪魔をするのか、今度こそ叩き潰してやる!」
「なお 我に戦いを挑むか」
アレイさんは左手で長剣を構える。
マルコシアスさんの翼で視界がさえぎられた刹那。
「がぎぃん!」
金属音がした。
心臓が抉られるような感覚を受けて、思わず身震いした。
「ラック、中に戻りなさい!」
ねえちゃんが叫んだ。
もう一人の銀色のヒト、青いオーラの涼やかなヒトがねえちゃんに向かってブレイドを振りかざすのを見た。
「ねえちゃん!」
でもねえちゃんは全く慌てることなく叫んだ。
「クローセル!」
その瞬間、ねえちゃんの足元に黒々とした魔方陣が出現した。
三角を二つ逆方向に合わせた星のような形をモチーフにして、見たことのない文字が所狭しと描かれている。
次の瞬間、ねえちゃんの周囲に水の嵐が巻き起こった。
「!」
水は壁のようにして青いオーラの銀髪のヒトを阻み、竜巻のように回転して天へ消えた。
代わりに、ねえちゃんの頭上には美しい天使が現れた。
「うっひゃーっ ひっさしぶりだねえ ミーナねえさん」
「……久しぶり、クローセル」
「なに? 俺を呼び出すなんて そんな切羽詰ってるわけ?」
「そうなの。力を貸してくれるかしら?」
「もう ねえさんの頼みなら 何だって」
「ありがとう」
気のせいかねえちゃんの顔は引きつっている。あんまり呼びたくなかったのに、という感情が駄々漏れだ。
天使はふっと自分のほうを振り向いてじろじろと無遠慮に観察してきた。
「んで? あれが 原因? ふーん」
「大切な子なの。絶対に守るのよ」
「へー おっそろしいもん持ってんな」
天使はさらさらの金髪に青空のように澄んだ青い瞳を持っていた。切れ長の瞳は知性的なのに、口調からは全くそれが感じ取れない。一枚の大きな布を体に巻きつけただけで、均整の取れた肢体がいくらかあらわになっている。しなやかで豹のような男性の体つきは見る者の目を惹きつける。
口元に微笑をたたえて、手にした三叉戟をぶん、と振りかざした。
ついでに言うと、あの攻撃力の高そうな三叉戟も見た目と合っていない。
「まったく 俺のミーナねえさんだったのに お前なんかが現れるから 呼び出しが減ったじゃねーか!」
「余計なこと喋らなかったらもっと呼び出してあげるわよ!」
もしかして、あの天使にしか見えない金髪碧眼のこのヒトも悪魔の一人なんだろうか。
三叉戟を突きつけられて動けないでいると、ねえちゃんはあきれたように青いオーラの銀髪のヒトを指差した。
「敵はあっちよ、クローセル。あの子を王都に送る途中なの。……邪魔する者を、排除して」
「へいへいほー」
クローセルと呼ばれた天使さんは、三叉戟をぶん、と振って地上に降り立った。
マルコシアスさんと違ってちゃんと足もある。
「あっち行っててくれる? そこのがきんちょ」
「……おれ?」
自分を指して首を傾げると、三叉戟を振りかざした天使さんはにやりと笑った。
「おうよ まああと5年だな かなり楽しみではあるが」
「クローセル! ラックに手を出したら承知しないわよ! もう二度と呼ばないから!」
「ひどいわあ ミーナねえさん 今の俺はあなた一筋よ?」
「それも嫌!」
ねえちゃんは握りこぶしを固めて叫んだ。
「ひでえええ」
そんな風に叫びながら、天使さんは飛び掛ってきた銀髪のヒトを横目に確認すると、軽く腕を振って水の球を走らせて吹っ飛ばした。
「ぐはっ……」
後ろ向きに吹っ飛ばされる青いオーラの銀髪のヒト。地面に叩きつけられてそのまま動かなくなった。
天使さんはそちらに眼を向けることもなく、ねえちゃんに抱きつかんばかりの勢いで擦り寄っていった。
「ねえさんのためならなんだってするよ 俺 命だって賭けちゃう」
「ばかっ!」
ねえちゃんがきりりと眉を吊り上げた。
ねえちゃんを怒らせるとは、なんて無謀な天使さんなんだ。恐ろしくてそんなこと自分には絶対できやしない。
しかも、あの銀髪のヒトを一瞬で吹っ飛ばした。自分は手も足も出なかった相手だというのに!