SECT.1 はじまりの朝
まず、服を着る。
とりあえず紺色ハイネックのアンダーウェアを着て、開け放った窓から入ってくる風が暖かだったから気分は春色、淡いグリーンの短衣を引き出しから取り出してかぶった。ついでにその裏ポケットにいくつかクナイを忍ばせておこう。
それから、太ももが半分くらい出る短いワーキングパンツを穿くと、茶色の皮ベルトには短刀と商売道具の入った鞄を提げた。
最後にあまり使わない鏡台においてある黒い布の籠手を肘までしっかり上げて手の甲で紐を結んで固定した。
鏡を覗き込むと見慣れた顔が映る。自分でそう思ったことはないが容姿には恵まれたとよく言われる。長い睫毛が縁取るくっきりとした二重の黒瞳。高くはないがバランスの取れた鼻と桃色の唇。うまく整えればかなりのものになるらしいがそんなことに興味はない。
「べーっ」
鏡の中の自分にあかんべえしてから肩より少し長い黒髪を結んで水色のバンダナの中にしまった。
いつものように、丈夫なブーツの靴紐をしっかり結んだら準備はばっちり。
「さてと、行こうかな!」
今日も仕事の始まりだ。
「いってきます!」
誰もいない部屋に向かって大きな声で宣言してアパートの一室から飛び出した。
春から夏に向かう季節は花よりも若葉が目立つ。
淡い緑のあふれるこの季節が好きだ。暖かな風の匂いも柔らかな日差しも心の中まですんなりと馴染んでくる気がする。丁寧にとは言いがたいけれど、それなりに手入れしてある道沿いの花壇も緑と赤白黄色の花であふれている。
どこまでも突き抜けていく青い天井を白い雲が染め抜いて、植木鉢には若葉の萌黄色を背景に小さな白い花が密集して、それから灰色の石を敷き詰めた道がまっすぐに伸びて目的地まで導いてくれる。
この世界は鮮やかだ。特に今は――自分の生れた季節は知らないが、こんな風に明るくて爽やかな朝だったら嬉しいなと思う。
「いーい天気だあ!」
なんのひねりもないそんな台詞を大声で叫んでみてもいい。
だって仕事は簡単だ。
世間一般で『探索者』と呼ばれる者、それが自分の職業だ。
情報屋の下請けというのが一番分かりやすい説明だろう。
街を周回していればいい。いろんなものを見て、いろんなことを聞いて、一日の終わりにそれを雇い主に報告する。ただそれだけが仕事。
自分にとってそれは散歩とほぼ同義だった。
まっすぐに続く灰色の石畳とレンガ造りの建物に従って、朝は閑散としている街の飲み屋街を駆け抜けた。
目的地の店の階段を駆け下りると扉をノックもせずに開け放って慌しく飛び込む。
店内には数名が座れるカウンター席の他に4人がけのテーブル席が3つ。煤けたように黒ずんだ木の素材は薄暗いバーの雰囲気にぴったりだ。
そのカウンターの向こうに淡いブラウンの髪をなびかせて食器を洗っている女性がいる。
「おっはよー、ねえちゃん」
「今日は早いわね、ラック」
まるで気まぐれな一匹の猫のように、金に煌く瞳を持つこの女性は自分の雇い主だ。腰まであるストレートのブロンドから見え隠れする白く細い首筋から胸、腰にかけてのラインが絶妙で街一番の妖艶な美女だと評判だ。
が、美女というよりは悪女という表現が一番ぴったりくるなあといつも思っている。
いや、そんなことを言ったらこの世から存在を消されてしまうかもしれない。
今日は体のラインを全面に押し出した真紅のワンピースに身を包んだ彼女を敵に回せばどうなるか、そんなことわかりきっている。
それを知ってか知らずか夜には酒場になるこの店の常連客は多いのだが。
朝だというのに薄暗い店内のカウンターに座ると、彼女は目の前にミルクのカップとエッグトーストの乗った皿を置いてくれた。
「ありがとう、いただきます!」
「はいどうぞ」
夜中に店を開けているのだから毎晩徹夜だろうにそんな疲れは見せずいつも朝食を出してくれる。そんな情報屋の彼女がすごく好きだから『ねえちゃん』と呼ぶ。それが自分の示せる精一杯の親愛の情だから。
しかも、行き場もなく何も持たなかった自分を拾って職まで与えてくれた。
「ラック、今日は大事なお客さんが来るの。夜はお店を開けないからお手伝いはいいわ。その代わり、報告は早めに来て頂戴」
「はーい」
たまにこういう日もある。情報屋の方の上客が来るときは夜に店を開かず、その客の接待に専念するのだ。
夕方の報告後この店の手伝いもしている自分はその日、お休みをもらうことになる。
エッグトーストを頬張る自分を見て、ねえちゃんはほんの少しだけ遠い目をした。
どうしてだろうと首を傾げると猫の目を細めてふふ、と妖艶に笑った。
「もうラックが来て3年になるのね。あなたはいったい幾つくらいなのかしら」
「んー、わかんね」
出会った時、自分は本当に何も持っていなかった。
財産も肉親も記憶も、もちろん自分の名すらも――
『ラック』という名をくれたのはねえちゃんだ。古い言葉で『幸福』という意味を持つらしい。
この名前はとても気に入っている。
「もういい年頃の女の子だとは思うんだけど……いつまでたってもそんな格好しかしないし。もったいないわあ」
「いいじゃん。おれは気にしてないし!」
「『おれ』って言うのもそろそろやめなさい。街のみんなはあなたのこと男の子だと思ってるわよ?」
「別にいいよ。気にしてないし」
「もう。そのうち好きな男の子ができたって知らないんだから!」
「そんなことは絶対ないって!」
軽快に笑って目の前で手を振ると、ねえちゃんは深いため息をついた。
自分の性別よりねえちゃんの年のほうがよっぽど不詳だ。
そんなことを言いかけて、命が惜しいと思いとどまる。
「まあいいわ。あなたの好きにしなさい」
ねえちゃんのため息が終わったところでちょうど朝ごはんも食べ終わったし、街に出ることにしよう。
がたん、と席を立つとねえちゃんが小さな皮袋を投げてくる。
受け取った時にちゃりんと軽い音がした。
「昼と夜のごはんのお金よ。少し多めにしておいたから何か美味しい物でも食べなさい」
「わーい、ありがと! ねえちゃん大好き!」
嬉しい。今日は何を食べようか?
久しぶりに甘いケーキでも買って帰ろうか。ソフトクリームもいいな。
「好きなのは私じゃなくてケーキでしょう? あなたは本当にわかりやすいわね」
どうも妄想が顔に投影されていたらしい。
苦笑したねえちゃんに破顔するとひらひらと手を振ってサヨナラした。