婚約者
婚約者――とはいっても親が決めたもので、私は相手の方と一度も会ったことがないひとだった。
相手の名はエドウィン=カータ。わたしより二つ歳上。爵位を持たないが祖父の代から商売で成り上がり、商売の成功で地位を確立した商家の嫡男である。
初代が持ちえた商才は脈々と血筋に受け継がれたらしく、彼の父、そしてエドウィンも才能溢れ、年々事業を拡大しているという。
そんな彼らにも足りないものがあった。そう、家柄である。
ただの商人から成り上がった彼らにとって、社交の場で身分の低さはいかに不利であったかは容易に想像できた。
金は腐るほどのあるというのに、それどころか年々資産は増えていくというのに、決定的なものが足りない。それは金で買えないもので――いや、ある意味、金で買えるものであったのかもしれない。
それは家柄。高い身分。
資産はなくても低い爵位でも、伝統だけは誇るこのアディソン家を、カーター家は欲したのだ。
あり得ないと思っていた政略的結婚である。
婚約者ができた――
結婚、というものがすっかり縁遠いものとなってしまっていた私は、最初、まるで他人事のようにそれを聞いていた。自らの事だというのにまるで実感がわかない。もうすぐ嫁き遅れと揶揄される年齢に片足を突っ込み、見目麗しくないどころか女らしさを微塵も感じられない私を、必要とはいえ妻として迎えなければならない男のことを、まるで他人事のように「気の毒に」と思っていた。
そして彼との始めての顔合わせの時になってまでも、他人事のように思える気持ちは払拭できず、この事態を自身の事ととは到底思えなかったのだ。
「お初にお目に掛かります、アマンダ=アディソンと申します」
「はじめまして、エドウィン=カーターです」
名乗れば流れるような動作で手を取られ、手の甲に口付けられた。
長く社交界から遠ざかっていた私は久々の淑女扱いに私は少々戸惑った。だが、表情に乏しい私は少し目を見張る程度だっただろう。
無表情を貼り付ける私に反して、目の前の男はどこか不機嫌さ滲ませていた。
さすがに商家の嫡男であるし、社交界も渡り歩いているだけあって本音を隠すように甘い笑みが顔に張り付いている。だが、どうしても隠し切れてない不本意さというものが彼から滲み出ていたのを、このときなぜか私は気付いてしまったのだ。
彼が不機嫌な理由は推し量らなくても明解だ。
いざ対面してさぞガッカリしたに違いない。こんな見目の悪くついでに愛想のない女を妻にしなければならない彼の心情を思うと我が事ながら同情しか浮かばない。
エドウィンは背の高い私よりもさらに頭一つ分ほど高く、くすんだ金髪に濃い色の蒼い瞳。がっしりとした体躯は商人というよりは騎士のようである。顔立ちは良い。精悍というよりは甘いと表現した方が相応しいだろう。おまけにひと好きのする笑みが絶えず貼り付けられ、無表情を貫く私に対しても動じないのはさすがに商人の息子といったところか。
それに最初の流れるような所作をみるにおそらく女慣れしている。そしてこの見目である。相当の浮名を流していたに違いないだろう。彼のような人は、女たちの方が放っておかない。
こんな素敵な人が、わたしの夫に?
信じられない思いで私は目の前の男を見つめていた。
わたしなんかより、彼の横に並ぶに相応しいのはシェリーのような娘だろう。だが、妹はすでに嫁いでしまっているのでどうしようもない。
もし、まだ妹が嫁ぐ前に彼の家から縁組の申し出があったならば?
二人いる娘のうち、どちらを選ぶのか、答えは明白である。
どうしてもう少し早くに彼の家がわたしの家との政略結婚を申し出なかったのか。妹がまだ嫁いでなければ、私が矢面に立たされる事はなかったのに。
シェリーと彼が並び合う姿と、私と彼が並び合う想像して比べてみて、すこし落ち込んだ。
どう考えても釣り合いが取れてない。家柄ではない、見た目の、である。
考えても仕方がない事を考えてしまい、かすかに吐いた溜息を気取られ、エドウィンが怪訝そうな顔をした。
「ごめんなさい」
初対面からすぐに溜息を吐かれれば面白くないだろう。
気を悪くされては申し訳ない。多少の不機嫌さを滲ませていようとも、喋ろうともしない私との間を根気良く取り持つような態度を示してくれてくれているのは彼の方なのだ。彼は何も悪くない。
「あまり男の人との会話に慣れてなくて、すこし緊張してしまっているみたいなのです」
私はそれらしい謝罪ののち、自分なりの精一杯の笑みを浮かべた。
ともすれば、エドウィンはむっとした様子で、すっと顔をそらした。
どうやら気遣いの言葉は逆効果だったようだ。
存外に子供っぽい態度を取られ、私は戸惑った。
どうすれば彼の機嫌は治ってくれるのだろう。彼の気をこちらに向けようと、彼の名を読んでみる。
「エドウィン様?」
「……エドウィン」
「え?」
彼の名を呼べば、一拍置いてそらされていた瞳がこちらに向けられた。見たこともない海を想像させる深い蒼に戸惑うわたしの顔が映っている。
「敬称はいらないよ、いずれ夫婦になるのだから。エドウィンと呼んで」
「でも」
「アマンダ」
甘い、蜂蜜付きの声色で名を呼ばれ、嫌でも心臓がわなないた。
「僕もあなたのことを名前で呼ぶ。だからあなたも僕の事は名前で呼んで。いいね?」
とびきりに甘ったるい声色で、けれど有無を言わさぬ口調で言われ、私はただ黙って頷くしかなかった。
しかし次の言葉でわたしのかすかに浮き上がった心は地の底、さらに底へと落とし込まれ、叩きつけられたところでさらにぐちゃぐちゃに踏みつぶされる事となる。
「最初に断っておくが、僕はあなたの家柄を欲しただけであってあなた自身を欲したわけではない。だから君には多くを望まないよ。まぁ、結婚するのだから妻としての義務を果たしてもらわなければ困るのだが…あなたが望むなら僕もできるだけよき夫として振舞う努力もする」
それははっきりとした拒絶だった。
いっそ胸を空くような物言いだった。ひどいことを言われているのに、ここまで割り切られてしまえばむしろ気持ちがよいぐらいである。
本音を露呈させたところで行き場のないわたしは拒む事などできない言を知っていて、彼は出会って早々にわたしとの間に一線を置いたのだ。
心通わない夫婦など星の数ほどいるだろう。身分が高ければ高いほどに。
私たちも、そうなるだけだということだ。
私の、この容姿と性格である。私自身を望んで結婚を申し込んでくれる殿方など生涯出てくることなどないだろうと諦めがついていたし、もともと恋や愛に夢を持つような性質でもない。結婚にも夢は持っていない。
だから私は彼の言葉に無表情で頷いた。
ここまで割り切られてしまえば、こちらとしてもやり易い。妻としての義務を果たせば、私は何をしてもいいという。
カーター家には書庫があるかしら?
夫が不在の間は本を読んで引きこもっていればいいのだ。今までの生活となんら変わらない。社交の場に出る機会が増えるのは面倒だが。
それに、もし。もしも子供を設けることができれば、それは幸せなことだ。子供は嫌いではない。むしろ好きな方である。諦めていたものを彼は与えてくれるのだから、文句を言える立場ではない。むしろ感謝せねばなるまい。
「ああ」
私は思考の淵に沈んでいれば、彼が思い出したかのような声を上げた。
「君が何をしても大方のことには目はつむるが、外聞が悪いから浮気だけはしないように」
わたしの全身を上から下へと舐めるようにエドウィンの視線がさまよう。この見目ならば浮気の心配はないだろうとでも思っているのだろうか。