あしひきの山
待っていた。
雨に、髪と肩とそのほか全部を満遍なく濡らされながら、俺は待っていた。
傘代わりに背の高い木の梢の下に入るけれども、傘の用はあまりなされずに、大粒の滴がしたたり落ちてくる。体は濡れるだけではなく震えてもいた。
「早く来すぎたな……」俺は一人ごちる。まさか急に降りだすとは思っていなかったから傘など持ってきていない。
遠雷の唸る音が聞こえた。俺はさらに震える。そういえば雷のとき木の下にいるのはよくないんだっけ。それで木から離れようかとも考えたけれど、眼前の激しい雨を見て気が変わる。他に雨宿りできそうな所もない。……大丈夫、この木には雷は落ちない。
『あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに』気を紛らわすため、俺は彼女にこんな内容のメールを送信した。
すぐに返信が来た。
『ん、和歌? わたしこういうのわかんないんだよね。あしひきの山ってどこよ? あの場所でいいんでしょ? 妹? 今電車が遅れてるからあと二十分くらいかかるかも。ごめんね。それと傘持ってる?』
俺は苦笑いした。俺の独りよがりな遊びだから仕方がないのだけれど、それにしても彼女の受け取り方がおかしかったのだ。まあ今どき和歌を趣味にする大学生は多くないだろうし、高校の時授業でやっていても大抵は忘れているものなのだろう。
あしひきの山の、「あしひき」とは山にかかる枕詞(決まった語句の前につける決まった言葉)であり特定の場所を示すものではないし、「妹」もおにーちゃんって呼んでくれる妹の事ではなく恋い慕う女性の意である。
この歌の意味はこうだ。「あなたを待っていたら山の滴で濡れてしまったよ」
大津皇子の詠んだ歌である。この歌が今の状況に符合しているようだったのでちょっと拝借してみた次第だ。この歌は会えなくて詠んだものなので、忠実に再現されても困るのだけれど。
この歌に対して(和歌愛好者として)本当に返してほしかったのはこういう文面だ。「我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを」
「わたくしを待っていてあなたが濡れたというその山の滴になれたらいいのに」という意味の、石川郎女からの大津皇子に対する返歌である。
要するにこれらは恋歌なのだ。こんな事を考えている辺り、俺はちょっと色ぼけしすぎなのかもしれない。
『あの場所でいいよ。傘は持ってきてない』自嘲的に笑いながら、俺はメールを返信した。
そして携帯を閉じる。
俺は辺りを見渡す。木々に囲まれた小さな広場。山の中にある十円ハゲのような空間とパラフレーズしてもいい。特に何があるわけでもなく、従って色気もなく、普通のカップルはまずこんな所でデートなんかしないだろう。それでも俺達にとっては思い入れのある場所だった。
雨は一向に止まない。とはいえこれだけ勢いが強いのだから多分にわか雨だろう。というかにわか雨じゃないと困る。ちなみににわか雨は夏の季語。季語は俳句の方だけれど、まあいいか。雨だけじゃなく俺もにわかだ。
雨がだんだんと身体中深くに侵食し、俺を濡れ鼠へと変えていく。俺はいいが携帯が心配だ。携帯は風邪をひきやすいから。
俺は不安げに真っ黒な空を眺める。空にある水が全部落ちてきているんじゃなかろうかというような状態だ。
何もこんな日に降らなくてもいいのにと不平をもらす。逆に雨の方では何もこんな日に待ち合わせしなくてもいいのにと思っているかもしれない。
降りしきる豪雨はこのままいつまでも止まる事がなさそうに見えたが、時が経つにつれ次第に勢力を弱めていった。やがて日差しが雲の隙間から抜け出し、空気の中を満たしていく。
服はこんな有様だが携帯はどうにか無事のようだ。風呂場やトイレで落っことす人達がいるから防水機能も日々改良されているのだろう。世の中のそそっかしいユーザーに礼が言いたくなる。
さて、雨がやんだはいいけど、肝心の彼女の方はいつになったら現れるのだろう。俺は首を長くして待つ。
帰って服を着替えたいけど、その間に彼女がやってくるかもしれない。そのため服をしぼるだけにしておいた。まったく、しづくに立ち濡れぬってレベルじゃないぞ。
「おまたせ! うわ、ずぶ濡れじゃん」ふいに背後から声が聞こえた。驚いて振りかえるとそこには彼女が傘を持って立っていた。グレーの半そでトレーナーとショートパンツ。軽い茶髪のショートヘア。ラフな格好だった。「ビニール傘買ったけどいらなかったね」
嬉しさが胸の中で暴れまわって、小躍りしてしまいそうになるが大人げないのでそこをぐっと抑える。
「ったく大変な目にあったよ。傘買うと止むんだよな、こういう雨って」俺は腕を軽く上げて挨拶する。「杏乃久しぶり」
「うん」杏乃はほほ笑む。「久しぶりっても二週間だけどね」
「二週間ってったら長いぞ。世界情勢めまぐるしく変わるぜ」
「新聞も読まない癖によく言うよ」杏乃は鼻で笑う。「それより服着替えてきたら? それじゃ風邪ひくよ」
「ああ、杏乃はどうする?」俺がそう聞くと、杏乃の表情が一瞬曇った。
「わたしはあんまりこの近くを歩きまわらない方がいいでしょ。ここで待ってるよ」
「そんじゃ、ささっと着替えてくる。先に掘っててもいいぞ」重たい空気にならないように、俺は明るく振る舞う。
「遠慮しとく。重労働はあんたに任せる」
「はっ、軽労働も俺に任せる癖によ」軽く悪態をついてから、俺は家まで走った。
服を着替える時間も惜しくて俺は全力で疾走し、一瞬で着替え、復路をまた全力で走る。おかげで元の場所に戻った時には息も絶え絶えだった。
「そんなに急がなくてもいいのに」杏乃は俺の肩にポンと手を置く。「勝手にどっか行ったりしないからさ」
「ああ」俺は答える。
大津皇子の歌が頭に浮かぶ。
「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに」
大津皇子が想いを寄せた石川娘女は、詳細は不明だが、大津皇子の異母兄であり皇位継承のライバルでもある草壁皇子の妻妾、あるいは想い人だったと言われている。つまり大津皇子と石川娘女の恋は公にできるものではなかったのだ。だからこの歌は、単に恋情を述べただけのものではなく、逢引の歌だったともされている。
「さて、じゃあそろそろ掘りだすとするか」俺はシャベルを握る。
「まだ埋まってんのかなあ」杏乃は言う。「しかし十年か……。早いもんだね」
「ほんとにな。俺なに埋めたか覚えてないんだよな」俺は地面にシャベルを突き刺し、土を抉る。「ほら、もう一個シャベルあるんだから杏乃も手伝えよ」
「あんたも偉くなったよね。お姉ちゃんに指図するなんてさ」
「今更関係ないだろ。姉か弟かなんてさ」俺は言う。「俺の方が賢いし」
「掘った穴にあんたを埋めてやろうか」
大津皇子は後に石川郎女との関係が発露したときこんな歌を詠んだ。「大船の 津守の占に 告らむとは まさしに知りて わが二人宿し(津守の占いに出ることははじめからわかっていた。承知のうえで二人は寝たんだ)」
いい話っぽく書こうとしたけど、別にいい話じゃないので困りました。