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二百年史

匠即位の舞台裏

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/03/28

 日本全国にその種をまき、多くの分家を輩出して拡散していった渡辺家だが、その本流たる哲雄の直系子孫は、早いうちに断絶している。

 初代将軍哲雄から第五代将軍まではまっすぐ系統が続くが、第四代哲宗は長男哲茂以外の息子の多くが病死し、哲茂の子も三十歳以上を越えて生き永らえる子はなく、次々と夭折してしまった。故に哲茂の死をもって、哲雄直系の子孫は断絶する。

 そして、本家に次いで家格の高い、哲雄の伯父獅道を始祖とする獅道家の家長道義みちよし(2128-2160-2185)が本家を継承して哲義ひろよしと改名し、将軍に就任する。

 哲義の後は、息子哲満ひろみつ(2157-2185-2188)が就任する。だが哲満は三年にして死去し、子はやはりいずれも幼少であった。弟の哲元ひろもと(2160-2236)は、哲雄崇拝の神官長をめざしており、将軍継承の意志がなかった。獅道家は早速行き詰まったのである。次の将軍を選定するにあたっては非常に論議があった。もはや二百年前のような、死亡率の低い社会などどこにもなかった。

 渡辺家の始祖である渡辺ただし(1932-2009)の子孫であるという点で、神君長男の子が開いた越部こしべ家から迎え入れる案があったが、折しも越部家は盛松もりまつの死後跡目争いが続いており、議論できる状態になかった。

 そこで白羽の矢が立ったのが当時大蔵省に勤務していた渡辺匠(2143-2188-2213)であった。


 将軍に就任するためには血統ではなく、将軍家という組織に属しているということが重要であった。

 そもそも血筋とは忌まわしい物であった。そもそも哲雄が世襲を望んでいなかった。彼は当時の日本社会において遺伝子が異様に重視されていたことを嫌悪していた。彼の勤務していた特殊鉄鋼にも多くの海外の出身者がおり、哲雄は彼らと親しく交流していた。初期の将軍家の側近にも海外出身者は多く見られる。

 しかし、たとえ民族や人種といった違いを越えることはできても、すでに手に入れた利益を赤の他人と共有できるわけもない。

 将軍という他者に譲渡するわけにはいかない地位を手にし、自身の一族がことごとく貴種とならざるを得なかった時、哲雄はその一族を保つためには何より家に所属しているという意識を親族に育ませる必要があると感じた。家とは何より人間の集まりであり、それが優秀な人間によって構成されていれば、血統や出自は問わない。いや、むしろそれは邪魔なものだ。

 ゆえに哲雄の後継者たちは血筋に拘泥などしなかった。

 彼の中国系のかたな家から妻をめとり、もはや純粋な大和人ではなかったことからもそれはうかがえる。

 だからこそ、遺伝子などではなく、哲雄の意志を受け継ぐ者たちが認めれば、たとえどれだけ血が遠くても渡辺家の一員となり、将軍の就任する権利を持ちえたのである。それこそ匠より後代の哲丈が何ら渡辺家と一切関係がなかったにも関わらず迎え入れられたように。

 社会が破滅の危険に陥り、もはや個人の自由を守り続けることすら危うくなった時、家という概念が復活したのである。そしてそれは、当時としてはある意味合理的な選択だった。

 ただこの共同体は極めて利己的で排他的であることは間違いなかった。この恩恵にすがれなかった者、搾取の対象となった者は命脈を絶たれてしまった。世界中でこの潮流が生じており、21世紀の人口減少はこのような人間の組織化から甚大な量の弱者がとりこぼされたことにも起因する。

 そしてその被害者は他ならぬ渡辺家の中にさえいた。後述するが、将軍家の中に生まれたことで得られる果実を奪われ、恨みを抱いた者による凶行は決して珍しくなかった。


 渡辺匠は、獅道家の血を継ぎ、かつて権勢を誇った渡辺道長の曾孫にあたる。しかし道長の失脚以後、彼の子は零落し、道長の孫啓一けいいち(2120-2181)は市井の中に埋没しほとんど庶人のような暮らしをしていた。したがって匠は、自分の祖父が将軍家に連なる大物であるなどとは全く知らなかった。

 啓一の父であり、道長の子にあたる道治みちはる(2096-2147)はほとんど匠の幼少期に亡くなったので、匠にとってはほとんど縁のない赤の他人であった。道治は六男として生まれたが、他の子のようには愛されず、また父と意見が合わないために家を出て、中流の女性と結婚し、ほとんど実家とは関りを持たなかった。彼は父より数年早く亡くなったが、道長が息子の死をどのように思っていたかは分からない。啓一ですら、

 母方の祖父萩原はぎわら宗太郎むねたろうには、父型の祖父はすでに亡くなったとばかり聞かされていた。

 それでも匠には、統治者としての才覚は確かにあった。飼育係としてかいがいしく兎の世話をして担任に褒められ、のち生徒会長として、校庭の整理を行い、生徒からの信望を集めた。

 その後は官僚を目指し、激しく勉学した。しかし、政治的な野心には乏しく、出世欲も乏しかったので、特に大事が起きるのでもない限りは一生を平凡に終えるつもりでいたのである。

 その匠が、出自を知らされたのは、突如家に届いた哲元の書簡によってである。哲元は、遠い親戚であり、かつ学識の高い彼を、将軍家から遠いからこそ、あえて将軍候補にふさわしいと見込んだのであろう。

 いきなり自身の出自を知らされ、国家を左右する地位に就任せざるを得なかったことの心労は、察して余りある物だ。

 匠は、哲元と直談して、将軍位を継承してもらいたいと説いた。哲元は将軍となるだけの才能があると見込まれていたが、病弱であり、政務をとるには向かないと考えていた。匠は、さらに様々な人物と相談して、越部こしべ盛松もりまつを推挙した。しかし盛松は匠より若いことを理由に辞退した。

 匠は、将軍への就任するかどうかを選ばされた。そして、将軍になることを選んだ。

 獅道家の家長には哲辰ひろたつが就任した。

 哲元は、神祇官となってからもしばしば匠と政治に関する相談を受け持った。

 将軍となってからも匠が『哲』の通し字を継承しなかったのは、彼が元から海外での経験が豊富であり、権威というものに疑念を抱いていたからだ。側近からの提案によれば『哲隆ひろたか』のような改名案があったらしい。それを拒んだだけでも匠は異例の将軍と思われていたが、中でも彼が哲雄を伝説の英雄ではなく実在の人物として批判的に語ったことである。

 しかし匠もまた将軍としての先例にある程度は従わざるを得なかった。数少ない血族が権力を占有する慣例にならって刀家の名士、刀養太郎ようたろう(2136-2209)の娘めぐみをめとる。

 この時代、刀家は渡辺家の片腕とも呼べる一族となっており、彼らを政治の中心から外すなどもはや将軍にとっても不可能であった。階級によって分かたれた社会体制はよく言えば安定だが、悪く言えば停滞であった。

 23世紀に入り、哲雄以降の体制が盤石になり、国民はもはやこれ以外の社会の営みを知らなかった。世界では依然として激動が続いていたが、日本ではたゆまぬ努力によって規則によって構築されていた社会が維持されていた。だが匠にとってはそれはむしろ後退につながりかねないという危惧があった。

 世界では再び個人主義の勃興があり、その個人の自由を実現するための民主制への期待が高まっていた。

 匠はこの変化に対応するため、民主主義を研究するための組織「民政期成研究会」を立ち上げた。これは後代の将軍の治世になっても存続し、民主共和国成立のための牙城となった。その結成式において、匠は第二次立憲君主制時代の繁栄を再び実現すべく、言論の自由を訴えた。

 その際「神君の御意思は可変か?」という議論が宗教者の間で巻き起こった。これに対し哲元は哲雄の生前の言動を引用して「可変である」という意見を出し、この国家の政治体制その物を変える改革に前向きな世論を呼び起こそうとした。匠に用いられた学者木梨きなし牧三まきぞう(2141-2223)は、憲法内に記されている国民の権利に関する条項の改正を求めた。


 しかし、民衆は現実の生活に関しては概して保守的であり、必ずしも匠の意向に肯定的ではなかった。

 2196年から2197年にかけて、民主運動家をつるし上げる運動が民衆の間から起きた。これはたちまち、将軍の近くで民主制に関わる研究を行う者への糾弾にもつながった。匠は、しばしばこのような批判を止めるため禁令を発したが、民衆は運動をなかなかやめようとはしなかった。木梨もこの糾弾の対象となった。

 だが歴代の将軍の努力によれば、かなりの程度市民社会の成熟の成果があることを匠は認識していた。

 しかしそれは伝統墨守の立場をとる情報局にとって、反体制派をあぶりだすための手段ともなった。情報局がこうして明るみに出た反体制を逮捕し拷問する事件を起こした時、匠は、長官を叱責した。しかし情報局はその機密性の高さゆえに、将軍でも干渉できる余地には限りがあった。


 国家の悪習を、将軍一人がどうにかするにはあまりにも障壁が多すぎた。

 刀家や佐藤家などの有力氏族も、これまでの価値観を深く内面化した強い将軍を望んでおり、革新志向の将軍など望んでいなかった。

 だが匠はめげなかった。国際情勢を見ても、これまでの世相を維持することが困難であることを彼は知っていた。そしてその世相を打開するためには学問の自由を追求した。

 匠はそれまで国家の神話として批判的な研究が慎まれてきた哲雄関連の歴史研究の自由化を推し進めた。

 当時のどの家庭でも、哲雄は神的存在として崇められてきたから、将軍自身がそのように先祖を否定するような発言をすることは喜ばれなかった。故に、中には匠を将軍として片手落ちだとみなす者もいた。

 しかし匠は、直接自分が国民を助けなければ信頼を得ることはできないと考えていた。

 2193年、匠は旅先で出会った病人を、正体を明かさずに介抱する。このようなことも、将軍としては考えられない奇行であった。これに対して、匠は哲雄がしばしばお忍びで市井の人々と交流したことを引き合いに出し、自分の行いを擁護した。

 将軍がいることが当然の現実となり、将軍家への畏敬が親愛に変わりつつある時代を象徴する出来事だった。


 しかし匠は、哲雄の血を引くものとして、先祖への崇敬には十分に配慮した。

 2199年六月、宮城で地震があった際は現地の神君祠の再建に多くの資金を擲った。

 2200年、養太郎の息子で恵の兄である日恒ひびつねと共同で、将軍家の一族の結束を固め、彼らの生活を改善するための会議を開いた。全国の神君崇拝施設の改修、同族たる越辺家や三辺家の暮らし向きを改善し、一族の福祉のために財を擲った。

 哲元は、匠の政治手腕を称えながらも、時として過剰な反権威的な性格には必ずしも肯定的ではなかった。

 23世紀に入ると、次第に多様な価値観が広がり、将軍家の権威性は低下しつつあった。世代間の分断が顕在化していた。

 匠は市民のうかがい知ることができない神秘的な存在、厳格な君主ではなく、より人間的な情味を備えた人間としてふるまうことを好んだ。もっともこれは彼から始まったものではなく、すでに哲宗以後の将軍がとっていた姿勢ではあったが、匠はさらにそれを推し進めた。将軍家の家庭内の様子が公開されるようになったのも彼の代からだ。これには無論将軍家の仲睦まじい様子こそが最も市民の目指すものである、というプロパガンダ的な意味合いもあった。

 そしてそこには将軍の継承者を絶やさないという意味もあった。しかし、将軍家はなお窮地にあった。将軍家の一族があまりに広がったにも関わらず、将軍にふさわしい地位の高い者は不足していたからである。将軍家の分家があまりにも増えた結果、もはや渡辺哲雄の子孫であるというだけでは何のアドバンテージにもならなくなっていた。匠が将軍となれたのはあくまでも異例の事態であり、先代将軍から遠い者を即位させることを慣例にしてはならない、という認識が誰にでもあった。匠の出世を妬む者は、哲雄の末裔にいくらでもいた。

 末端の血族、もはや貴種とは名ばかりの困窮した者ならばなおさらだ。そしてそのような人々から反逆ののろしが上がった。

 2207年、将軍哲宗の血筋に属する渡辺哲郷ひろさとが長野県で蜂起する。彼は500名あまりの同志と共に役所を乗っ取り、警官と激しく抗争したがついに捕えられた。

 血統からすればより哲雄に近い自分こそが本来将軍に即位してしかるべき人間だったと主張した。

 哲雄の名の元で将軍に盾突くという異例の事態に国中は騒然とした。

 これは将軍家の血族による紛争という意味を越え、哲雄が生の人間としての記憶から離れ、いよいよ抽象的な存在になりつつあることを示唆していた。

 渡辺匠は、この事件によって大きな衝撃を受けた。確固としたものと信じられた将軍家の結束が揺るがされたことである。将軍家の人間は決して内乱など起こさないという信仰が、それまでは人々にはあった。確かに他の将軍を立てようとする反乱沙汰はこれまでもあったが、それは下の人間が他の将軍候補を担ぎ上げるという形式をとっており、将族自身が反乱を起こすなど前代未聞のことだった。

 哲雄の代理人であるはずの将軍の権威が、汚されたという印象を与えたからである。

 もはや将軍その物が絶対的な為政者から実権を握る者が便利に利用する権威となり、ついに下々の者の間で将軍という絶大な地位の奪い合いが来るのではないかという危惧だった。

 体制の転換が必要なことは明らかだった。


 2210年から匠の容態は悪化した。

 死期が近いことを悟り、また子がいなかったのもあって、再び匠は次の将軍を決める議論を開催することにした。

 越辺家の他、三辺みべ家からも次代将軍に名乗りを上げるものがいた。だがどれもが、保守的な性格を帯びた人物でもあった。匠は自分と同じ意志を持つ者が少ないことに、内心孤独を感じていただろう。

 しかし、教団の意向が非常に物を言った。将軍こそ最も哲雄を敬愛し、哲雄のやり方を踏襲する人物でなければならないという意見が教団から出た時、匠ですら彼らの声の大きさを抑えることができなかった。哲元の子哲範は当時最高神祇官の役職を継ぐものとされていたが、将軍に推挙されたことですぐ教団から脱退し、このゲームに勝利するため父と共に策謀をめぐらした。この際哲郷も再び将軍の地位を願ったが、もはや人々は敗北者としての彼に誰も関心を向けるものはいなかった。

 2213年九月八日、匠は中部地方を巡回中、心臓発作で亡くなった。

 彼は葬儀に際して規模は小規模にし、神となる儀式を行わないよう遺言に記していたが、彼の意志に反して葬式は盛大に行われた。

 教団は、哲幸が定めた規律に基づいて匠を葬ったまでだった。 匠の死後、哲範はすぐ追悼演説を発し、多くの人々の心をつかんだ。匠の功績を口では肯定はしても、哲範は極めて保守的な人物であり、匠が変えたことを元に戻すことを約束していた。

 激しい政争の末果たして、哲範が将軍位を継ぐ。

 周知のとおり哲範は、匠に反して復古的な政治を行い、民主共和国からは蛇蝎のように嫌われているが、それは無理なからぬものだった。

 匠時代、開放的な生活を映した写真が当時の社会を語るものとして伝わるが、それは関東一円の様子に過ぎず、地方においては旧態依然とした生活が続いたのである。そして国民議会では『貧困層の生活を重視せよ!』という批判の声がしばしばあがった。匠の時代は、あまりにも安定し凝り固まった体制を瓦解させるにはあまりに早く、そして短かった。

 だが匠の行動は決して無駄ではなかった。彼の成し遂げた改革は長い時間を通して、不可逆の変化へとつながった。

 彼の治世のうちに民主共和国への道のりが確かに敷かれつつあった。

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