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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 8:静かな寝室と、最後の授業~

 如月本邸で起きた『クリスタル消失事件』を鮮やかに解決してから、数ヶ月の月日が流れた。


 月見坂市の街路樹からは完全に緑が消え失せ、新市街では最新の融雪システムが、地上に雪の一片すら許さぬよう地下で静かに、かつ執拗に唸りを上げ始めている。しかし、再開発という名の選別から取り残された旧市街には、容赦のない冬の寒気が建物の隙間から忍び込み、何十年もこの街を支えてきた古い木材を無慈悲に凍えさせていた。


 瑠璃の『秘密の道草』は、今や彼女の日常における欠くべからざる聖域となっていた。専属ボディガードである黒田は、もはやサンルームからの脱走劇を止めるという無謀な試みを完全に放棄し、代わりにいかにしてコンツェルンの監視網に悟られずに旧市街までを往復するかという、隠密輸送のプロフェッショナルとしての不本意な技術を磨く羽目になっていた。だが、瑠璃がこれほどまでに頻繁に旧市街へと急ぐ理由は、かつてのような知的な飢餓感や好奇心だけではなかった。


 山内かえでの体調は、冬の訪れとともに、まるで枯れ葉が地面に吸い寄せられるかのように急速に悪化していた。

 以前は土間まで出迎えに来て、シワだらけの顔を綻ばせていた彼女も、今では奥の和室に敷かれた、使い古されて薄くなった綿の布団から、指一本動かすことさえ困難なほどに衰弱していた。

 瑠璃は、黒田を土間に待機させると、慣れた足取りでかえでの枕元へと向かった。


 部屋の空気は、以前よりもずっと重く、静まり返っている。


 チクタク、チクタク。


 壁に掛けられた古い振り子時計の音だけが、まるでお迎えを待つかのように、冷徹なリズムで時を刻んでいた。その規則的な振動は、かえでの細く、不規則になり始めた呼吸の音と残酷な対照を成し、この空間が今まさに『終わり』というルーツに向かって収束していることを告げていた。


「……おばあちゃん。来たよ。瑠璃だよ」


 瑠璃は座布団を敷かずに、冷え切った畳の上に直接膝をついた。

 かえではゆっくりと、まるでまぶたの裏にこびりついた永遠の闇を振り払うかのように、重たそうに瞼を持ち上げた。その白く濁った瞳は、もはや目の前にいる少女の姿を光として捉えることは叶わないはずだった。しかし、彼女は瑠璃特有の、冷たく澄んだ、しかし命の熱を帯びた気配を敏感に感じ取ると、骨のように細くなった右手を、布団の外へと這うようにして伸ばした。


「……おお、瑠璃ちゃんか。よう……よう来てくれたのう。……今日も、新市街の方は、真っ白で綺麗なんじゃろうな」


 その声は、秋に聞いた時よりもさらに掠れ、古ぼけた紙が微風に擦れるような頼りなさだった。

 瑠璃は、かえでの冷え切った、それでいてどこか硬質の意志を感じさせる指先を、自分の小さな両手で包み込んだ。


 五歳の瑠璃にとって、『死』という概念はまだ、図鑑の片隅に記された生物学的な定義でしかなかった。心臓というポンプが活動を停止し、呼吸が絶え、脳波がフラットになること。だが、目の前に横たわるかえでの肌の、まるでもうすぐ土へと還ることを予感させる乾いた質感。そして部屋を満たしている『機能が失われていくモノ』特有の、あの静かで、しかし力強い不純物の匂い。

 瑠璃の鋭敏な鑑定眼は、かえでという一人の気高き人間のルーツが、今まさに最終章の一行を書き終えようとしていることを、痛いほどに正確に、そして冷徹に看破していた。


「おばあちゃん、お水飲む? 黒田に頼んで、新市街から美味しいものを持ってこさせようか」


「いや……ええんじゃよ。水よりもな、瑠璃ちゃんに……最期の、大切極まる『授業』をしておかんといけんと思っておったんじゃ」


 かえでは、瑠璃の手を握る指に、微かな、しかし断固とした力を込めた。

 それは、今にも消え入りそうな命の灯火を最後の一滴まで振り絞って、自らの魂と哲学のすべてを瑠璃へと受け渡そうとする、峻厳なまでの師匠の意思であった。


「瑠璃ちゃん。お前さんは、もう十分に『モノの裏側にあるルーツ』を見抜く術を覚えた。……本邸で起きたあの騒ぎも、お前さんの目には、単なる子供のわがままではなく、人間の心が生み出した『不純な歴史』として、はっきりと見えたはずじゃ。お前さんは、わしの教えを……砂場の卵焼きの意味を、誰よりも深く理解してくれた」


 瑠璃は黙って頷いた。あの日、カーテンの裏に落ちた焦げたリボンを見つけた時に感じた、あの脳髄を痺れさせるような感覚。それは、モノが持つ物理的な機能や価値を超えた、その裏側に潜む『人間の真実』に触れた喜び。不純物こそが本質であるという、倒錯した真理への到達だった。


「じゃがな、瑠璃ちゃん。……これだけは、決して忘れてはならん。ルーツというものはな、ただ他人の嘘を暴き立て、正解を導き出すための便利な道具ではないんじゃよ。……モノのルーツにはな、人間のどうしようもない愚かさと……そして、それ以上に切実で、哀れで、愛おしい『愛』が詰まっておるんじゃ」


 かえでは一度、肺を絞り出すように苦しげに咳き込んだ。

 瑠璃はかえでの背中を支えようとしたが、かえではそれを手で弱々しく制し、自らの言葉に瑠璃の意識を繋ぎ止めるように、さらに言葉を重ねた。


「人はな、傷つくことを恐れる。誰からも後ろ指を指されぬよう、完璧でありたいと願う。如月の人間なら、なおさらじゃろう。……じゃがな、瑠璃ちゃん。本当に極上の、魂を震わせる価値というものは、その完璧さが無残に壊れた瞬間にこそ、初めて宿るものなんじゃ。……誰かのために、自分を犠牲にしてついた傷。守りたかったからこそ生まれてしまった、歪な凹み。……それらは、新市街の美しい大人たちの目には、美しさを汚す忌まわしい不純物としか映らんかもしれん。じゃが、その不純物こそが、そのモノがこの不条理な世界で確かに『生きた証』そのものなんじゃよ」


 かえでの白濁した瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ、年季の入った枕を深く濡らした。

 それは、モノを、そして人を慈しみ続けてきた彼女の人生の重みが、ついに溢れ出したかのような、透明で美しい不純物だった。


「瑠璃ちゃん。……お前さんは、これから先の長い人生で、数えきれないほどの『ありえないモノ』に出会うじゃろう。新市街の冷たい大人たちがゴミとして切り捨て、廃棄ドローンに詰め込むような、汚れ、歪み、見放されたモノたちにな。……その時、お前さんだけは、その気高い瞳を逸らしてはいかん。……モノが放つ違和感の向こう側にある、人間の温かい血の通った、泥臭いルーツを見つけておくれ。……誰にもその存在を聴いてもらえんかったモノたちの、本当の声を……お前さんが、鑑定士として、最期まで聴いてやっておくれ」


 それは、如月コンツェルンの令嬢としてではなく、一人の孤高なる『鑑定士』として、瑠璃の幼い魂に託された、終生解けることのない呪いであり、そして最高の祝福であった。

 五歳の瑠璃は、かえでの言葉の断片さえも一滴たりとも漏らさぬよう、全身の毛穴を開くような感覚で、その遺言を魂に吸い込んでいた。

 

 モノには、感情がある。

 それは声帯を持たず、言葉を発することはないけれど、そこに刻まれた傷や、経年による汚れ、そして『あるはずのない場所にある』という矛盾した事実そのものが、そこに介在した人間の想いを、絶叫に似た叫びで放っているのだ。

 その叫びを真に聴き取れるのは、新市街の高性能AIでも、利益の数字だけを追う退屈な大人たちでもない。

 この世界を『不純物』という名の、あまりにも愛おしいフィルターで眺めることのできる、自分ただ一人なのだと、瑠璃は激しい使命感とともに深く理解した。


「……うん。分かった、おばあちゃん。……私が、全部見つけるよ。どんなに小さな傷も、どんなに巧妙に隠された嘘も、全部見つけて、その裏にある本当の……本当の物語を、私が聴いてあげる。誰にも内緒で」


 瑠璃の震えるような誓いを聞き届けると、かえでは満足そうに、その枯れ木のような口端をわずかに震わせ、微かな笑みを見せた。

 

「……ああ。それでええ。……瑠璃ちゃんなら、それができる。……お前さんは、わしの……わしの、生涯最高の……たった一人の、弟子じゃ……」


 かえでの手の力が、ふっと、潮が引くように抜けた。

 彼女は再び、深く、そして永遠に目覚めることのないかのように穏やかな眠りへと落ちていった。

 

 瑠璃は、かえでの細い手を布団の中に戻し、まるでお気に入りのドレスを扱うように、丁寧に毛布を掛け直した。

 そして、部屋の隅にあるあの、不純物の詰まった木箱を見つめた。


 四時十七分で止まった凹んだ懐中時計。

 母親の愛によって音が欠けたオルゴール。

 廃棄されたメロンから抽出された甘美な思い出。


 それらはもはや、瑠璃の目には決して『ガラクタ』とは映らなかった。

 かえでの慈愛に満ちたルーツの語りによって、それらは新市街の豪華な宝石箱に眠るどんな一級品のダイヤモンドよりも、眩い、しかし静かな光を放つ『生きた歴史』へと完全なる変貌を遂げていたのである。


 瑠璃は、窓の外から差し込む、冷たく澄み切った冬の月光を見上げた。

 山内かえでという、一人の人間の命のルーツが、今まさに静かに終わりを告げようとしている。

 しかし、彼女がこの小さな五歳の心に植え付けた『鑑定』という名の種は、すでに凍てつく大地を突き破り、誰にも、如月の権力をもってしても止められないほど強固な根を張り始めていた。


(……おばあちゃん。私、もうこの街で迷子になることはないよ)


 完璧な管理社会という、巨大で空虚な檻の中で、自分だけが『真実の世界』の手触りを知っている。

 その孤独ですら、瑠璃にとっては極上の誇りであり、生きるための糧だった。

 

 かえでとの、最後の授業。

 それは、五歳の少女に『鑑定士』としての慈悲と、世界をあるがまま、不純物ごと見通すための恐るべき勇気を授けた、神聖な継承の儀式となったのである。


 土間の隅で、時折こみ上げる感情を抑えるように鼻をすすりながら立っていた黒田は、寝室から音もなく出てきた瑠璃の姿を見て、思わず背筋に冷たいものが走るのを感じ、息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、わずか三十分前まで、『一人で抜け出されたくなければ協力しろ』と自分を生意気に脅していた、あの幼い令嬢の面影ではなかった。

 まるで、数千年の悠久の歴史をその小さな身に宿し、すべてを裁定する権利を得たかのような、静謐で、それでいて圧倒的な重圧を伴った『異質の存在』が、そこには確かに立っていたのである。


「……帰るよ、黒田。おばあちゃん、もうすぐとても遠い、長い旅に出るから。これ以上、騒がしくして邪魔をしちゃいけない」


 瑠璃の声は、ひどく落ち着いていた。

 彼女は一度も振り返ることなく、夕闇と冬の冷気に包まれ始めた旧市街の路地へと、真っ直ぐに歩み出した。

 

 完璧な、死。


 それは、山内かえでが最後に、全身全霊をもって瑠璃に見せてくれた、最も純粋で、最も尊い『人間のルーツ』の一つの完成形であったのかもしれない。



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