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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 7:『小さな探偵と、初めての鑑定』~

 山内かえでから【砂場の卵焼き】という、一見するとシュールな、しかし深遠な問いを投げかけられたあの日を境に、五歳の如月瑠璃の視界は、不可逆な劇的変貌を遂げた。

 それまで彼女にとっての『世界』とは、二つの隔絶された領域でしかなかった。一つは、如月本邸という、塵一つ、嘘一つ、そして不規則な揺らぎ一つさえも許されない完璧な無菌室。もう一つは、旧市街という、カビと埃とガラクタにまみれた、理解不能な『異界』である。


 しかし、かえでの教え——すなわち『ありえない場所に、ありえないモノがある時、そこには人間の強烈な不純物が介在している』という真理を知った瞬間、その二つの世界は重なり合い、無数の『伏線』が張り巡らされた壮大なミステリーの舞台へと塗り替えられたのである。


 如月本邸。そこは新市街の頂点に立つ者が住まう、機能美と静寂の極致である。

 最新鋭の環境制御システムが呼吸するように空気を入れ替え、数百人の訓練された使用人たちが、主の影すら踏まぬよう沈黙を守って立ち働く。そこには『違和感』などという無作法なものが入り込む隙間はないはずだった。だが、今の瑠璃の目には、その完璧な静寂の下で蠢く、大人たちの卑俗な感情や、些細な自己保身、あるいは隠しきれない虚栄心といった『不純物』が、まるで暗闇の中に浮かぶ蛍光塗料のように鮮明に見えていた。


 その『事件』が起きたのは、月見坂市が本格的な秋の深まりを見せ、庭園の木々が人工的な管理下で、一分の狂いもなく完璧なグラデーションで紅葉を始めた、ある火曜日の朝のことだった。


「……ない。どこにもないんだ! あれはただの置物じゃない、十九年前、月見坂の建都と同時にこのホテル・セレーネが産声を上げた際に授かった、如月家の歴史そのものなんだぞ!」


 ダイニングルームに、父・如月彰の怒声が響き渡った。

 朝食のテーブルの中央、特等席に鎮座しているはずの、如月コンツェルンの象徴を模した特注のクリスタル製ペーパーウェイトが、台座だけを残して忽然と姿を消していた。

 彰にとって、それは単なる贅沢品ではなかった。来年には建都二十周年という、街にとってもグループにとっても最大の節目を控えている。十九年もの間、如月家の書斎やダイニングの特等席で街の成長と一族の繁栄を見守ってきたその宝物が、二十周年という記念すべき日を目前にして消えることは、冷徹な経営者である彼にとって、耐え難い『不吉な呪い』のように感じられたのだ。


 周囲にガラスの破片が散らばっている様子もなく、窓の赤外線センサーも一切反応していない。監視カメラの記録にも、深夜の不審な人影は映っていなかった。つまり、外部からの侵入者の仕業ではなく、この完璧に守られた『城』の内部、信頼すべき家族か使用人の誰かが持ち出したということになる。

 彰の剣幕に、使用人たちは蒼白な顔で立ち尽くし、母の菫もまた、困惑した表情で何度もダイニングテーブルの周囲を調べ直していた。

 その時、ダイニングのソファに座っていた九歳の姉・翡翠が、まるで堰を切ったように激しく泣き出した。


「うわぁぁん! 泥棒よ! 昨日の夜、瑠璃の部屋の窓が開いてたのを私、見たわ! きっとそこから悪い人が入って、パパの大事な宝物を盗んでいったんだわ!」


 翡翠は顔を真っ赤にし、お気に入りのクッションに顔を押し当てて激しく嗚咽を漏らした。

 九歳にして、彼女は『自分が窮地に陥った際、より弱く、より無防備な妹に罪を転嫁し、涙という安っぽい不純物で周囲の同情を買う』という、極めて高度で卑怯な処世術を身につけていた。翡翠にとって『妹』とは、自分が光を浴びるための影であり、都合のいいスケープゴートに過ぎない。

 実際、彰と菫の意識は、翡翠の巧妙な叫びによって、一瞬にして五歳の瑠璃へと向けられた。愛娘の安全が脅かされたかもしれないという恐怖と、犯人を特定したいという焦燥。大人たちの目は、パニックと身内への過保護というバイアスによって、瞬く間に曇り始めていた。


「黒田! すぐに瑠璃の部屋の監視カメラの記録を秒単位で洗え! それから周辺の警戒ドローンをすべて呼び戻し、旧市街に至るまでの不審者を特定しろ!」


 彰が机を叩いて叫ぶ。ボディガードの黒田が、悲鳴のような返事をして走り出そうとした、その時だった。


「……見苦しいよ、お姉ちゃん。嘘をつくなら、もっと完璧に、自分の周囲の不純物を拭い去るべきだったね」


 ダイニングの騒乱を、鋭利な外科手術用メスのような声が切り裂いた。

 全員の視線が、部屋の隅、大きな図鑑を膝に乗せたまま一度も顔を上げていなかった瑠璃へと集まった。

 五歳の瑠璃は、騒ぎ立てる大人たちや、醜く顔を歪めて泣き叫ぶ姉を、まるで行儀の悪い猿の群れでも観察するような、絶対零度の冷徹な瞳で見つめていた。その瞳には、五歳の子供が持つべき『怯え』も『不安』も存在しない。あるのは、ただ一つの真理を看破した者の、残酷なまでの確信だけだ。


「瑠璃、何を言っているんだ。今はこの家の安全を確認するのが先決だ、お姉ちゃんの言うことが本当なら……」


「パパ、落ち着いて。泥棒なんてどこにもいないよ。そんなデータの数字やカメラの記録を追う前に……この部屋に残された『違和感』を、ちゃんと見て」


 瑠璃はゆっくりと立ち上がると、フリルの付いた小さな靴で、重厚な大理石の床をコツ、コツと一定のリズムで鳴らして歩き出した。その歩調には一点の迷いも、揺らぎもない。

 彼女が向かったのは、ダイニングの北側、庭園に面した大きな窓を覆う、重厚なベルベットのカーテンの前だった。

 その足取りは、もはや五歳の子供のそれではない。それは、迷える衆生を導く聖者か、あるいは獲物を追い詰める捕食者のそれだ。


「お姉ちゃん。お姉ちゃんは昨日、パパのペーパーウェイトを持ち出した。庭で一人で遊ぼうとしたんだよね。太陽の光をクリスタルに透かして、七色の虹を作るんだって、本で読んだから」


「な、何を……っ! 私はそんなことしてない! 嘘よ、全部瑠璃のデタラメよ! パパ、信じないで!」


 翡翠の声が裏返り、防衛本能によるヒステリックな響きを帯びる。だが、瑠璃は止まらない。かえでから教わった『ルーツを辿る思考』が、彼女の脳内で完璧な論理の糸を紡ぎ、逃げ場のない檻を構築していた。


「パパ。このカーテンの裾の、一番下の折り目をよく見て。ここに、一つだけ『ありえない不純物』が落ちてる」


 瑠璃が、白手袋をはめた小さな指で指差した先。

 そこには、翡翠が普段から「世界で私にしか似合わない」と豪語し、誇らしげに身につけていた最高級シルクの『髪飾り(リボン)』が落ちていた。

 しかし、そのリボンはかつての輝きを失っていた。中央の結び目付近が、無残にも黒く焦げ、溶けたような不気味な跡をつけていた。まるで、そこだけが別の時間に焼き切られたかのように。


「お姉ちゃんが窓際でクリスタルをいじっていた時、ちょうど夕方の強い西日が差し込んだ。十九年間磨き続けられたあのクリスタルが、レンズの役目をして、お姉ちゃんの髪飾りに光を一点に集めちゃったんだ。……『収れん火災』。リボンから煙が出て、お姉ちゃんは熱くて、怖くて、それを頭から引きちぎって放り投げた。その時、リボンがカーテンの裏に転がり込んだんだよ。……違う?」


 彰が膝をつき、震える手でそのリボンを拾い上げる。

 十九年前、月見坂の誕生を祝して作られた、純度の高いクリスタル。それが皮肉にも『光の不純物』を集め、如月家の長女の虚栄心を焼き切ったのだ。

 そして瑠璃は、もはや呼吸をすることさえ忘れて固まっている姉を、冷酷なまでに追い詰めていく。


「驚いたお姉ちゃんは、パパに怒られるのが怖くて、熱くなったクリスタルをそのまま庭の池に投げ捨てた。水の中に沈めて、自分の失敗というルーツを消そうとしたんだ。……でも、お姉ちゃん。自分の体についた不純物を隠すのを忘れてる」


「な、何よ……! もう何もないわよ、何も!」


「あるよ。お姉ちゃんの右手。さっきからずっと、テーブルの下で隠してるでしょ」


 瑠璃の視線が、翡翠の右手に突き刺さる。

 翡翠は顔を引き攣らせ、反射的に右手をさらに奥へと、見えない闇の中へと引っ込めようとした。だが、異変を察知した彰がその手を強引に掴み、冷たいテーブルの上へと引きずり出した。


「……っ!」


 そこにいた全員が、息を呑んだ。

 翡翠の掌には、赤く腫れ上がった、痛々しい火傷の跡が残っていたのだ。

 リボンが燃えた際、あるいは熱を帯びたクリスタルに触れた際についた、動かしがたい『真実の痕跡』。隠そうとすればするほど、その赤みは残酷なまでに彼女の罪を雄弁に物語っていた。


「今朝、お姉ちゃんが一度も右手をテーブルの上に出さなかったのは……大好きなはずのパンをちぎるのも左手を使っていたのは、それがバレるのを恐れたから。……おばあちゃんが言ってたよ。ありえない場所にありえないモノがある時、そこには必ず、人間の隠したい不純物があるって。カーテンの裏に落ちた焦げたリボン。それは、お姉ちゃんの嘘を証明するための、最高に綺麗な鑑定書だよ」


 ダイニングルームに、暴力的なまでの静寂が訪れた。

 九歳の姉の巧妙な嘘。大人たちがパニックで目を曇らせ、私設軍隊まで動かそうとしていた騒動の真相を、わずか五歳の少女が、現場に落ちた一切れのリボンという『違和感』から、完璧に逆算してみせたのだ。


「う、うわぁぁぁぁぁぁん!! パパぁ! 違うの、違うのぉ! 瑠璃が、瑠璃が意地悪して私を追い込んだからぁぁぁ!」


 もはや嘘が通じないと悟った翡翠は、床に座り込み、今度は『罪を認めた上での哀願』としての涙を流し始めた。それは、妹の冷徹な知性に対する恐怖の叫びでもあった。

 だが、その泣き声を聞いても、瑠璃の心は一ミリも動かなかった。


(……浅い。お姉ちゃんの涙には、本当の血が通ったルーツがない。ただ、自分が助かりたい、罰から逃げたいというだけの、濁った不純物だ)


 瑠璃は、醜く顔を歪めて泣く姉を、絶対零度の眼差しで見下ろしていた。

 自分の中に芽生えた、この圧倒的な思考の力。

 新市街のAIが算出する統計データや、監視カメラが捉える断片的な記録などよりも、はるかに鋭く、世界の裏側に隠された『人間の真実』を暴き出すことのできる、この『目』。

 彰や菫、そして誰よりも黒田が、自分を見る目が根底から変わったのを、瑠璃は肌で感じていた。それはもはや、愛でるべき『可愛い娘』を見る目ではない。自分たちの理解を遥かに超えた、底知れぬ『知性の怪物』に対する、畏怖と戦慄の混じった視線だった。


「……パパ。クリスタルは池の噴水の左側、ちょうど大きな石の陰に沈んでるよ。泥を被る前に回収すれば、十九年の歴史に汚れはつかない」


 瑠璃はそれだけ言い残すと、膝の上の図鑑を抱え直し、朝食に一口も手をつけることなく席を立った。

 自分の論理が、混乱する大人たちを平伏させ、隠された悪意を白日の下に晒したという事実。その時感じた、背筋が凍るような、しかし脳を震わせるほど甘美な充足感。

 

 これが、おばあちゃんの言っていた『ルーツを見る』ということ。

 これが、この不純物に満ちた世界を、私のルールで支配するための、唯一無二の剣。


 瑠璃は自室へと戻る廊下を歩きながら、窓の外に広がる完璧な庭園を見つめた。

 そこには、まだ見ぬ未知の『違和感』たちが、声なき叫びを上げながら彼女に見つけられるのを待っている。もっと見たい。もっと暴きたい。この世界には、あの黄色い卵焼きのような、あるいは焦げたリボンのような、人間の愚かさと愛しさが煮詰まったルーツが、星の数ほど眠っているはずなのだから。


 五歳の如月瑠璃にとって、これが人生で初めての『鑑定』であり、のちに世界を震撼させる絶対君主としての、最初の覚醒となったのである。



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