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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 6:砂場の卵焼きと、違和感の正体~

 月見坂市に、少しずつ秋の気配が混じり始めていた頃。

 新市街の街路樹は、AIが土壌の栄養素と水分量を完璧にコントロールしているため、季節の移り変わりを示す枯れ葉一枚すら路上に落とすことはない。常に最適な緑色を保つその景色は、まるで精巧に作られたプラスチックのセットのように無機質だった。


 しかし、瑠璃が黒田を脅迫して通い詰めている旧市街の景色は違った。アスファルトの隙間から生えた雑草は茶色く枯れ始め、どこかの家の庭先で焚かれている落ち葉の煙が、夕暮れの空に郷愁を誘う匂いを漂わせている。


 この数週間、瑠璃は週に二回のペースで、完璧な管理の檻を抜け出しては山内かえでの古い家屋へと『秘密の道草』を繰り返していた。

 専属ボディガードである黒田の胃壁は、令嬢の極秘脱走を手引きするという極度のプレッシャーによって悲鳴を上げ、彼は最近、食事のたびに大量の胃薬を水で流し込むようになっていた。九歳の姉・翡翠は、瑠璃が時折見せる『大人のような達観した目つき』に本能的な薄気味悪さを感じたのか、以前のようにあからさまな嫌がらせをしてくる回数が減っていた。


 瑠璃の内面は、あの古びた和室で『極上の不純物』の哲学に触れるたび、劇的な進化を遂げていた。

 新市街に溢れる完璧なモノたちには、もはや一ミリの興味も湧かない。それらはただ工場で生産され、汚れる前に廃棄されるだけの『死んだ物質』だ。瑠璃が求めるのは、人間の愚かさや愛情という不純物が混ざり込み、傷つき、凹み、世界でただ一つのルーツを獲得した『生きている歴史(モノ)』だけになっていた。

 本邸での退屈な時間は、すべて旧市街へ行くためのカモフラージュに過ぎない。今の彼女の本当の世界は、あのカビ臭い土間と、振り子時計の音が響く六畳間にしかなかった。


 その日の午後も、瑠璃は黒田を土間の隅に直立不動で立たせたまま、かえでと向かい合って座布団の上に座っていた。

 目の前には、いつものように濁った薄緑色の魔法——廃棄された傷物のメロンから作られた、極上のメロンクリームソーダが置かれている。

 ストローで甘い炭酸を吸い上げながら、瑠璃は目を輝かせてかえでの言葉を待った。今日はどんな『壊れたモノ』の物語を聞かせてくれるのだろうか。


 しかし、白く濁った目を細めて微笑むかえでの口から出たのは、いつものような昔話ではなかった。


「瑠璃ちゃん。今日はな、わしから物語を話すんじゃなくて……瑠璃ちゃんに、一つ『謎解き』をしてもらおうと思うんじゃ」


「謎解き? クイズ?」


「そうじゃな。瑠璃ちゃんが、モノのルーツを見る『目』をどれくらい養えたか、おばあちゃんが少しだけテストをしてあげるんじゃよ」


 瑠璃は、ピタリとストローから口を離した。

 五歳の少女の顔から子供らしい無防備さが消え、代わりに、底知れぬ知的好奇心に満ちた、恐ろしく冷ややかで理知的な瞳がすっと細められた。


「……いいよ。何でも答えてあげる。パパの書斎にある百科事典だって、もう半分は暗記してるんだから」


「ほっほっほ。事典の知識なんて、人間の不純物の前では何の役にも立たんよ。……ええか、瑠璃ちゃん。よーく想像してみなさい」


 かえでは、杖を傍らに置き、シワだらけの両手を膝の上で静かに組んだ。

 そして、まるで魔法の呪文を唱えるかのように、ゆっくりと、低く穏やかな声で語り始めた。


「ある日のことじゃ。瑠璃ちゃんは、近所の公園におる。そこには、小さな子供たちが遊ぶための、ごく普通の『砂場』がある。……その砂場のど真ん中に、なぜかポツンと、黄色い『卵焼き』が落ちておった」


 かえではそこで言葉を切り、瑠璃の顔に『見えないながらも』真っ直ぐに向き直った。


「さて、瑠璃ちゃん。この『砂場に落ちている卵焼き』を見て、瑠璃ちゃんはどう思うかのう?」


 瑠璃は、小さな眉を少しだけひそめた。

 頭の中に、完璧な映像を構築する。灰色の砂で満たされた、丸い砂場。その中央に、周囲の景色とは全く不釣り合いな、鮮やかな黄色の卵焼きが一切れ、コロンと転がっている。


「……誰かが、落としたんでしょ」


 瑠璃は、最も論理的で確率の高い答えを導き出した。


「お弁当か何かのおかずを、落としちゃったんだよ。それか、カラスがゴミ箱から突っついて持ってきて、途中で落とした。……それ以外にないよ」


 五歳の子供としては、十分に理路整然とした完璧な推論だった。新市街のAIに同じ質問を入力しても、おそらく全く同じ回答が出力されるだろう。事実と結果を結びつけるだけの、一直線のロジック。

 しかし、かえでは「ほっほっほ」と笑いながら、ゆっくりと首を横に振った。


「そうじゃな。普通はそう考える。事典に載っとるような『正解』はそれじゃろう。……じゃがな、瑠璃ちゃん。人間の『行動』というルーツを、もっと深く、泥臭く想像してみるんじゃ」


 かえでは、組んだ人差し指をトントンと叩きながら、瑠璃の完璧な論理に静かな揺さぶりをかけ始めた。


「瑠璃ちゃん。人は普通、お弁当をどこで広げて食べるかのう?」


「……ベンチとか、芝生の上にシートを敷いて、でしょ」


「そうじゃ。わざわざ靴に砂が入るような、汚い『砂場の中』に座り込んで、お弁当の箱を広げる大人はおらん。もし落としたのなら、それはベンチの近くや、芝生の上であるべきじゃろう?」


 瑠璃の目が、ハッと見開かれた。

 確かにそうだ。食事の場と、砂遊びの場は、公園という同じ空間にあっても明確にエリアが区切られている。


「じゃ、じゃあ……子供が、遊びながら食べてて落としたんだよ」


「それも少し変じゃな。子供が遊びながら食べるおやつと言えば、クッキーや飴玉、せいぜいおにぎりくらいじゃろう。お弁当の『おかずの一つ』である卵焼きだけを、わざわざ素手で掴んで砂場に持っていく子供が、果たしてどれだけおるかのう? もし親が一緒にいたなら、そんな行儀の悪いことは絶対に止めるはずじゃ」


 瑠璃の脳内に構築された『カラスが落とした説』も、瞬時に崩れ去った。カラスがくわえたのなら、卵焼きはもっと無惨にくちばしで千切られたり、突っつかれたりしているはずだ。ポツンと、綺麗な形のまま砂場に落ちていること自体が不自然なのだ。


(……おかしい。変だ)


 瑠璃の小さな胸の奥で、心臓がトクトクと早鐘を打ち始めた。

 最初はただの『落とし物』だと思っていた。ただのゴミだと思っていた。

 しかし、人間の行動心理や、周囲の環境という『文脈』を当てはめていくと、あの黄色い卵焼きが、まるでこの世界のバグのように、どうしようもなく不自然で、不気味な存在として浮かび上がってくるのだ。


「……そこに、あるはずのないモノだ」


 瑠璃は、無意識のうちに両手で自分の膝を強く握りしめていた。


「人がご飯を食べる場所じゃないのに。卵焼きだけを持っていく理由もないのに。……絶対にそこにあるはずがないのに、どうして、砂場なんかに落ちてるの……?」


 混乱と、そしてそれを上回る強烈な興奮が、瑠璃の全身を駆け巡った。

 これが、新市街の無菌室では決して味わうことのできない感覚。完璧な論理の隙間に潜む、人間の不合理なバグ。

 かえでは、瑠璃がその境地に辿り着いたことを察し、深く頷いた。


「そうじゃ。それが『違和感』じゃよ、瑠璃ちゃん」


 かえでの声は、いつになく真剣で、厳かだった。


「砂場に卵焼きがある。普通の人なら『誰かが落としたんじゃな』で通り過ぎてしまう、ただの景色。……じゃが、人間の行動を深く想像すれば、それは絶対に『ありえない場所にある、ありえないモノ』なんじゃ」


「ありえない場所に、ありえないモノ……」


「そうじゃ。そして、モノが自然の法則に逆らって『ありえない場所』にある時、そこには必ず、人間の歪んだ感情や、隠された秘密、予想外の悲劇といった『強烈な不純物』が介在しておる」


 かえでは、見えない目で真っ直ぐに瑠璃を射抜いた。


「なぜ、親は子供がおかずを持って砂場に行くのを止めなかったのか。いや、止められなかったのか。あるいは、大人がわざわざ砂場にそれを置かなければならないような、特殊な事情があったのか。……その『違和感』こそが、モノのルーツを暴き出すための、たった一つの入り口なんじゃよ」


 瑠璃の脳髄を、強烈な稲妻が貫いた。


 ただのゴミ。ただの落とし物。

 しかし、それが『なぜそこにあるのか』という違和感に気づくことができた瞬間、世界は全く違う姿を見せる。その不自然な矛盾の皮を一枚ずつ剥ぎ取っていけば、そこには必ず、誰も知らない人間の泥臭い真実(ルーツ)が隠されているのだ。


「……見えた」


 瑠璃は、恍惚とした表情で、虚空を見つめて呟いた。


「すごい。おばあちゃん、すごいよ。ただの卵焼きなのに、なんでそこにあるのか考えただけで、その後ろに、すごくたくさんの人間の動きが見えてくる。……嘘も、秘密も、全部あの黄色い卵焼きの裏側に隠れてるんだ」


 瑠璃の瞳は、今度こそ、完全な絶対君主のそれへと変貌していた。

 新市街の大人たちが信奉する、表層的なデータの羅列など何の役にも立たない。モノが放つ『違和感』という悲鳴を聞き取り、そこに人間の不純物を当てはめていくこと。それこそが、世界で最も美しく、最も残酷な『真理の解明』なのだ。


「ほっほっほ。どうやら、瑠璃ちゃんの『目』は、もうわしなんかよりずっと遠く、深くを見通せるようになったみたいじゃな」


 かえでは満足そうに笑い、グラスの横にあったスプーンをカチン、と鳴らした。

 氷の溶けかけたメロンクリームソーダは、もうすっかりぬるくなっていたが、瑠璃はそれを一気に飲み干した。

 ぬるくて、甘ったるくて、炭酸の抜けたその味すらも、今の彼女には『極上のルーツ』を味わうための最高の一杯に感じられた。


 土間の隅で、冷や汗を拭いながら立っていた黒田は、瑠璃の背中から放たれる今までとは全く違う異様なオーラに、思わず身震いをした。

 それは、五歳の少女がただの好奇心を満たしたというレベルの成長ではない。

 月見坂市に隠されたすべての不純物を暴き出し、その真実を裁定する『絶対的な鑑定眼』が、この古い六畳間で、完全に産声を上げた瞬間だった。



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