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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 5:秘密の道草と、甘い炭酸~

 あの大迷子騒動から数日後。新市街における瑠璃の警備体制は、まさに国家元首を護衛するかのような、常軌を逸した異常なレベルにまで引き上げられていた。

 外出時には常に黒田を含めた三人の精鋭ボディガードが陣形を組んでぴったりと張り付き、瑠璃の衣服には従来のものよりさらに小型化された最新鋭のGPSタグが、絶対に物理的に外れないよう三箇所に分けて強固に縫い込まれた。AI搭載の監視ドローンも、彼女の頭上には常に二機が死角なく追従するシステムへとアップデートされている。


 九歳の姉・翡翠は「瑠璃が勝手にいなくなったせいで、私まで外に遊びに行きづらくなったじゃない! パパの馬鹿!」と理不尽に喚き散らし、高級な調度品に当たり散らしていたが、父の彰も母の菫も、二度とあんな肝を冷やす思いは御免だとばかりに、徹底的な『管理の檻』を構築したのだ。


 如月本邸の広大なリビングは、最新の環境制御システムによって常に気温二十四度、湿度五十パーセントに保たれている。空気清浄機は目に見えない微細な塵すらも許さず、専属の庭師が手入れをする窓の外の庭園は、葉の一枚に至るまで完璧な色彩で統一されていた。

 おやつの時間に専属シェフが運んでくるフルーツの盛り合わせもそうだ。糖度から形、色艶に至るまで、すべてが規格内の最高級品。少しでも傷があれば、あるいは形が不揃いであれば、新市街のシステムはそれを『不純物』として弾き出し、容赦なく廃棄する。


 瑠璃は、銀のフォークで完璧な球体をしたマスカットを突き刺しながら、小さく、ひどく退屈そうなため息をついた。


(……つまらない)


 大人がどれだけ完璧な物理的・システム的な檻を作り上げようとも、五歳の少女の心の中に芽生えた『極上のルーツ』への強烈な渇望を縛り付けることはできなかった。

 むしろ、完璧すぎる無菌室の中に閉じ込められれば閉じ込められるほど、あの旧市街の泥臭い匂い、不規則な振り子時計のアナログな音、そして、傷物のメロンから生まれた極上の甘みが、瑠璃の脳裏に鮮烈にフラッシュバックしてくるのだ。完璧なものには、何の歴史もない。何の物語も存在しない。それは瑠璃にとって、死んでいるのと同じだった。


 騒動から一週間が経った、ある日の午後。

 本邸の庭園にある日陰のテラスで、分厚い図鑑を広げていた瑠璃は、少し離れた場所で周囲に鋭い警戒の目を光らせている黒田のスーツの裾を、ツンツンと引っ張った。


「黒田。今日の三時から、私のお昼寝の時間だよね」


「はい、お嬢様。本日は冷房の効いた二階のサンルームにベッドをご用意しております。私がドアの外で完全な警護に当たりますので、ごゆっくりとお休みください」


「あのサンルームの中には監視カメラがないし、私が寝てる間、黒田たちはドアの外で待機してる」


 瑠璃は読みかけの図鑑をパタンと閉じ、屈強な大男を見上げた。


「サンルームの窓の鍵は内側から開けられる。そして、庭の西側にある通用口は、三時十五分から五分間だけ、清掃用ドローンの搬出のためにAIカメラの死角になる。……私が何を言いたいか、分かる?」


 黒田の巨体が、ビクリと硬直した。

 目の前にいるのは、たった五歳の子供だ。しかし、彼女が淡々と口にしたのは、如月本邸が誇る鉄壁のセキュリティシステムのわずかな隙を突いた、完璧な『単独脱走計画』だった。


「お、お嬢様……? 一体何を……」


「車を一台、西側の通用口の裏に待機させておいて。私を、あの旧市街のおばあちゃんの家に連れて行って」


「なっ……! ば、馬鹿なことを仰らないでください! もしそんなことが社長や奥様に知れたら、今度こそ私は月見坂湾に沈められるどころか、一族郎党路頭に迷うことになります!」


「黒田が連れて行ってくれないなら、私一人で抜け出すよ。この前みたいにフェンスに引っ掛けてGPSを落とさなくても、タグの電源の切り方くらい、もう配線を見て覚えたから」


 それはお願いでも、子供のわがままでもない。逃げ場のない完璧な『脅迫』だった。

 黒田の額から、滝のような冷や汗が吹き出した。もし本当にこの頭の回る令嬢が単独で抜け出し、再び旧市街で迷子にでもなれば、自分のクビが飛ぶだけでは済まない。コンツェルンそのものがひっくり返る大騒動になる。

 彼女を一人で危険に晒すくらいなら、自分が護衛として極秘裏に付き添うしかない。瑠璃は、黒田のその忠誠心と責任感すらも完全に計算に入れて、退路を断っていたのだ。


「……三十分。いえ、移動を含めて四十五分だけでございますよ。もし誰かにバレたら、私だけでなく、お嬢様も二度とあの家には行けなくなりますからね……っ!」


「分かってる。黒田は物分かりが良くて好きだよ」


 瑠璃は満足そうに頷き、図鑑を抱えてサンルームへと歩き出した。

 かくして、月見坂市の裏社会すら震え上がる冷徹なボディガードは、五歳の令嬢の完全な共犯者という名のパシリへと成り下がったのである。


 ──ガラガラ、という重たい引き戸の音が、静かな土間に響く。


「おばあちゃん、来たよ」

「おや、いらっしゃい。今日も黒い服の大きな人が一緒かのう?」


 割烹着姿のかえでが、奥の和室から嬉しそうに顔を出した。

 瑠璃は「うん」と頷きながら土間で小さな靴を脱ぐ。その後ろでは、泥だらけのサンダルや、隅に張られた蜘蛛の巣を極度に警戒しながら、身長一九〇センチの黒田が、まるで借りてきた猫のように体を小さくして土間の隅に直立不動で立っていた。


「黒田はそこに立ってて。動くと埃が舞うから邪魔」

「は、はい……」


 黒田の情けない返事を聞き流し、瑠璃は慣れた足取りで和室へと上がり込んだ。

 部屋には、どこか懐かしい蚊取り線香の匂いが漂い、開け放たれた縁側からは、チリン、と涼しげな風鈴の音が聞こえてくる。完璧に無音だった本邸とは違う、生きている人間の生活の音が、瑠璃の強張った神経を優しく解きほぐしていった。


 指定席になりつつある座布団にちょこんと座ると、かえでがすでに用意してくれていた『魔法のグラス』が、お盆に乗せられて運ばれてきた。


「今日は特別暑かったからな。少しアイスを大きめにしておいたよ」

「ほんと? ありがとう」


 グラスの中を満たしているのは、新市街のデパートで『ゴミ』として弾かれた傷物のメロンを潰して作った、あの少し果肉が混じって濁った薄緑色の液体だ。

 瑠璃は両手でグラスを包み込み、ストローを咥えた。

 シュワッ、と舌の上で弾ける安っぽい炭酸の刺激と、暴力的なまでに濃厚な本物のメロンの甘み。何度飲んでも、完璧に計算された高級ジュースには絶対に生み出せない、生々しい果実のルーツがそこにはあった。傷を負い、熟れすぎたからこそ引き出される、極上の甘み。


 瑠璃は炭酸の刺激で少しだけ目を細めながら、コクコクと夢中でストローを吸い上げた。

 その姿は、本邸で無表情に図鑑を読んでいる時や、周囲の大人たちを冷めた目で見下ろしている時とは全く違う。この古びて埃っぽい和室で、かえでと向かい合ってメロンクリームソーダを飲んでいる時だけ、彼女は五歳の子供らしい、無防備で穏やかな表情を見せていた。

 土間の隅で直立不動のままその様子を見ていた黒田も、内心では『あんな怪しげな濁った飲み物を……お腹でも壊されたらどうする気だ……』とヒヤヒヤしつつも、瑠璃のそんな心安らぐ表情を守りたいがゆえに、この秘密の道草を黙認せざるを得なかったのだ。


「さて、瑠璃ちゃん。この間のオルゴールの話の続きじゃったな」


 かえでは、縁側に置かれた木箱の中から、手のひらサイズの古びた木製のオルゴールを取り出した。

 蓋には精巧な花の彫刻が施されているが、あちこちの木が欠けており、ネジを巻くための裏側のゼンマイはひどく赤茶色に錆びついている。


「これ、動くの?」


「いや、もう鳴らんよ。中の歯車が、一つだけ欠けてしもうとるんじゃ」


 かえではオルゴールの蓋を開け、中の真鍮製のシリンダーと櫛歯を瑠璃に見せた。

 瑠璃はグラスを置き、身を乗り出してその内部構造をじっと観察した。シリンダーに打ち込まれた無数の小さなピンが、櫛の歯のような金属板を弾くことで音が出る仕組みだということは、一目見てすぐに理解できた。

 だが、その櫛歯の真ん中あたりにある一本の歯だけが、不自然に折れ曲がって、沈み込んでいる。


「落として壊れたの? 前に教えてくれた時計みたいに」


「ほっほっほ。瑠璃ちゃんは鋭いのう。じゃが、今回は少し違うんじゃ」


 かえでは、錆びついたゼンマイを愛おしそうにシワだらけの指で撫でた。


「これはな、昔、ある若い母親が、病気でずっとベッドから起き上がれんかった小さな娘のために、無理をして買ったオルゴールじゃった。娘は毎日、このオルゴールの音色を聴くのを楽しみにしとったんじゃが……ある日、母親が少しだけ目を離した隙に、娘が自分でネジを巻こうとしてな。力が弱くて、誤って床に落としてしもうたんじゃ」


「それで、壊れちゃったの?」


「いや、落としただけでは壊れんかった。……問題は、その落とした場所じゃ」


 かえでは白く濁った目を細め、静かに、しかし熱を込めて語り継いだ。


「オルゴールが落ちたのは、火の点いた暖炉のすぐそばじゃった。パチッと火の粉が飛んで、オルゴールの木箱に燃え移りそうになったんじゃ。母親は慌てて飛んできて、火傷も厭わずに、素手でその火の粉を払い落とした。その時、母親の指輪が中の櫛歯に強くぶつかって、一本だけ折れ曲がってしもうたんじゃよ」


 瑠璃は、食い入るようにオルゴールの内部を見つめた。

 言われてみれば、歯車が折れ曲がっている付近の木箱の内側には、微かに黒く焦げたような跡が残っている。


「直せなかったの? 新しい部品に替えるとか」


「貧しい親子じゃったからな、修理に出すお金なんてどこにもなかった。じゃから、母親は……その折れ曲がった歯車の部分を、他の音の邪魔にならないように、自分でヤスリを使って削り落としたんじゃ」


「えっ……? それじゃあ、曲の音が一つなくなっちゃうよ」


「そうじゃ。メロディの途中で、大事な音が一つだけポッカリと抜けてしまうようになった。不完全で、少し間抜けなメロディにな。……じゃが、娘はその『音が一つ抜けたオルゴール』を、綺麗な音が出とった頃よりも、ずっとずっと大事にしたそうじゃよ」


 瑠璃は、自分の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 音が欠けた、不完全な音楽。新市街のAIが寸分の狂いもなく作曲し、演奏する完璧なシンフォニーに慣れた耳には、それはただの『不良品』でしかない。価値のないゴミだ。

 だが、その抜けた一つの音には、『母親が自分のために手を焼いて火を払ってくれた』という、何よりも尊く、温かい真実のルーツが詰まっているのだ。その空白の音にこそ、極上の価値がある。

 傷つくことは、価値を下げることではない。人間の感情というコントロールできないものが介在した証であり、モノが世界に一つだけの歴史を刻んだ証明なのだ。


「……不純物」


 瑠璃は、小さな唇からぽつりとその言葉をこぼした。


「傷がついたり、壊れたり、人が余計なことをして変な形になったりすること。……パパたちはそれを『不純物が混ざった』って言って嫌う。少しでも不純物が混ざれば、ゴミとして捨てる。でも、違う。その不純物こそが、モノの本当の姿なんだ」


 五歳の少女の口から紡がれたその核心を突いた言葉を聞いて、かえでは「ほっほっほ」と、今日一番の大きな声で笑った。


「その通りじゃ。人間の愚かさや、強すぎる愛情や、どうしようもない悲しみが混ざり込んだ不純物。それがあるからこそ、モノはただの便利な道具から『歴史』になるんじゃよ。瑠璃ちゃんは、本当に素晴らしい目を持っとるのう」


 かえでに頭を撫でられながら、瑠璃は再びメロンクリームソーダのストローを咥えた。

 完璧な管理社会で生きることを義務付けられた令嬢が、その対極にある『極上の不純物』の哲学を、少しずつ、しかし確実に己の血肉へと変えていく。

 黒田を脅してまで通い詰めるこの秘密の道草は、やがて彼女を月見坂市における『絶対君主』へと覚醒させるための、かけがえのない密かな授業となっていた。



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