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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 3:盲目の老婆と、モノの物語~

 空になったグラスの底に残った氷が、カラン、と溶けて小さく鳴った。


 縁側から差し込む生ぬるい夏の風が、古びた畳の匂いをふわりと部屋の隅まで運んでいく。

 如月家の広大なリビングであれば、常に最適な温度と湿度が保たれ、空気清浄機が一切の埃を許さない。しかし、かえでの家の和室には、西日に照らされた細かな塵が、まるで金色の雪のようにキラキラと宙を舞っていた。


 瑠璃は座布団の上にちょこんと座ったまま、その光の粒を不思議そうに目で追っていた。

 ふと、部屋の隅にある小さな木箱に視線が止まる。

 蓋の開いたその箱の中には、新市街の基準で言えば間違いなく『ゴミ』として焼却炉に直行するようなガラクタが無造作に放り込まれていた。片方だけのくすんだイヤリング、すり減った指貫、ひん曲がった真鍮の鍵、そして、ひどく凹んでガラスの割れた懐中時計。


「おばあちゃん。あれ、なに?」


 瑠璃は短い指で、部屋の隅の木箱を指差した。


「ん? ああ、あそこの小箱のことかのう」


「うん。壊れた時計とか、曲がった鍵とかが入ってる。パパなら、傷が一つでもついたらすぐに新しいものを買うよ。どうしてあんなゴミ、捨てないで取ってあるの?」


 五歳の子供らしい、身も蓋もない残酷な質問だった。機能を満たさないものは不要なゴミである。それは、AIによって管理されたスマートシティで生まれ育った瑠璃にとって、呼吸をするのと同じくらい当たり前の論理だった。

 しかし、かえでは不快になるどころか、まるで愛おしい孫からの問いかけに答えるように、深く優しいシワを刻んで微笑んだ。


「ゴミ、か。確かに、目が見えとった頃のわしにも、ただの汚いガラクタに見えたじゃろうな。……じゃがな、瑠璃ちゃん。目が悪くなって、手触りだけで色んなものを確かめるようになってから、わしには『見えんかったもの』が見えるようになったんじゃよ」


 かえではゆっくりと立ち上がると、杖をつきながら小箱の前に歩み寄り、中からあの『ひどく凹んだ懐中時計』を取り出して、瑠璃の目の前に戻ってきた。


「ほれ、触ってみなさい」


 瑠璃は小さな両手で、その懐中時計を受け取った。

 ずっしりと重い。しかし、真鍮の表面は変色し、文字盤を覆うガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れている。何より、時計の側面には、何か硬いものに激しくぶつけたような深い凹みがあった。中の針は『四時十七分』を指したまま、完全に沈黙している。


「ただの壊れた時計だよ。冷たいし、ザラザラしてる」


「そうじゃな。じゃが、その凹みを指でなぞってみてごらん。……それはな、ただ落としてついた傷じゃない。誰かが、ものすごく慌てて、周りのことなんて何も見えなくなるくらい必死に走って、硬いコンクリートに叩きつけてしまった『証拠』なんじゃ」


 かえでの白く濁った目が、懐中時計を透かして、もっと遠い過去を見つめているように瑠璃には見えた。


「これはな、昔、この近所に住んどった真面目な時計職人の持ち物じゃった。その男は、自分の一秒の遅れも許さない、融通の利かん頑固者でな。この懐中時計を自分の命みたいに大事に磨いてはおったんじゃが……ある日、男の奥さんが急に産気づいてな。病院から連絡を受けた男は、仕事道具も放り出して、文字通りすっ飛んでいったんじゃよ」


「走って、転んだの?」


「ああ。病院の前の階段でな。その時に、ポケットからこいつが飛び出して、階段の角に思い切りぶつかってしもうた。……男の命より大事な時計は、その瞬間に壊れて、二度と動かなくなったんじゃ」


 瑠璃は、手の中の冷たい真鍮の塊に視線を落とした。

 かえでは優しい声で、物語の続きを紡ぐ。


「普通の人間なら、直すか捨てるかするじゃろう。じゃが、男は直さなかった。なぜか分かるかのう?」


 瑠璃は少しだけ首を傾げ、そして、ひび割れたガラスの奥で『四時十七分』を指したまま止まっている針を見つめた。

 その瞬間、五歳の瑠璃の脳裏に、一つの強烈な論理が閃いた。


「……奥さんのところに、着いた時間だから?」


「ほっほっほ。大正解じゃ」


 かえでは嬉しそうに手を叩いた。


「この時計が壊れて、針が止まった四時十七分。それは、男にとって初めての可愛い娘が、元気な産声を上げた時間と全く同じじゃったんじゃ。……時計というのは本来、未来の時間を刻んでいくための道具じゃ。じゃが、この時計だけは違う。男が一番幸せだった『過去のあの一瞬』を、永遠に抱きしめたまま止まっとるんじゃよ」


 瑠璃のアメジストの瞳が、驚きに見開かれた。


「男にとって、この凹みも、止まった針も、ただの故障じゃない。愛する娘が生まれた日の、何よりの記念碑になったんじゃ。……どうじゃ? そうやって見ると、この凹みも、ひび割れたガラスも、ただの汚いゴミには見えんじゃろう?」


 瑠璃の心臓が、トクン、と大きく跳ねた。

 手の中にあるのは、間違いなくただの壊れた金属の塊だ。

 しかし、かえでの言葉を聞いた後では、その凹みが、ひび割れが、まるで意思を持った『言葉』のように瑠璃の目に飛び込んできた。


 完璧に磨き上げられた新品の時計には何の意味もない。傷つき、壊れ、人間という不純で愚かな生き物の感情に巻き込まれたからこそ、この時計には世界でただ一つの『ルーツ』が宿ったのだ。


「……うん。見えない。これ、ただのゴミじゃない。すごい……すごく、綺麗」


 瑠璃は、まるで宝物を扱うように、その凹んだ懐中時計をそっと両手で包み込んだ。

 新市街では、少しでも傷がついたものはすぐにAIドローンによって排除され、新品と交換される。そこには何の物語も存在しない。

 だが、この古くて泥臭い旧市街には、見向きもされないガラクタの中に、これほどまでに豊かで、血の通った『歴史』が眠っているのだ。


「一見ゴミに見えるような不純物にも、すべて物語がある。それがどこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でここにあるのか。その『ルーツ』を想像してやるだけで、モノは本来の輝きを取り戻すんじゃよ」


 かえではそう言うと、しわくちゃの手を伸ばし、再び瑠璃の小さな頭を優しく撫でた。


「お主は、その輝きがちゃんと分かるんじゃな。瑠璃ちゃんは……本当に、いい子じゃのう」


 いい子。


 その言葉の響きに、瑠璃は不思議な感覚を覚えた。

 如月本邸にいる大人たちは、瑠璃が難しい本を読んだり、大人が驚くような知識を披露したりすると『さすがは如月家のお嬢様だ』『天才だ』と褒めそやした。彼らが褒めているのは『如月という血統』であり、『有能な子供』という記号でしかなかった。


 しかし、目の前の老婆は違う。

 身分も、財産も、血統も何も見えていないこの盲目のおばあさんは、ガラクタの中に隠されたルーツを見出すことができた瑠璃の『魂の形』そのものを、真っ直ぐに肯定してくれたのだ。


 瑠璃は、膝の上に乗せた懐中時計をギュッと握りしめた。

 泣いたことはない。姉のように、嬉しさや悲しさを安っぽい涙に変えて他人に消費させるような真似は、絶対にしないと誓っている。

 だから瑠璃は、ただ静かに、しかし深い熱情を込めて、目の前のしわくちゃな老婆を見つめ返した。


(このおばあちゃんは、すごい。パパよりも、ずっとずっと、賢くて尊い人だ)


 五歳の少女が、生まれて初めて『大人の知性』に対する純粋で絶対的な尊敬の念を抱いた瞬間だった。


「おばあちゃん」


「ん? なんじゃな」


「私、もっと知りたい。あの曲がった鍵は? 片方だけのイヤリングは? どうしてそうなったの? どこから来たの?」


 瑠璃は前のめりになり、次々と質問をぶつけた。

 かえでは「ほっほっほ、慌てなさんな」と笑いながら、一つずつ、そのガラクタに秘められた愛おしいルーツを語り始めた。


 古い和室の中に、老婆の穏やかな声と、五歳の少女の真剣な問いかけが静かに響く。

 完璧な管理社会の頂点に立つはずだった令嬢が、その対極にある『極上の不純物』の魅力に完全に取り憑かれた、運命の午後だった。



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