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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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エピローグ:雨上がりの空と、永遠の鑑定士

 最新鋭のAI管理から完全に見放されたその最北端の図書室は、今日も相変わらず、古い紙と酸化したインクの匂い、そして淹れたてのダージリンティーの微かに甘い香りに満ちていた。


 僕の目の前で、特注のルーペを片手に傷だらけの千切れたネックレスのチェーンを検分している少女——如月瑠璃は、僕の言葉に視線を上げることもなく、冷ややかな声で切り捨てた。


「……湯の温度が高すぎるぞ、サクタロウ。ダージリンの繊細な香りが飛んでしまうではないか。何度教えれば学習するのじゃ、この愚鈍な助手は」


「すみません! 今、少しだけ湯冷まししますから!」


 僕は慌ててアルコールランプの火からアンティークの鉄瓶を遠ざけ、ティーポットの温度調整に入った。

 初夏特有の、気まぐれな通り雨が旧校舎の窓ガラスを細かく叩いている。

 あのおぞましくも悲壮な『ピーナッツの瞳を持つクマ』の事件——僕たちが理科準備室で歪な契約を交わした入学式の日から、季節は巡り、早くも二ヶ月の月日が流れていた。


 図書室の窓から差し込む仄暗い雨光が、彼女の華奢な背中へと真っ直ぐに下ろされた、絹糸のような黒髪を淡く照らしている。式典のような公式の場ではない『普段』の彼女はこうして髪を結うことなく、ひどく自然体でこの埃っぽい空間に収まっているが、その紫の瞳が放つ絶対的な知性の光は、あの日と何一つ変わっていない。


 僕は、彼女が私物として持ち込んだマイセンのティーカップに、適温に冷ました紅茶を慎重に注ぎ、彼女の定位置である読書机へと運んだ。


「どうぞ、如月さん」

「……ふむ。香りは、及第点を与えてやろう」


 如月さんは、ルーペを右目から外し、カップの縁に白く細い指を添えた。目を閉じて紅茶の香りを五感でゆっくりと楽しみ、優雅な所作で一口だけ喉に流し込む。

 電子機器の数値やデータではなく、自らの鼻と舌、そして肌で感じる温度だけを信じる。それが、徹底したアナログ主義を貫く彼女の、鑑定士としての揺るぎない日常だった。


 僕は、自分の分の安いティーバッグの紅茶を啜りながら、再び特注のルーペを右目に当てた彼女の横顔を見つめた。


(……あの日から、如月さんは本当に変わらないな)


 あの事件の結末——親の監視から逃れるために自らクマの目をえぐった少女の絶望と、如月コンツェルンの力によってもたらされた、加害者一家の完全なる社会からの抹消。

 その泥臭く、ひどく凄惨な人間の悪意の連鎖に触れたあの日を境に。如月さんは、自らの宣言通り、事件の結末や人々の感情といった『副産物』に対して、一切の関心を示さなくなった。


 この二ヶ月間、僕たちはこの図書室を拠点として、学園に持ち込まれるいくつかの奇妙な『不純物』の謎を解き明かしてきた。

 結果として、誰かの窮地を救うこともあれば、泣いて感謝されることもあった。逆に、暴かれたくない秘密を白日に晒してしまい、憎悪と軽蔑の目を向けられることもあった。

 だが、如月さんはそのどれに対しても、氷のように冷たく、無関心であり続けた。彼女の心は常に氷点下の無菌室にあり、ただひたすらに『ありえない場所にあるモノの、物理的な真実(ルーツ)』を解体することだけに、その情熱のすべてを注いでいるのだ。


「……何を黄昏れておる、サクタロウ。お主のその締まりのない顔を見ていると、こちらの思考まで鈍りそうじゃ」


 僕の視線に気づいたのか、如月さんが机の上のネックレスから顔を上げ、冷ややかに言い放った。


「いえ、別に。相変わらず如月さんは、モノの歴史以外には全く興味がないんだなって、感心してただけですよ」


「当然じゃ。人間の泥臭いドラマなど、鑑定のノイズでしかない。……それより、さっさと目の前の不純物に集中せよ。時間は有限じゃぞ」


 そう言うと、如月さんは再び、千切れた銀のネックレスへと極限まで顔を近づけた。

 その紫の瞳の奥に、深く、静かな探求の炎が灯る。


「第一の矛盾じゃ。このネックレスは、純度92.5パーセントのスターリングシルバー製。本来なら極めて強靭なはずのチェーンが、なぜこれほど無惨に『力任せに引きちぎられた』ような痕跡を残しているのか」


 僕は、自分の革表紙のメモ帳を開き、ボールペンを構えた。


「どっかに引っかけたんじゃないですか? ドアのノブとか、木の枝とかに」


「単なる事故による断裂なら、チェーンの一箇所に負荷が集中するはずじゃ。……だが、これを見ろ」


 如月さんは、銀色のピンセットの先で、肉眼では見えないほどの小さな傷の連続を、愛おしむようになぞった。


「千切れた断面の他に、チェーンの複数の箇所に、何か硬いもので『何度も執拗に削られた』ような微細な傷が無数に存在しておる」


「削られた傷……?」


「そうじゃ。……まるで、誰かがこのネックレスを首から外すことを許されず、必死に自らの手で、あるいは道具を使って引きちぎろうと足掻いたかのような、凄まじい執念の痕跡じゃな」


 僕は、息を呑んだ。

 彼女の口から紡がれる推理。それは、単なる物理法則の解明だけではない。


 傷の角度や深さから、物理的な真実を冷徹に暴き出す『論理の眼』。

 そして、その無機質な傷跡の奥底にこびりついた、持ち主の『外したくても外せない』という絶望的な感情や執念を、正確に掬い上げる『情動の眼』。


 山内かえでと、皐月優奈。

 彼女が二人の先人から引き継いだというその『二つの眼』は、今、目の前の千切れたネックレスのルーツを解体するために、完璧な精度で稼働していた。


 彼女自身は、その持ち主の絶望に一切の感情移入をしていない。冷酷なまでに心を切り離している。だが、モノに刻まれた人間の悲鳴を『情報』として読み解くその解像度の高さは、あまりにも美しく、そして残酷だった。


「……なるほど。じゃあ、その『外すことを許されなかった』持ち主が誰なのか、探さなきゃいけませんね」


 僕は、短くため息をつきながら、メモ帳に『無数の削り傷・執念』と走り書きをした。


 彼女が真実のルーツを暴き出し、世界に生じたバグを裁定する。

 そして、その裏側にある人間の痛みや悲鳴を受け止め、泥を被って感情の処理をするのは、凡庸な僕の仕事だ。

 あの日、理科準備室で彼女が言い渡したその役割分担は、今や僕たち二人の間に、目に見えない強固な鎖として、確かに結びついていた。


「さあ、サクタロウ。お主の泥臭い直感と、わしの完璧な論理で、この千切れた鎖に込められたルーツの解剖を続けるとしよう」


「はいはい。お手柔らかにお願いしますよ、鑑定士様」


 僕が苦笑交じりにそう返した、その時だった。


 ふと、図書室の空気が微かに変わったのを感じて、僕は窓の外へ視線を向けた。

 いつの間にか、窓ガラスを細かく叩いていた初夏の通り雨が、完全に止んでいた。

 分厚く垂れ込めていた灰色の雲が静かに割れ、そこから、眩しいほどの夕日の黄金色の光が、旧校舎の埃っぽい図書室へと真っ直ぐに差し込んできたのだ。


 黄金の光は、高く積まれた古書の山を越え、アンティークの鉄瓶を照らし、そして、真っ直ぐに下ろされた如月さんの美しい黒髪を、淡い光の輪で縁取った。


 光を浴びた彼女は、一瞬だけ眩しそうに目を細めた後、手元のネックレスから僕の方へと視線を移した。

 その紫の瞳が、雨上がりの澄み切った空気の中で、宝石のように鮮やかに輝いている。


 月見坂の闇に潜む、すべての不純物を裁定する鑑定士。

 彼女はこれからも、人間の泥臭い感情に生理的な嫌悪を抱きながら、それでも決して真実から目を背けることなく、二つの眼を使ってこの街の理を解体し続けていくのだろう。

 そして僕は、彼女の冷たい論理の死角を補うため、その隣に立ち続けるのだ。


「ぼんやりするな、サクタロウ。思考を始めよ」


「……ええ。分かってますよ」


 僕は、黄金色に染まる図書室の中で、永遠に続くであろう彼女との謎解きの日々へと、再び意識を没入させていった。


 雨上がりの空の下。

 月見坂の最も古い図書室には、今日もダージリンの柔らかな香りと、絶対君主の冷徹な声、そして凡庸な助手の泥臭いため息が、心地よい和音となって響き渡っていた。



~如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない fin~



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