第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 9:優奈の面影と、新しい不純物~
理科準備室の静寂を破るように、部屋の隅に置かれていた黒いトランクケースの奥から、チリリリリ、という鋭い電子音が鳴り響いた。
「……なんじゃ。間が悪いな」
如月さんは不快そうに眉をひそめ、作業台から離れてトランクケースへと歩み寄った。
先ほどの絶対君主としての死刑宣告の余韻が冷めやらぬ中、僕はビクッと肩を震わせ、彼女の背中を見守った。
パカリと開けられたトランクの奥底。美しい衣服の下に隠されていた、名刺サイズの無骨な通信端末が、赤いランプを点滅させていた。先ほどのスマートフォンとは別の、完全に暗号化された如月家の緊急用回線だろう。
「わしじゃ」
端末を耳に当てた如月さんは、短くそう応えた。
電話の主は、やはりあの黒田というエージェントらしかった。薄暗い部屋の中で、如月さんは無言のまま数十秒ほど相手の報告に耳を傾けていた。
「……そうか。迅速な処理じゃな。ご苦労」
それだけを言い残し、彼女は通話を切った。
そして、ふうと、ひどく冷たく、そして重い息を一つ吐き出した。
「如月さん……今の、電話は」
「黒田からじゃ。先ほどの医療機器メーカーの重役——このクマにカメラを仕込んだ狂気の親の、社会的な抹消処理が完了したという報告じゃよ」
完了した。
つまり、あの少女を監視していた犯人は、このたった十数分の間に、文字通りすべてを失ったということだ。如月コンツェルンの資本は引き揚げられ、会社は破滅の道を辿り、少女もまた、裕福な無菌室から泥臭い現実へと放り出されることが確定した。
僕は、作業台の上に転がる泥だらけのクマと、空っぽのピーナッツの殻に視線を戻した。
もう、この硝子の瞳の奥で光るレンズが、持ち主の少女を監視することはない。彼女の決死の偽装工作は、月見坂の支配者の手によって、あまりにも過激な形で『自由』という結末を引き寄せたのだ。
「これで……本当に終わったんですね」
僕が安堵とも虚脱ともつかない声で呟くと、如月さんは端末をトランクに投げ入れ、ゆっくりとこちらへ振り返った。
その顔には、事件を解決した探偵のような達成感も、悪を裁いた正義の味方のような誇りも、一切浮かんでいなかった。
ただ、ひどく不機嫌そうな、泥を飲まされたような表情で、自らの腕を抱くようにさすっていた。
「……不快じゃ」
如月さんの口から、地を這うような低い声が漏れた。
「え?」
「虫唾が走る。人間の、このひどく粘着質で、泥臭い悪意の結末にな」
彼女は、作業台の上のピーナッツの殻を、忌々しそうに見下ろした。
「親の歪な愛情という名の支配。それに怯え、カメラの目をピーナッツの殻で偽装し、震えながら暗闇で息を潜めていた少女の絶望。……そして、わしの裁定によってもたらされた、一家の完全なる破滅」
如月さんは、自らの言葉を確かめるように、一つ一つ区切って言った。
「サクタロウ。先ほどお主は、顔も知らぬ少女の恐怖を想い、涙を流したな。……だが、わしの心は、一ミリたりとも動いてはおらんのだ。わしにあるのはただ、このひどく醜悪な事象に触れてしまったことへの、生理的な嫌悪感だけじゃ」
それは、僕に対する拒絶ではなく、彼女自身が抱える絶対的な『欠落』の告白だった。
「わしは、他者の感情に同調できん。悲しみも、絶望も、ただのデータとしてしか処理できん。……ゆえに、この事件の結末が、少女にとって真の救いとなったのか、それとも更なる地獄の始まりとなったのか、わしには永遠に理解できんし、理解する気もない」
如月さんは、窓の外を見つめた。
嵐はすでに峠を越え、黒い雲の隙間から、ほんのわずかに白んだ光が旧校舎の埃っぽい窓ガラスに差し込み始めていた。
「だから、決めたのじゃ。……わしは金輪際、人間の泥臭いドラマには一切関与せん」
「関与しないって……でも、今、あの子を救ったじゃないですか」
「結果的にそう見えるだけじゃ」
如月さんは、冷酷に僕の言葉を切り捨てた。
「誰かを救うこと。悪人を裁くこと。被害者に感謝されること。あるいは、すべてを奪った悪魔だと蔑まれること。……そんなものはすべて、鑑定という行為の『くだらん副産物』に過ぎん。わしにとって何の価値もない、ただのノイズじゃ」
彼女の宣言は、僕の凡庸な常識を根本から否定するものだった。
人助けや正義のために謎を解くのではない。そんなものはただのオマケに過ぎないと言い切る、絶対的な傲慢さ。
「わしが求めるのは、ただ一つ。……『拾得物のルーツ』のみじゃ」
如月さんは、泥だらけのクマの頭に、そっと手を置いた。
「ありえない場所に、ありえないものがある。それがどこから来て、誰の手に渡り、どのような経緯でここにあるのか。その物理的な真実を暴き出し、世界に生じた不純物を裁定し、元の完全なる理へと修正する。……それこそが、鑑定士たるわしの存在意義であり、唯一の美学じゃ」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
人間の感情という不確かなものを徹底的に排除し、ただひたすらに『モノの歴史』と『論理』だけを追い求める。それが、月見坂の無菌室に君臨する如月瑠璃の、生きる道なのだ。
だが、と。
彼女はそこで言葉を区切り、その紫の瞳を、ひどく静かで、どこか遠い過去を見つめるような色に染めた。
「ルーツを完璧に暴き出すためには、論理だけでは足りん。……モノに刻まれた、人間の『情動の痕跡』を読み解かなければ、今回のようにカメラの隠し場所に辿り着くことはできんからな」
「情動の痕跡……」
「そうじゃ。……わしは、二人の先人から、鑑定士としての『眼』を引き継いでおる」
如月さんは、自らの右目——紫の瞳を、白く細い指先でそっと触れた。
「一つは、すべての事象を冷徹に解体し、物理的な真実を暴き出す論理の眼。……『山内かえで』から受け継いだ、絶対的な鑑定眼じゃ」
山内かえで。
その名前を口にした瞬間、如月さんの声には、深い敬意と、そして決して超えられない壁を見上げるような、微かな緊張感が混じっていた。
「そしてもう一つが……モノの奥底にこびりついた、目に見えない人間の念や悲鳴を掬い上げる、情動の眼。……『皐月優奈』から引き継いだものじゃ」
皐月、優奈。
その名前を聞いた時、僕の心臓の奥で、正体不明の小さな引っ掛かりが生まれた。どこかで聞いたことがあるような、ないような。いや、旧市街の庶民である僕が、如月財閥の令嬢の過去に関わる人物を知っているはずがないのだが。
ただ、如月さんがその名前を紡いだ時、彼女の氷のような冷たい空気が、ほんの一瞬だけ、ひどく人間らしく揺らいだような気がしたのだ。
「わしは、この二つの眼を使って、月見坂のすべての不純物を裁定しなければならん。……だが、先ほども言った通り、わし自身の心は無菌室にある。優奈から情動の眼を引き継いでも、それを『自分の痛み』として共感することはできんのじゃ。それをすれば、わしはただの俗物に成り下がる」
如月さんは指を顔から離し、再び僕を真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ。サクタロウ、お主が必要なのじゃ」
「僕が……?」
「そうじゃ。わしはルーツのみを暴く。人間の感情や、事件の結末という『副産物』には一切興味を持たん。……ならば、その泥臭い感情の処理は、誰かが代わりに担わなければならんじゃろうが」
如月さんは、一歩、僕の方へと歩み寄った。
シワ一つないブレザーから漂う、微かな高級な香水の香りが、古い理科準備室の埃っぽい匂いを一瞬だけかき消した。
「お主は、顔も知らぬ被害者のために涙を流し、わしの論理の死角を、その泥臭い直感と体温で見事に補ってみせた。……お主のその凡庸すぎる共感力は、わしの『鑑定』を完璧なものにするための、極上のフィルターになり得る」
それは、ただの我儘なお嬢様の命令ではない。
月見坂の闇を一人で背負って立つ孤独な鑑定士からの、血を吐くような、そしてひどく傲慢な『契約の申し出』だった。
「わしは真実を暴き、世界を修正する。お主はわしの隣で、その真実の裏にある人間の痛みに寄り添い、泥を被って涙を流せ。……それが、わしとお主の役割分担じゃ」
如月さんは、僕の目の前でピタリと立ち止まり、その圧倒的な紫の瞳で僕を射抜いた。
「ゆえに、サクタロウ。お主を今日から、わが如月瑠璃の『正式な助手』として任命する。……拒否権はない。明日から、わしの手足となって月見坂の不純物を探し出せ」
僕は、ごくりと唾を呑み込んだ。
この手を取れば、僕はもう二度と、旧市街の平穏で退屈な日常には戻れない。
月見坂の闇に触れ、富裕層の狂気に触れ、そして何より、この絶対君主の理不尽に振り回される、最悪の高校生活が待っていることは火を見るより明らかだった。
だが。
彼女の氷のような論理の奥底にある、山内かえでと皐月優奈という二人の先人から受け継いだ、気高き意志。
そして、人間の泥臭さを嫌悪しながらも、決して真実から目を背けようとはしない、その孤独で美しい生き様。
それに魅入られてしまった時点で、僕の負けだったのだ。
「……分かりました。でも、条件があります」
僕は、震える足を踏みとどまり、精一杯の意地を張って言った。
「なんだ。わしに条件を提示するなど、百年早いわ」
「僕の名前は、サクタロウじゃなくて、朔光太郎です。……助手になるなら、せめて一日に一回くらいは、ちゃんと本名で呼んでください」
僕のそのあまりにも凡庸で、ささやかな抵抗を聞いて。
如月さんは、目を丸くして数秒ほど固まった後。
「……ふっ、くくっ……」
堪えきれないといった様子で、小さく、しかし確かな体温を伴った笑い声を漏らした。
それは、僕が今日彼女と出会ってから初めて見る、令嬢の仮面も鑑定士の鎧も脱ぎ捨てた、年相応の少女の、純粋な笑顔だった。
「本当に……お主は、度し難いほどの阿呆じゃな。そんな非効率な条件、誰が呑むものか。サクタロウは、永遠にサクタロウじゃ」
「ちょっ、ひどい! 一日一回くらい別にいいじゃないですか!」
「黙れ。助手が主に口答えをするな。……さあ、鑑定は終わりじゃ。この埃っぽい部屋から出るぞ。メインアリーナに戻り、無能な教師どもにわしの健在をアピールしてやらねばならんからな」
如月さんは、僕の抗議を完全に無視して、優雅な足取りで理科準備室の出口へと向かった。
僕は、大きくため息をつきながらも、作業台の上に残された泥だらけのクマと、空っぽのピーナッツの殻を、持っていたハンカチでそっと包み込んだ。
これらはもう、呪いのアイテムではない。一人の少女が自由を勝ち取った、血の滲むような戦いのルーツなのだから。
窓の外の春の嵐は、いつの間にか完全に通り過ぎていた。
雲の切れ間から差し込んだ午後の柔らかな光が、古い旧校舎の廊下を、黄金色に照らし出している。
「早く来い、サクタロウ! 置いていくぞ!」
廊下の先から、僕の理不尽な主の、凜とした声が響く。
「はいはい、今行きますよ! ……如月さん!」
僕は、泥だらけのルーツを胸に抱え、光の中を歩く彼女の背中を追って、駆け出した。
これが、月見坂の闇を裁定する絶対的な鑑定士・如月瑠璃と。
彼女の氷の論理に泥臭い体温を吹き込む凡庸な助手・サクタロウの。
最悪で、おぞましく、そして決して忘れることのできない、運命の始まりの事件であった。




