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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 2:古い家屋と、緑色の魔法~

 ガラガラ、と重たい音を立てて木製の引き戸を開けると、むわっとした特有の空気が五歳の瑠璃の全身を包み込んだ。

 それは、新市街の無菌室のような澄んだ空気とはまるで違う、長い年月を経て染み付いた『生活』そのものの匂いだった。古い木材の匂い、微かな線香の匂い、そして雨上がりの土のような匂い。

 薄暗い土間には、すり減った安物のサンダルが揃えられずに無造作に転がっている。如月本邸の広大なエントランスであれば、大理石の床に塵一つ落ちていることすら許されないが、この家の土間には、隅の方に蜘蛛の巣まで張っていた。


 瑠璃は、まるで未知の惑星に降り立った探査機のように、その『不純物』だらけの空間をじっと観察した。怖がる様子は微塵もない。ただ、自分の知っている世界とのあまりの違いに、彼女の旺盛な好奇心は激しく刺激されていた。


「誰かいるー?」


 もう一度、今度は少しだけ大きな声で呼んでみる。

 すると、土間の奥にある障子戸がゆっくりと開き、一人の人物が姿を現した。


「おや……? 誰か、来たのかのう」


 現れたのは、ひどく腰の曲がった小柄な老婆だった。

 白髪を後ろでひっつめに結わえ、色褪せた地味な着物に割烹着という出で立ち。そして何より瑠璃の目を引いたのは、老婆の細めた目が、白く濁っていたことだ。


「おばあちゃん。目、見えないの?」


 初対面の、しかも自分より何十歳も年上の大人に対して、瑠璃は一切の遠慮もなく率直に尋ねた。

 如月家の令嬢として、本来なら専属の家庭教師から叩き込まれた完璧で丁寧な言葉遣いができるはずなのだが、彼女の行動原理の根底にあるのは常に『対象への純粋な興味』だけだ。相手の身分や立場によって態度を変えることもなければ、大人の顔色を窺って自分を取り繕うような器用な真似もしない。ただ思ったことを、一切の装飾を剥ぎ取ったストレートな言葉で口にする。

 見ず知らずの子供から突然そんな無作法な質問を投げかけられれば、普通の大人は顔をしかめるか、戸惑うだろう。

 しかし、老婆は驚くことも怒ることもなく、ただ口元に深いシワを刻んで、ふわりと笑った。


「そうさのう。もう何年も前に悪くしてしもうてな。明るいか、暗いか。あとは、そこに誰かがおるということくらいしか、ぼんやりとしか分からんのじゃよ」


「ふーん。不便だね。パパに言えば、すぐに最新の人工眼球の手術を受けさせてくれるよ」


「ほっほっほ。そりゃあすごい。じゃが、お迎えが近いこの歳で、今さら見えすぎるのも疲れちまうから、これでええんじゃ。……それより、おチビちゃん。こんな古い家に、一体何の用じゃな? 声の高さからして、まだ小さい子供じゃろう」


 老婆は杖をつきながら、ゆっくりと土間の方へ歩み寄ってきた。

 瑠璃は自分の汚れたドレスの裾を摘みながら、事実だけを淡々と告げた。


「迷子になったの。ねこちゃんを追いかけてたら、黒田がいなくなっちゃった」


「迷子か。それは大変じゃったな。こんな何もない旧市街まで、一人でよく泣かずに来られたもんじゃ。偉い、偉い」


 老婆はそう言うと、しわくちゃの温かい手で、瑠璃の頭をぽんぽんと優しく撫でた。


 瑠璃は、小さく眉をひそめた。

 如月家の大人たちは皆、瑠璃を『如月コンツェルンの次女』として丁重に扱う。使用人は決して瑠璃に直接触れようとはしないし、父や母、祖父の愛情は『お姫様』に対するそれであって、どこか過剰で、息苦しいものだった。


 しかし、この目の見えない老婆の手は違った。ただの『迷子になった一人の子供』として、純粋な労わりの心だけで触れてきているのが分かった。その裏表のない真っ直ぐな手触りが、瑠璃には少しだけ不思議で、決して不快ではなかった。


「お家の人に連絡をしてやらんとな。じゃが、外は暑かったじゃろう。少し上がって、冷たいものでも飲んでいくとええ」


「……うん。お邪魔します」


 瑠璃は土間で泥だらけになった高級な革靴を脱ぎ捨てると、老婆に促されるまま、軋む木の廊下を上がった。

 通されたのは、六畳ほどの小さな和室だった。

 畳は日に焼けて黄色く変色し、壁には謎のシミが浮き出ている。部屋の隅には、四角くて分厚い箱のようなもの(瑠璃はそれが『ブラウン管テレビ』という旧式の家電であることを知識としては知っていたが、実物を見るのは初めてだった)が鎮座し、壁にはチクタクと規則的な音を立てる振り子時計が掛けられている。

 AIが完全な無音で温度も湿度も管理する新市街の住環境とは、すべてが正反対の空間。

 だが、その不規則な振り子時計のアナログな音が、なぜか瑠璃の耳には心地よく響いていた。


「ちょっと待っておれよ。ええと、たしかこの辺りに……」


 老婆が台所らしき場所で冷蔵庫を開け、何やら包丁でトントンと切る音や、カチャカチャと準備をしている音が聞こえる。

 やがて、お盆に乗せられて瑠璃の目の前に運ばれてきたのは、彼女の五年間の人生において、全く見たことのない不思議な飲み物だった。


 背の高いグラス。

 その中を満たしているのは、少し果肉が混じって濁った、淡い薄緑色の液体だった。底からは無数の気泡がシュワシュワと絶え間なく湧き上がり、グラスの表面には、丸くすくわれた真っ白なバニラアイスクリームがぷかぷかと浮かんでいる。


「これ、何……?」


 瑠璃は座布団の上から身を乗り出し、目を限界まで見開いた。

 如月家で出される飲み物といえば、専属シェフが厳選した無傷の高級無農薬フルーツを、特殊なフィルターで極限までクリアに濾過した100%のフレッシュジュースと決まっている。

 目の前にあるこの濁った液体は、見た目の『完璧さ』という点において、如月家の基準を大きく下回るものだった。


「メロンクリームソーダじゃよ。近所の知り合いがな、新市街の高級デパートから『傷物で売り物にならんから』と廃棄されたメロンを、こっそり貰ってきてくれてな。少し熟れすぎとったから、果肉を潰して、安い炭酸水と割ってみたんじゃ」


 老婆は「ほっほっほ」と笑いながら、グラスの横にスプーンを添えた。


「さあ、冷たいうちに飲んでみなさい。甘くて、シュワシュワして、子供はみんな大好きじゃぞ」


 瑠璃はグラスをまじまじと見つめた。

 新市街の基準では『不純物(ゴミ)』として弾かれた果実。本来であれば、令嬢の口に入るはずのないモノだ。もし専属の栄養士がこれを見たら、衛生面を案じて悲鳴を上げるかもしれない。

 だが、グラスの表面を伝い落ちる水滴と、アイスクリームが炭酸に溶け出していくそのグラデーションが、ひどく魅惑的に見えた。


 瑠璃は小さな両手でグラスを包み込むと、ストローに口をつけ、恐る恐る、その淡い緑色の液体を吸い上げた。


「……っ!」


 次の瞬間、瑠璃の小さな身体に、かつて経験したことのない衝撃が走った。

 口の中に流れ込んできたのは、熟れすぎた本物のメロンが持つ、暴力的なまでの濃厚な甘み。そして、それを追うようにして弾ける、舌を刺すような安っぽい炭酸の刺激。さらに、溶け出したバニラアイスが、その鋭い刺激をまろやかに包み込んでいく。

 見た目は不格好で濁っているのに、そのグラスの中には、計算し尽くされた高級ジュースなど足元にも及ばないほどの『圧倒的な果実のルーツ』が生きていた。


(なに、これ……。美味しい……!)


 新市街が『傷物』として切り捨てた不純物の中に、こんなにも極上の真理が隠されていたなんて。

 瑠璃は目を丸くしたまま、今度は夢中でストローを吸い続けた。

 シュワシュワという音とともに、グラスの中の魔法が、みるみるうちに減っていく。氷がカラン、と涼しげな音を立てた。炭酸の刺激で少しだけ涙目になりながらも、彼女はそのグラスから口を離すことができなかった。

 これが後に、『果汁から絞った本物のメロンクリームソーダ』を求め続けることになる絶対君主の、好物のルーツが誕生した瞬間だった。


「ほっほっほ。どうやら、お気に召したようじゃな」


 グラスが空になる音を聞いて、老婆は嬉しそうに目を細めた。

 瑠璃は、口の周りについた泡を手の甲で無造作に拭うと、満足げな、しかしどこか真剣な表情で老婆を見つめた。


「おばあちゃん、面白いね。その飲み物も面白いけど……おばあちゃんの話し方、すごく変」


「変、かのう? 年寄りなんて、みんなこんな話し方をするもんじゃよ」


「ううん。パパのお友達のおじいちゃんたちも、みんなこんな話し方はしない。『〜じゃ』とか『〜かのう』とか、まるで絵本の中の魔法使いみたい。でも私、その話し方、嫌いじゃない」


 五歳の少女の率直すぎる感想に、老婆は腹の底から楽しそうに笑い声を上げた。


「そうかそうか。そりゃあ嬉しいのう。わしの名前は、山内かえでじゃ。おチビちゃんの名前は、何というんじゃ?」


 瑠璃は、背筋を少しだけピンと伸ばした。

 親の威光を借りるためでもなく、令嬢として気取るためでもなく、ただ目の前にいる一人の『面白い人間』に対して、自分という存在をきちんと提示したかったからだ。


「瑠璃。如月瑠璃だよ」


 その名前を聞いた瞬間、かえでの動きがほんの少しだけピタリと止まった。

 だが、すぐにまた元のようにふんわりと微笑むと、深く頷いた。


「そうか。瑠璃ちゃんか。綺麗で、冷たくて、ええ名前じゃ」


 特別扱いするでもなく、ただ一人の子供として受け入れるその態度。

 極上のメロンの余韻が残る口の中で、瑠璃は『山内かえで』という名前を、しっかりと刻み込んでいた。



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