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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 8:絶対君主の裁定と、残酷な救済~

 その真っ直ぐで、射抜くような紫の双眸に見つめられたまま、僕は完全に言葉を失っていた。


 彼女の氷のような論理に、僕の流した涙が『体温』を吹き込んだ。

 月見坂の全てを牛耳る絶対君主から与えられたその評価は、僕のような旧市街の泥臭い庶民にはあまりにも重く、そして同時に、背筋が粟立つような底知れぬ凄みに満ちていた。


「さて、ルーツは完全に解体された。……これより、わし自身の権限において、この狂気に対する完璧な『裁定』を下す」


 如月さんの声のトーンが、一段階下がった。

 理科準備室の空気が、さらにピンと張り詰める。


「裁定って……具体的にどうするんですか?」


 僕は、作業台の上に転がる真っ二つに割れたピーナッツの殻と、泥に塗れた微小なカメラのレンズを指差した。


「如月さんの推理で、これをやったのが持ち主の親だってことは分かりました。でも、僕たちには持ち主の女の子の名前も、顔も分からないじゃないですか。それに……分かったからって、どうやって裁くんですか。こんなの、明らかな犯罪行為だ。証拠として、警察に持っていくしか……」


「愚問じゃな、サクタロウ」


 如月さんは、ひどく冷ややかな、それでいてどこか諦観の混じったため息をついた。


「お主は、この月見坂における『警察』という組織の立ち位置を、過大評価しすぎじゃ。……よいか? この街の警察機構を動かす莫大な予算、彼らが使用する最新鋭のシステム、そして警察幹部どもの退職後の天下り先。そのすべてを掌握し、事実上の生殺与奪の権を握っておるのは、誰じゃと思う?」


「それは……如月コンツェルン、ですよね」


「左様。ならば、その如月の庇護下にある富裕層——すなわち、この学園に子供を通わせるほどの財力と権力を持った親を相手に、警察がまともに機能すると思うか?」


 如月さんの指摘に、僕は喉を詰まらせた。

 旧市街の泥臭い世界で生きてきた僕でさえ、ニュースの裏側に透けて見える「大人の事情」くらいは察することができる。


「もし、わしらがこのカメラ付きのクマを警察に持ち込んだとしよう。警察は表面上は受理するじゃろうが、持ち主が『月見坂の有力者の娘』だと分かった瞬間、捜査はピタリと止まる。……親の元へ即座に連絡がいき、『娘のいたずらでしょう』と揉み消されて終わりじゃ。最悪の場合、証拠品たるこのクマは親の手に戻り、少女は『カメラを隠したこと』を親から厳しく糾弾され、さらに過酷な無菌室の檻へと閉じ込められることになる」


 想像するだけで、全身の血が凍りつくようだった。

 暗闇の中で震えながらピーナッツの殻を割り、血の滲むような思いで偽装工作を行い、自らを監視する目を天井裏に葬った少女。その彼女の決死の抵抗が、大人たちの事勿れ主義によって無に帰し、さらなる地獄の引き金になる。

 そんな理不尽は、絶対に許されてはならない。


「じゃあ……どうするんですか。このまま見過ごすなんて、できないですよね……っ!」


 僕は、作業台に両手をつき、身を乗り出して叫んでいた。

 自分でも驚くほどの熱量だった。つい数十分前まで、如月さんの機嫌を損ねて社会的に抹殺されることだけを恐れていた僕が、顔も知らない少女のために、月見坂のトップに向かって必死に食い下がっているのだ。


 如月さんは、そんな僕の熱帯を帯びた視線を、真っ向から受け止めた。

 そして、氷の彫刻がふわりと溶けるような、ひどく美しく、そして残酷な笑みを浮かべた。


「安心せよ、サクタロウ。わしは『鑑定士』じゃと言ったはずじゃ。……不純物のルーツを暴き、それが世界を汚す罪であると断定したならば。一切の容赦なく、その不純物をこの街から排除する」


 そう言うと、如月さんはひどく忌々しそうな顔をして、ブレザーのポケットから薄く洗練された漆黒のスマートフォンを取り出した。

 彼女は、その無機質な電子機器の表面を親指で軽く弾き、心底つまらなそうに呟く。


「……本来、己の五感以外の安直なデジタル機器に頼るなど、鑑定士の美学に著しく反するのじゃがな。遠く離れた愚か者の首を物理的に刎ねるには、この黒い板切れを使わざるを得ん」


 彼女の特注の革張りノートや、手入れの行き届いたアンティークの万年筆、そして美しい銀色のルーペ。如月瑠璃という少女は、自らの知識と五感という『アナログな機能』を何よりも信頼し、誇りに思っているのだ。

 最新鋭の電子機器(カメラ)に頼って娘の人生を監視していた狂気の親とは、あらゆる意味で対極に位置する存在だった。


 如月さんは端末の画面を数回タップし、耳元へと当てた。

 呼び出し音は鳴らなかった。おそらく、常に彼女からの通信を待ち受けている専属の人間が、即座に回線を開いたのだろう。


「わしじゃ、黒田」


 静かな空き教室に、如月さんの冷徹な声が響いた。


「これより、ドイツの『ローゼンホルツ工房』で造られたアンティークベアのシリアルナンバーを読み上げる。……月見坂市内で、過去十年間にこのクマを購入した者の氏名、家族構成、および現在の所属企業を、三分以内に特定せよ。耳の穴をかっぽじって、一文字も聞き漏らすな」


 如月さんは、スマホで写真を撮って送るという、現代人なら誰もが選ぶであろう最も効率的な手段をあえて放棄した。

 彼女は端末を左手で耳に押し当てたまま、右手で自らの銀色の特注ルーペを開き、右目にカチャリと当てた。

 そして、泥だらけのクマの右腕の付け根。伝統的な木製のディスク関節の側面に刻まれた、米粒よりも小さな金色の刻印へと顔を近づける。自らの『眼』で、直接その罪の痕跡を読み取るために。


「大文字のR。大文字のH。……ハイフンを挟んで、数字の0、4、9、2。……最後に、小文字のbじゃ」


 淀みなく、冷徹な声で告げられたその文字列は、呪文のように旧校舎の理科準備室に吸い込まれていった。

 読み終えた如月さんは、ルーペをパタンと折りたたみ、無言のまま端末を耳に当て続ける。


 ……三分。

 たった三分で、一個人の購買履歴から戸籍、所属企業までを暴き出すというのか。

 アナログな美学を貫きながらも、背後には国家の警察機関すら凌駕する、如月コンツェルンの圧倒的な情報網が控えている。僕は、改めて目の前の少女が持つ絶大な権力の一端を見せつけられ、息を呑んだ。


 理科準備室には、重苦しい静寂が降りていた。

 僕は固唾を呑んで、如月さんの横顔を見つめる。彼女の紫の瞳は、一切の感情を交えることなく、ただ虚空の一点を見据えていた。


 やがて。

 如月さんの端末から、微かに電子音が漏れた。


「……ほう。特定したか。ご苦労じゃ」


 端末を耳に当てたままの如月さんの口角が、ほんのわずかに、残酷な角度へ吊り上がった。


「なるほど、新市街の医療機器メーカーの重役か。……道理で、最新鋭の極小レンズを用いた通信システムを、個人の趣味レベルでぬいぐるみに組み込めるわけじゃ。娘への歪な執着と、自らの技術力をひけらかすための、くだらん自己満足の結晶というわけじゃな」


 犯人の正体が、たった今、確定した。

 娘のベッドにカメラを仕込み、その人生を覗き見続けていた狂気の親の顔と名前が、如月瑠璃のアナログな眼球を通して、完全に掌握されたのだ。


「さて、黒田。ここからが本題じゃ」


 如月さんの声のトーンが、一段と低く、そして重くなった。

 それは、ただの令嬢の我儘ではない。月見坂の経済と命運を握る支配者が、一人の罪人に対して下す、絶対的な死刑宣告だった。


「その男の所属する医療機器メーカーは、わが如月コンツェルンの傘下であり、開発資金の七割を如月財団からの融資に依存しておったな」


 僕は、思わず身震いをした。


「……本日、ただいまをもって、同社へのすべての融資を凍結せよ。さらに、当該重役の携わっているすべてのプロジェクトから如月の資本を引き揚げ、関連する特許の使用許可を即時取り消せ」


 それは、あまりにも苛烈な、社会的な大虐殺だった。


「理由など不要じゃ。『如月の意思に反する不純物であった』、それだけで十分。……明日の朝刊までに、その男の社会的地位と、月見坂における居場所を、チリ一つ残さず完全に消し去れ。……わしの言っている意味が分かるな?」


 電話の向こうの相手が、いかなる返答をしたのかは分からない。

 だが、如月さんは満足げに「よし」と短く応え、忌々しそうに通信を切断すると、すぐさまその黒い端末をブレザーの奥深くへと放り込んだ。


 終わったのだ。

 たった一分足らずの口頭の命令で。一人のエリート重役の人生が、そしてその家族を取り巻く環境のすべてが、根底から完全に破壊されたのである。


 僕は、先ほど渡り廊下で彼女に暴言を吐いた時に感じた「社会的死」の恐怖が、決して大袈裟な妄想などではなく、この月見坂における絶対的な現実なのだということを、まざまざと見せつけられていた。


「如月、さん……」


 僕の声は、情けなく震えていた。


「今ので……その親の会社は、どうなるんですか?」


「どうもならん。明日には倒産し、その男は莫大な負債を抱えて、月見坂を追われることになるじゃろうな」


 如月さんは、まるで今日の夕食のメニューでも決めたかのように平然と言い放った。


「その親は、もう二度とこの街で権力を振るうことはできん。高価なアンティークベアを買い与えることも、最新鋭のカメラシステムを構築する資金も、すべて失う。……これにて、一件落着じゃ」


「一件落着って……」


 僕は、混乱する頭を必死に働かせた。

 確かに、親の権力を奪い、物理的に監視する手段を破壊することはできた。だが、それだけでは、あの暗闇の中でピーナッツの殻を握りしめていた少女が、本当に救われたことにはならないのではないか。


「あの……持ち主の女の子は、どうなるんですか?」


 僕の問いに、如月さんは僕の顔を真っ直ぐに見つめ返した。


「すべてを失うじゃろうな」


 冷酷な、事実の提示だった。


「裕福な暮らしも、エリート校の生徒という肩書きも、何不自由ない無菌室での生活も、明日の朝にはすべて消え去る。莫大な借金と共に、明日からのその日暮らしのパンの耳を数えるような、旧市街の泥臭い現実へと叩き落とされることになる」


「そんな……っ!」


 僕は思わず声を荒げた。


「あの女の子は、何も悪いことをしてないじゃないですか! 親の監視から逃げようとして、必死にこのクマを隠しただけなのに……なんで、その子まで地獄に落ちなきゃいけないんですか!」


 僕の抗議は、まるで自分自身の理不尽に対する怒りのように、狭い理科準備室に響き渡った。

 だが、如月さんは、僕の怒りなど最初から計算に入っていたかのように、静かに、しかし力強く首を振った。


「サクタロウ。お主は、本当の意味での『地獄』とは何か、分かっておらん」


「……え?」


「二十四時間、親の視線に最新鋭のカメラで監視され、一切の自由を奪われ、息を殺して与えられた餌を食むだけの人生。……それと、すべてを失い、泥水に塗れながらも、自らの足で歩き、自らの五感で世界を見ることができる人生。……果たして、どちらが真の地獄じゃと思う?」


 如月さんの言葉が、僕の胸の奥底に、鋭い杭のように突き刺さった。


「あの少女は、このクマの両目をえぐり、ピーナッツの殻を詰め込んで、ドローンの死角へと隠した。それは、彼女自身の意志による、親という絶対的な支配者への明確な『叛逆』じゃ」


 如月さんは、作業台の上の、泥だらけのクマをそっと撫でた。


「彼女は、電子の眼に支配された無菌室の檻の中から抜け出すことを、無意識のうちに望んでいたのじゃ。……わしは、その彼女の叛逆の意志を汲み取り、親の権力という檻そのものを、物理的に完全に破壊してやったに過ぎん」


 窓の外の雨が、少しだけ小降りになってきているような気がした。


「これからの彼女の人生は、過酷じゃろう。旧市街の泥の中で、泣き叫び、這いつくばる日もあるかもしれん。……だが、もう二度と、暗闇の中で監視カメラのレンズに怯える夜は来ない。彼女は、すべてを失うことで、初めて『自分自身の人生』という、絶対的な自由を手に入れるのじゃ」


 それは、月見坂のすべてを牛耳る令嬢が語るには、あまりにも泥臭く、そして痛切な『自由』の定義だった。

 親の庇護を失い、社会の底辺へと転落する。世間一般から見れば、それは完全な悲劇だ。

 しかし、あの暗闇の中でピーナッツの殻を割り、狂気から逃れようと必死に足掻いた彼女の魂にとっては。……如月さんのもたらした破滅こそが、唯一の『救い』だったのかもしれない。


 僕は、言葉を失い、ただ目の前の絶対君主を見つめた。

 冷酷で、傲岸不遜で、人の名前を勝手に略し、電子機器を嫌悪して己の五感だけを信じ、人の心に土足で踏み込んでくる、理不尽の化身。

 だが、彼女のその氷のような論理の奥底には、人間の醜悪な罪を絶対に許さず、もがき苦しむ者の魂の叫びを掬い上げる、果てしなく気高く、美しい意志が宿っていた。


「……如月さんって、本当に……」


 僕が何かを言いかけた、その時だった。

 理科準備室の静寂を破るように、部屋の隅に置かれていた黒いトランクケースの奥から、チリリリリ、という鋭い電子音が鳴り響いた。



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