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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 7:硝子の瞳と、狂気の監視者~

 ピーナッツの殻に込められた、顔も知らぬ少女の血の滲むような生存戦略。

 その真実が白日の下に晒された理科準備室には、ひどく重苦しい、泥沼のような沈黙が降りていた。


 僕は、作業台の上に転がる真っ二つに割れた殻の残骸と、そこから覗く極小のレンズから、どうしても目を逸らすことができなかった。

 カメラの存在に気づいた時、彼女はどれほどの絶望を味わったのだろう。レンズを塞ぐために、震える手でピーナッツの殻を割り、中身を抜き、接着剤で張り合わせる。その息の詰まるような暗闇での作業を想像するだけで、胃の奥が痙攣し、酸っぱいものが込み上げてくる。


「如月さん……」


 僕は、ひどく掠れた自分の声に驚きながらも、問いかけずにはいられなかった。


「……一体、誰がこんなおぞましいことをしたんでしょうか。ただのストーカーですか? 狂信的な変質者が、彼女の部屋に忍び込んで、このクマを置いていったとか……?」


「愚鈍な推論じゃな、サクタロウ」


 シワ一つない真新しいブレザーの袖口を優雅に整えながら、如月さんは冷ややかに僕の言葉を切り捨てた。

 雨に濡れた姿から完璧な令嬢の装いへと戻った彼女は、その紫の瞳に一切の感情を交えることなく、ただ冷徹に事象を解体していく。


「よく考えよ。先ほども言ったが、このクマは極めて高価な特注品じゃ。見ず知らずの変質者が、窓から忍び込んでこんな数十万円もするアンティークベアを置いていけば、少女も、そして同居しているであろう家族も、即座に不審に思って警察に通報するはずじゃろうが」


「あ……」


「さらに言えば、これほど精巧にカメラを仕込み、長期的な電源を確保し、映像を無線で飛ばす細工を施すには、相当な資金力と技術、そして『それを極めて自然に、少女の最も無防備なプライベート空間に配置できる立場』が必要になる」


 如月さんの紫の瞳が、薄暗闇の中で刃物のように冷たく光った。


「つまり、この呪われたクマを少女に与え、四六時中監視していた犯人は。……このクマを『愛情を込めたプレゼント』として彼女に贈り、それが自室のベッドに置かれていても全く不自然ではない、ごく身近な人間ということじゃ」


 ドクン、と。僕の心臓が、嫌な音を立てた。

 高価なプレゼントを怪しまれることなく贈ることができ、少女のプライベートな空間に介入できる、裕福な人間。

 それはつまり。


「……まさか、親……ですか?」


 僕の声は、震えを通り越して、ひどく上擦っていた。


「自分の子供の部屋に、こんなカメラ付きのぬいぐるみを置いて、監視してたって言うんですか!? そんなの、いくらなんでも異常すぎる……っ!」


「異常? サクタロウ、お主は月見坂という街の、そして『富裕層(無菌室)』というものの本質を全く理解しておらんようじゃな」


 如月さんは、アンティークの万年筆を指先で弄びながら、まるで氷点下の世界を語るような冷たい声で言った。


「この月見坂において、権力や財力を持つ者にとって、子供とは『愛すべき家族』であると同時に、自らの血統とステータスを証明するための『最高級の所有物』なのじゃ。……所有物である以上、傷つくことは許されん。失敗することも、親の敷いた完璧なレールから外れることも許されん。ゆえに、一切の不純物から遠ざけ、完全な無菌状態の檻の中で飼育しようとする」


 彼女の言葉は、ただの推理という枠を超え、どこか彼女自身の人生の輪郭をなぞっているかのような、ひどく重く、息苦しい実感を伴っていた。


「その歪な『愛という名の支配』が行き着く果てが、これじゃ」


 如月さんは、泥だらけのクマを指差した。


「娘が夜更かしをしていないか。親の決めた婚約者以外の、どこの馬の骨とも知れん男と連絡を取っていないか。学業に不要な、俗悪なものに触れていないか。……それらを完全に把握し、完璧な無菌室で娘を飼い殺すため。親、あるいはそれに準ずる絶対的な権力を持った保護者が、この硝子の瞳を通して、少女の人生のすべてを監視し続けていたのじゃ」


 理科準備室に、耐え難い沈黙が降りた。

 窓の外の雨音だけが、無慈悲に響き続けている。


 自分の親に、二十四時間、すべてのプライバシーを覗き見られていた。

 その事実に気づいてしまった時の、あの少女の絶望は、一体どれほどのものだっただろうか。


 僕のような旧市街の庶民は、親に文句を言い、反抗し、時には隠れて安い漫画を読んだり、深夜に地下アイドルの配信を見てニヤニヤしたりすることができる。それが当たり前の「自由」だと思っていた。

 だが、このクマの持ち主だった少女には、その当たり前の自由すら、最初から与えられていなかったのだ。

 愛していると微笑む親の目が、実は自分を縛り付ける冷酷な監視カメラのレンズと同じだったと知った時、彼女の世界はどれほど凄惨に崩れ去っただろうか。


「……持ち主の女の子は」


 僕は、乾いた唇を舐め、震える声で尋ねた。


「このカメラに気づいた時……どんなに、怖かっただろうか」


 如月さんは答えなかった。ただ、静かに僕の言葉の続きを待っているようだった。


「だって……カメラを壊せば、親にバレる。監視している犯人に『気づいたこと』がバレて、もっとひどい束縛を受けるかもしれない。だから彼女は、カメラを生かしたまま、レンズだけを塞がなきゃいけなかった。……それも、カメラに自分の『顔』や『刃物』が映らないように、背後から」


 僕の脳裏に、会ったこともない、顔も知らない一人の少女の姿が、痛烈なほどのリアリティを持って浮かび上がっていた。


 夜更けの、静まり返った自室。

 少女は、ベッドの上のクマから放たれる『見えない視線』に怯えながら、必死に寝たふりをしていただろう。親が寝静まるのを待ち、毛布を頭から被り、その暗闇の中で、震える手でポケットに隠し持っていたピーナッツの殻を割ったはずだ。

 中身の豆を抜き出し、空っぽのカプセルを作る。

 そして、決してカメラの視界に自分の姿が映らないように細心の注意を払いながら、鋭利な刃物を握りしめた。


『見ないで。私を見ないで。私の人生から、出て行って……っ!』


 そんな声なき悲鳴を上げながら。

 彼女は、自分が大切にしていたはずのクマの顔に刃物を突き立て、中の綿ごと、カメラが仕込まれた眼球を強引にえぐり出したのだ。

 そして、えぐり出したばかりのその眼球を、急いでピーナッツの空殻の中に閉じ込め、接着剤で封印し、再びぬいぐるみの顔の奥底に埋め込んだ。

 すべては、自分を縛り付ける狂気的な親の目から、ほんのわずかな「自由」をもぎ取るために。


「……怖かっただろうな」


 僕の目から、ボロッと、情けない涙がこぼれ落ちた。


「自分の部屋なのに、息をするのすら怖かったはずだ。誰にも相談できなくて、たった一人で……こんなおぞましい細工をして。……そして、次の日、何食わぬ顔でこれを学校に持ってきて、ドローンの死角になる渡り廊下の天井裏に、命がけで隠したんだ」


 僕は、作業台の上の泥だらけのクマを見つめ、両手で顔を覆った。


「こんなの……あんまりだ。親の愛情なんかじゃない。ただの犯罪だ。……地獄じゃないか……っ」


 赤の他人の、しかも顔も知らない富裕層の令嬢の事件だ。僕のような凡庸な人間に、泣く権利などないのかもしれない。

 だが、ピーナッツの殻というひどく滑稽で、しかし血の滲むような必死の偽装工作の跡を見たせいで、僕の心は、その少女が味わったであろう底なしの孤独と恐怖に、完全に同調してしまっていた。


 僕が嗚咽を漏らしながら立ち尽くしていると、不意に、コロン……という小さな音がした。


 顔を上げると、如月さんが、ピンセットの先で空っぽになったピーナッツの殻を弾き、作業台の上で転がしていた。

 その紫の瞳は、泣いている僕を嘲笑うでもなく、ただ静かに、何かを見極めるような光を宿して僕を見つめていた。


「……サクタロウ」


 如月さんの声は、先ほどまでの氷のような冷徹さが少しだけ鳴りを潜め、どこか不思議な、探るような響きを帯びていた。


「お主は、顔も知らぬ人間の残した不純物を見て、涙を流すのか」


「え……」


 僕は、慌ててブレザーの袖で涙を乱暴に拭った。


「す、すみません。僕、頭が悪いから……すぐ感情移入しちゃうっていうか。如月さんみたいに、冷静に論理を組み立てて……完璧な推理とか、できないから……」


 言い訳のように呟く僕に対し、如月さんはゆっくりと首を振った。


「否。それはお主の『弱さ』ではない。……わしには絶対に持てない、ひどく泥臭くて、ひどく美しい『機能』じゃ」


「機能……?」


 如月さんは、特注のルーペをパタンと折りたたみ、新しい制服のポケットへと仕舞い込んだ。

 そして、真っ直ぐに背筋を伸ばし、僕の目を正面から見据えた。


「わしは、月見坂の闇を裁定する鑑定士じゃ。すべての事象を論理で解体し、真実のルーツを暴き出すことができる。……だが、わしのこの眼には、決定的な『欠陥』があるのじゃ」


「欠陥……如月さんに?」


「そうじゃ。わしは、他者の絶望や恐怖を論理として理解することはできても……それを自らの心で『感じる』ことができん。わしの心は、常に氷点下の無菌室(如月家)に閉ざされておるゆえにな」


 如月さんのその告白は、あまりにも静かで、しかし彼女が背負っている『月見坂の頂点に立つ者』としての、圧倒的な孤独を物語っていた。

 論理だけで世界を切り刻むことができるがゆえに、そこに血を通わせることができない。それが、如月瑠璃という絶対君主の、唯一の死角だったのだ。


「だが、サクタロウ。お主のその凡庸な脳味噌と、泥臭い直感は。……わしの氷の論理に、確かな『体温』を吹き込んだ」


 如月さんは、作業台の上に置かれた泥だらけのクマのぬいぐるみに、そっと手を伸ばした。

 そして、そのピーナッツが詰め込まれたおぞましい顔を、まるで傷ついた小鳥を労わるように、静かに撫でた。


「お主が涙を流してくれたおかげで。この不純物に込められていた少女の悲鳴は、ただの論理的なデータではなく、裁定されるべき『本物の事件』として、この世界に昇華されたのじゃ」


 雷鳴が遠ざかり、窓を叩く雨の音が、少しだけ弱まってきたような気がした。

 薄暗い理科準備室の中で、如月瑠璃の紫の瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いていた。

 それは、ただの気まぐれな令嬢の目ではない。月見坂の闇に潜む、すべての不純物を裁定する者の、絶対的な意志の光だった。



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