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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 6:凡庸な助手の直感と、失われた眼球~

 僕の口から出たその突拍子もない指摘に、如月さんは手元の動きをピタリと止めた。


 薄暗い理科準備室の中で、彼女はピンセットの先に挟まれた泥まみれのピーナッツへと、鋭い紫の瞳を向ける。


「……軽く凹む、じゃと?」


 如月さんは、指先の極細ピンセットにわずかに力を込めた。

 パキッ、という、ひどく乾いた小さな音が響く。

 中身が詰まった普通の落花生であれば、豆の硬い感触がピンセットの先から伝わってくるはずだ。しかし、彼女が挟んだその殻は、まるでお菓子の最中(もなか)のように、あっさりと中央からひしゃげてしまった。


「なんじゃ、これは」


 如月さんの形の良い眉が、微かに寄る。

 彼女はトランクからもう一本のピンセットを取り出すと、ひしゃげたピーナッツの殻の亀裂に差し込み、躊躇いなく左右に真っ二つに割った。


 中には——何もなかった。


「……空っぽだ」


 僕は、思わず間抜けな声を漏らした。


「中身の豆が、綺麗に抜き取られてる。……ただの、薄い外殻だけだ」


 殻の内側には、薄皮の欠片すら残っていなかった。刃物か何かで殻の継ぎ目を一度丁寧に割り、中身の豆を完全に取り除いた後、再び殻だけを接着剤のようなもので元の形に張り合わせた痕跡がある。


「どういうことだ……? なんでわざわざ、中身を抜いてから空洞の殻をクマの顔に詰め直したんだ?」


 僕は完全に混乱していた。

 これをやった人間が、持ち主自身であることは先ほどの如月さんの論理で理解した。だが、わざわざ中身の豆を抜いて『ただの空洞の殻』にするという細工には、一体どんな意味があるというのだろうか。


「サクタロウ」


 静かな、ひどく透き通った声だった。

 如月さんは、割れたピーナッツの空殻を作業台の上に置いたまま、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。

 着替えたばかりのシワ一つない真新しいブレザーが、彼女の完璧な冷徹さを際立たせている。


「お主は今、わしのピンセットの力加減を見ただけで、この殻が『不自然に凹んだ』ことに気づいたな。……なぜじゃ?」


「えっ? なぜって……」


 突然の問いに、僕は戸惑った。


「そりゃ、僕だってピーナッツくらい食べたことありますから。普通の殻付きピーナッツなら、中に硬い豆が二粒くらいミッチリ詰まってるじゃないですか。だから、あんな風にピンセットで挟んだくらいじゃ、簡単に凹んだりひしゃげたりしないはずだなって、直感的に……」


「そこじゃ」


 如月さんが、バッ、と顔を上げた。

 その紫の瞳が、暗闇で真実という名の獲物を見つけた猛禽類のように、爛々とした知的な光を放っていた。


「わしは、ピーナッツなどという泥臭い庶民の食物を、自らの手で殻を剥いて食べた経験がない。食事に出るとしても、専属のシェフが完璧に調理した状態のものだけじゃ。……ゆえに、この殻の中にどれほどの質量と硬さの豆が詰まっているのかという『触覚のデータベース』が、わしの脳内には完全に欠落しておった」


 如月さんは、小さな肩をすくめ、短く息を吐いた。


「完全なる盲点じゃった。……だが、旧市街で育ったお主のその凡庸な経験則が、見事にわしの論理の死角を補ったのじゃ」


 それは、月見坂の全てを牛耳る絶対的な鑑定士が、僕という人間の『泥臭い視点』の価値を、初めて明確に認めた瞬間だった。

 しかし、僕がその事実に安堵する暇もなく、如月さんは再び泥だらけのクマの顔へと向き直った。


「さて、サクタロウ。お主の直感のおかげで、事態はさらに深刻な猟奇性を帯びてきたぞ」


「深刻な、猟奇性……」


「そうじゃ。なぜ持ち主は、ただの代用品としてではなく、わざわざ中身を抜いて『空洞の殻』にしたピーナッツを必要としたのじゃと思う? お主のその直感で、もう一度推理してみよ」


 試されている。

 僕はプレッシャーで胃がキリキリと痛むのを感じながら、必死に思考を回転させた。


 えぐり取られた目。

 わざわざ中身を抜いて、空っぽにしてから張り合わされたピーナッツの殻。

 食べるためではない。ただのゴミとして突っ込んだわけでもない。


「……何かを、隠すためですか?」


 僕は、自分の口から出た言葉を、ゆっくりと咀嚼しながら推論を組み立てていった。


「わざわざ中身を抜いて、空洞にした。それはつまり、このピーナッツの殻を『小さなカプセル』として使いたかったってことじゃないですか? この中に、何か絶対に隠さなきゃいけないものを入れて、殻を閉じて……それを、えぐり取ったクマの目の空洞に、もう一度埋め込んだ」


「ほう。続けてみよ」


 如月さんの声が、促すように低く響く。


「じゃあ、何を隠したのか。……それは、えぐり出した『元の目玉』そのものなんじゃないですか?」


 言い終えた瞬間、僕は自分の推理の飛躍に冷や汗をかいた。

 目をえぐり出して、それをわざわざピーナッツの殻に詰めて元の場所に戻す。そんなこと、あまりにも不条理で狂っている。


 しかし。

 如月さんは、僕の推論を否定しなかった。

 彼女は、まるで初めて僕という存在を自らの助手として正しく認識したかのように、その深い紫の瞳で僕の顔をじっと見つめた。


「……サクタロウ。お主、やはりただの怯えた犬ではないな」


「えっ……」


「正解じゃ。持ち主は、えぐり出した『元の目玉』を、わざわざこの殻の中に収納したのじゃ」


 如月さんは、先ほど真っ二つに割ったピーナッツの殻の片割れを、ピンセットでそっと持ち上げた。

 そして、その殻の内側……接着剤で張り合わされていたであろう継ぎ目の部分を、僕の目の前に突きつけた。


「よく見ろ、サクタロウ。この殻の内側には、極小の黒い『配線』のようなものが、張り付いたまま千切れておるじゃろう?」


「配線……!?」


 僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、目を限界まで見開いて凝視した。

 泥と汚れに紛れて気づかなかったが、確かに、割れたピーナッツの殻の内壁に、髪の毛よりも細い、黒い導線のようなものがへばりついている。

 さらに、その殻の底には、泥に塗れたごく小さなガラスレンズのようなものが、不気味に黒光りしながら転がっていた。


「そんな……じゃあ、このピーナッツの殻の中に、本当に元の目玉が入ってたってことですか!? でも、なんでこんな配線が……」


「ただのガラス玉ではないからじゃよ、サクタロウ」


 如月さんの声が、まるで死刑宣告のように冷たく、そして重く響き渡る。

 窓の外の春の嵐が最高潮に達し、窓ガラスを激しく叩きつけた。


「この高価なテディベアの瞳には、最初からある『恐るべき機能』が仕込まれていたのじゃ。持ち主の少女は、それを通して自分を見つめる『視線』の正体に気づき、発狂するほどの恐怖に駆られた」


 僕は、息をするのも忘れ、彼女の次の言葉を待った。

 いや、もう僕の凡庸な脳味噌でも、その答えに行き着いていた。

 細い配線。小さなレンズ。そして、持ち主を監視し続ける、おぞましい視線への執着。


「その瞳の正体は——」


 如月瑠璃の紫の瞳が、薄暗闇の中で、人間の最も醜悪な罪を暴き出すように鋭く細められた。


「——超小型の『カメラ』じゃよ」


 雷鳴が、僕の足元から旧校舎全体を揺さぶった。

 カメラ。

 その三文字が意味する暴力性に、僕は言葉を失った。


 親の月給が吹き飛ぶほど高価なぬいぐるみ。それを買い与えられるほど裕福な家庭。

 その少女は、自室のベッドの上で、あるいは着替えをするクローゼットの近くで、毎日この愛らしいクマのぬいぐるみに話しかけ、抱きしめていたはずだ。

 しかし、そのクマの無機質な瞳の奥からは、常に『何者か』の粘着質な視線が、彼女のプライベートなすべてを舐め回すように監視し、録画し続けていたのだ。


「そんな……それじゃあ、これ……立派な犯罪じゃないか……っ!」


 僕の口から、無意識のうちに激しい怒りと恐怖が入り混じった声が漏れていた。

 先ほど如月さんが「いじめという言葉は存在せん」と斬り捨てた意味が、今になって痛いほど理解できた。

 こんなおぞましい行為を、学生同士のトラブルなどという生ぬるい言葉で片付けていいはずがない。これは、一人の人間の精神を根底から破壊し、その人生を土足で踏みにじる、悪辣極まりない犯罪行為だ。


「……その通りじゃ、サクタロウ」


 如月さんは、ひしゃげたピーナッツの殻を作業台の上に静かに置き、冷徹な声で告げた。


「持ち主の少女は、自分を監視するこのカメラの存在に気づき、恐怖のあまり刃物で両目をえぐり出した。……だが、ただカメラを叩き割ったり、配線を引きちぎって破壊したりすれば、どうなる?」


「どうなるって……監視者のモニターの映像が、乱れるか、完全に途絶えますよね」


「そうじゃ。突如としてノイズが走り、映像がシャットダウンする。そうなれば、監視者は即座に『カメラが見つかり、破壊された』という事実を悟るじゃろう。……監視者がもし、同じ家の中にいる人間だったとしたら? 激昂した犯人が、直後に自分の部屋へ乗り込んでくるかもしれん」


 如月さんの言葉に、僕の背筋を這う悪寒がさらに一段階跳ね上がった。

 カメラを壊せば、自分が気づいたことが犯人にバレる。

 それは、被害者にとって最も恐ろしい『報復のトリガー』を引きかねない絶望的な状況だ。


「だから……このピーナッツの殻なのか」

 僕の声は、震えでひどく掠れていた。


「左様。持ち主は、えぐり出したカメラ内蔵の眼球を、わざわざ中身を抜いたこの『ピーナッツの暗室』の中に封入し、それを再びぬいぐるみの顔の奥底に埋め込んだ。殻を接着し、外からの光を完全に遮断した状態でな」


 なんという、血の滲むような偽装工作だろうか。

 見えない犯人への恐怖に震えながら、少女は必死に刃物を握りしめた。カメラを壊してはいけない。電源を切ってもいけない。

 だから彼女は、カメラを生かしたまま、その視界だけを完全に『奪う』方法を選んだのだ。


「ピーナッツの厚い殻の中に閉じ込められれば、カメラのレンズには一切の光が届かん。監視者のモニターには、ノイズもエラーも表示されず、ただ延々と『真っ暗闇の映像』だけが送信され続けることになる」


 如月さんは、作業台の上のクマを、ひどく愛おしむような、それでいて深い敬意を払うような手つきで撫でた。


「監視者は思うじゃろう。『ぬいぐるみがベッドの下にでも落ちたのか』、あるいは『クローゼットの暗がりに仕舞い込まれたのか』と。……少女は、カメラを破壊したことを悟らせず、ただの日常の事故を装うことで、犯人の目を欺いたのじゃ」


 そして彼女は、そのカメラが仕込まれたぬいぐるみを持ち出し、電波が届かず、かつ清掃ドローンにも絶対に見つからない場所——渡り廊下の天井の梁の上という完璧な死角へと、自らの手で葬り去ったのだ。


 これが、ドローンの死角に隠されていた、呪われたクマのぬいぐるみの真実。

 ピーナッツの瞳が映していた、底知れぬ人間の悪意と、たった一人でそれに抗おうとした被害者の、あまりにも孤独で悲壮な生存戦略のルーツだった。


「なんという……美しい泥臭さじゃろうか」


 如月瑠璃は、薄暗い理科準備室の中で、深い感嘆の息を漏らした。

 その紫の瞳に浮かんでいたのは、狂気への好奇心だけではない。巨大な恐怖に直面しながらも、身近にあるピーナッツの殻一つで絶望的な状況を打破しようとした一人の少女の『知性』に対する、鑑定士としての最上級の賛辞であった。



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