第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 5:猟奇の構造と、えぐられた両目~
『このピーナッツの瞳が映していた真実の地獄を、共に覗き込んでみようではないか』
如月さんのその低く静かな宣言は、窓の外で轟く春の嵐の雷鳴よりも、よほど恐ろしく僕の鼓膜を震わせた。
ここは旧校舎の最奥に位置する、今はもう使われていない理科準備室。
分厚いカーテンは半分閉ざされ、薄暗い室内には長年放置されたアルコールランプやガラスビーカーの匂い、そして微かな薬品の残香が漂っている。外の豪雨が窓ガラスをガタガタと打ち据える音だけが、この空間がまだ世界と繋がっていることを示す唯一の証だった。
部屋の中央に鎮座する古い木製の作業台。
その上に横たわっているのは、泥水をたっぷりと吸い込んで赤ん坊のような重さになった、布製のクマのぬいぐるみだ。
そして、そのぬいぐるみの顔——本来可愛らしい目が縫い付けられているはずの場所は、鋭利な刃物で無惨に抉り取られ、代わりに本物の『ピーナッツの殻』が左右の空洞にぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「……真実の地獄って。如月さん、やっぱりこれ、ただのゴミじゃなくて何かヤバい事件の証拠品なんじゃ……」
僕は作業台から一歩距離を取り、自らの腕をさすりながら怯えた声を出した。
僕のような旧市街の泥臭い環境で育った人間でさえ、こんな猟奇的な悪意の塊に遭遇したことはない。こんなものを平然と拾い上げ、あまつさえ『極上の不純物』などと呼んで恍惚としている目の前の同級生は、やはりどう考えても正気ではなかった。
着替えを終え、シワ一つない完璧な真新しいブレザー姿に戻った如月さんは、僕の怯えなど一切意に介さず、特注の革張りノートを開き、アンティークの万年筆を走らせ始めた。
「サクタロウ。お主は『事件』という言葉を、ひどく血生臭い、警察が介入するような物理的な殺傷沙汰に限定して考えておるようじゃな。だから本質を見誤る」
如月さんは、万年筆のペン先で、作業台の上のクマをピタリと指し示した。
「鑑定士たるわしの眼から見れば、物理的な死体が転がっていようがいまいが、そこに『人間の歪な情動のルーツ』が遺されていれば、それはすべて裁定すべき事件じゃ。……さあ、解剖を始めるとしよう」
彼女はトランクから、医療用の極細のピンセットと、冷たい銀色の光を放つ小さなメスを取り出した。
そして薄暗い部屋の中で、その紫色の瞳を極限まで細め、泥だらけのクマのぬいぐるみに顔を近づけた。
「まずは、この不純物そのものの『器』としての価値じゃ」
如月さんはピンセットの先で、泥で固まったクマの毛並みをそっと掻き分けた。
「サクタロウ、お主の眼には、これがゲームセンターの景品や、量販店で売られているような安物のぬいぐるみに見えるか?」
「えっ? いや……泥だらけだし、ボロボロだし、正直よく分からないですけど。でも、学生が学校に持ってくるようなものなら、そんなに高いものじゃないんじゃ……」
「愚鈍な推論じゃ」
如月さんは即座に切り捨てた。
「よく見ろ。この生地は化学繊維のアクリルなどではない。最高級のアンゴラヤギの毛から作られた、本物のモヘア生地じゃ。さらに、腕と脚の付け根の部分。触ってみれば分かるが、プラスチックの安価なジョイントではなく、昔ながらの伝統的な木製ディスクと金属ピンで接続されておる。縫製のピッチも恐ろしく均等で、機械縫いではなく熟練の職人の手縫いじゃな」
「て、手縫い……モヘア?」
「要するに、これはただの玩具ではないということじゃ。専門店でオーダーメイドされたか、あるいは海外の歴史ある工房で限定生産された、極めて高価なアンティーク調のテディベア。……お主の親の月給が軽く吹き飛ぶほどの値がつく代物じゃな」
「げっ……!?」
僕は思わず奇声を上げて、作業台からさらに半歩後ずさった。
親の月給が吹き飛ぶ値段のぬいぐるみが、なぜこんな泥だらけの呪物に変えられて、渡り廊下の天井なんかに隠されていたというのか。
「あの、じゃあ……もしかして、これって『いじめ』なんじゃないですか?」
僕は、旧市街の公立中学校で幾度となく目にしてきた、スクールカーストの記憶を引っ張り出し、一つの仮説を立てた。
「この如月学園がいくらエリート校だっていっても、生徒同士の嫉妬や妬みはあるはずです。誰かが、こんな高価で大事なぬいぐるみを親から買ってもらって、それを見せびらかしたか何かで、他の生徒の反感を買った。だから、いじめっ子のグループがそれを奪い取って、刃物でズタズタにして目をえぐり、絶対に持ち主が見つけられないように、渡り廊下のドローンの死角に隠した……。それなら、辻褄が合いませんか?」
僕なりの、精一杯の泥臭い推理だった。
高価なものを壊して隠す。いかにも陰湿な学生がやりそうな、ありがちな悪意の形だ。
しかし。
僕が『いじめ』という言葉を口にした瞬間。
ピタリ、と。
如月さんの指先でクルクルと弄ばれていたメスの動きが止まった。
部屋の温度が、物理的に数度下がったような錯覚に陥る。彼女の紫の瞳が、先ほどまでの知的な探求の光から一転、絶対零度の氷の刃となって、僕の喉元に突きつけられていた。
「……サクタロウ」
地を這うような、恐ろしく冷たい声だった。
「わしの前で二度と、その反吐が出るほど甘ったるい単語を口にするな」
「え……? あ、甘ったるい、って……」
「『いじめ』などという言葉は、この世に存在せん」
如月さんは、銀色のメスを僕の鼻先に突きつけるようにして、静かに、しかし激しい怒りを孕んだ声で断言した。
「人間を殴れば傷害罪じゃ。物を隠し、壊せば窃盗罪に器物損壊罪。陰口を叩き、集団で人間の尊厳を傷つければ名誉毀損罪じゃ。……それらはすべて、社会から隔離されるべき明白な『犯罪行為』に他ならん」
息を呑む僕を、絶対君主の瞳が容赦なく射抜く。
「それをどうじゃ。教育者気取りの大人どもや、事勿れ主義の社会は、学校という閉鎖空間で起きた凶悪な犯罪を『いじめ』という三文字のひらがなでパッケージングしおる。加害者を子供だからと擁護し、卑劣な犯罪行為を矮小化し、被害者の絶望から目を背けるための、子供騙しの隠れ蓑。……わしは、そんな虫唾の走る欺瞞の言葉を、断じて認めん」
僕は、雷に打たれたように立ち尽くした。
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
いじめじゃない。犯罪なのだ。
僕自身、無意識のうちに『学生同士の揉め事』という枠組みで、他者の悪意を軽く見積もっていた。テレビのニュースで聞くような曖昧な言葉を使って、加害者の罪の重さをぼやかしていたのだ。
目の前の少女は、月見坂の全てを牛耳る権力者でありながら、誰よりも現実の罪から目を背けず、人間の悪意の正体を正確に裁定しようとしている。
「す、すみません……。僕が、間違ってました」
僕は、心の底からの反省と共に頭を下げた。この少女を『世間知らずの箱入り娘』などと思っていた自分の愚かさが恥ずかしかった。
「……分かればよい」
如月さんはメスを下ろし、再び作業台の上のクマへと視線を戻した。
「その上で、お主の言う『同級生による器物損壊および窃盗』の線で推理してやろう。……サクタロウ、お主は人間の『悪意の構造』というものを全く理解しておらん」
彼女のトーンが、再び冷徹な鑑定士のものへと戻る。
「他者の大切な所有物を奪い、破壊するという犯罪行為はな、自己の優位性の証明であり、被害者の『絶望する顔』を見ることで初めて成立する娯楽なのじゃ。もし、嫉妬に狂った同級生がこの高価なクマを奪い、刃物で切り刻んだとしよう。ならば彼らは、それを持ち主の机の上に置くか、あるいは持ち主の目の前で泥水に沈めるはずじゃ。そうやって、相手の心に直接的なダメージを与えなければ、犯罪者どもの嗜虐心は満たされん」
如月さんの言葉に、僕はハッとした。
確かにそうだ。僕が中学時代に見た器物損壊の現場も、壊された持ち物は必ず『本人が一番見つけやすい場所』に、これ見よがしに放置されていた。相手が悲しむ姿を見るのが、加害者の最大の目的なのだから。
「だが、このクマはどうじゃ? わしが先ほど証明した通り、これは『ドローンの赤外線センサーすら届かない、渡り廊下の天井の梁の上』という、完全な死角に長期間隠匿されていたのじゃぞ。そんな場所に隠してしまえば、被害者はただ『ぬいぐるみをどこかに落として紛失してしまった』としか思わん。加害者にとって、そんな結果は何のカタルシスも生まんのだ」
「あ……」
「つまり、これを刃物で傷つけ、ドローンの死角に隠した者は、持ち主を絶望させることを目的としていない。……むしろ、この無惨な姿を『誰の目にも触れさせたくなかった』からこそ、あのような死角に隠蔽したのじゃ」
如月さんの論理は、いつだって刃物のように冷たく、そして恐ろしいほどに理路整然としていた。
他者への見せしめではない。誰にも見つからないための隠蔽。
だとしたら、一体誰が、何のためにこんなことを?
「まさか……」
僕は、自分の口から出ようとするその言葉の異常さに、思わず唾を呑み込んだ。
「これをやったのは、他の誰でもない……『持ち主自身』だって言うんですか!?」
如月さんは、無言のまま口角を吊り上げ、正解だと言わんばかりに小さく頷いた。
「自分自身の、親の月給が吹き飛ぶほどの大切なぬいぐるみを、自らの手で刃物でえぐり、そして誰にも見つからない場所に封印した。……それこそが、この不純物が抱える猟奇の第一歩じゃ」
理科準備室の気温が、さらに数度下がったような気がした。
自傷行為に近い、持ち物への異常な破壊。持ち主の生徒は、一体どれほどの精神状態に追い詰められて、自分の大切なクマに刃物を向けたというのか。
「だが、まだ謎の核心には至っておらん」
如月さんは、右目に当てたルーペの位置を直し、再び作業台の上のクマの顔へと視線を落とした。
「最大の不可解は、この『破壊の手法』じゃ」
「手法……目を抉ったことですか?」
「そうじゃ。サクタロウ、もしお主が何らかの理由で極度のストレスを抱え、八つ当たりや自傷の代替としてぬいぐるみを破壊しようとしたなら、どうする?」
急な質問に、僕は少し考え込んだ。
「ええっと……ハサミで全身を切り裂くとか。首を引きちぎるとか、ライターで燃やすとか……とにかく、全体をメチャクチャにすると思います」
「それが一般的な『破壊衝動』の表れじゃな」
如月さんは、メスの切っ先で、クマの両目の空洞の縁をそっと持ち上げた。
「だが、これを見ろ。このクマの胴体や手足には、一切の刃物の傷跡がない。泥で汚れてはいるが、モヘアの生地自体は無傷じゃ。……破壊の痕跡は、この『両目』という極めて限定的な一点にのみ集中しておる」
如月さんがメスで示したその空洞の周囲には、元のプラスチックの目が縫い付けられていたであろう太い糸が、何本も無惨に断ち切られて飛び出していた。
「糸の切断面がひどく毛羽立っておる。これは、ハサミで丁寧に切り取ったのではない。カッターナイフのような鋭利な刃物を、強引に、何度も何度も眼窩に突き立てて、執拗に目玉だけを『えぐり出した』痕跡じゃ」
想像するだけで、胃の奥が気持ち悪くせり上がってくる。
持ち主は、クマの全身を壊したかったわけではない。ただただ、このぬいぐるみの『目』という器官だけを、凄まじい執念と憎悪をもって物理的に排除したかったのだ。
「そして、最も不可解なのがこれじゃ」
如月さんは、左手に持った極細のピンセットを、クマの右目の空洞へと静かに差し込んだ。
メリーッ、という、水を含んだ綿が引き裂かれるような嫌な音が響き、彼女のピンセットの先が、一つの『異物』を空洞の中から摘み出して、薄暗い空間に掲げた。
「なぜ、わざわざえぐり出した目の跡地に、こんな『ピーナッツ』などを詰め込んだのか」
ピンセットの先で挟まれたそれは、紛れもなく本物のピーナッツの殻だった。
泥水に浸かっていたせいで全体が黒ずみ、ふやけて不気味な模様を浮かび上がらせている。
「ただ目を排除したいだけなら、えぐり取って空洞のままにしておけばよい。わざわざピーナッツの殻という、全く無関係で、いずれ腐敗する有機物を、代わりの眼球のように詰め込む必要などどこにもないはずじゃ」
「それ……本当にただの偶然というか、たまたま持ち主のポケットにピーナッツが入ってて、むしゃくしゃして突っ込んだだけとかじゃないんですか?」
僕がすがるようにそう言うと、如月さんは冷ややかなため息をついた。
「サクタロウ。お主のその楽観主義は、時に犯罪的ですらあるな。……よく見ろ。このピーナッツの殻は、ただ無造作に押し込まれたのではない。本来の目玉があった空間に、寸分の狂いもなく『ピッタリと』収まるように、周囲の綿の量まで丁寧に調整されて詰め込まれておったのじゃぞ」
如月さんは、摘み上げたピーナッツの殻を、僕の目の前まで近づけた。
「これは偶然の産物ではない。明確な意図を持った『代用品』じゃ。……持ち主は、えぐり取った本来の目の代わりに、どうしてもこのピーナッツの殻を、眼球としてそこに存在させておきたかったのじゃ」
「代用の、眼球……」
僕は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
高価なクマのぬいぐるみの両目を、異常な執念でえぐり出す。
そして、空っぽになった眼窩に、わざわざピーナッツの殻を代用品として詰め込み、誰にも見つからない天井の梁の上の死角に隠蔽する。
その一連の行動が意味するもの。
如月さんの冷徹な論理のメスが、ついにその猟奇的な構造の核心へと切り込んでいく。
「目とは、光を受容し、世界を観測するための器官じゃ。……この持ち主が、自らの大切なぬいぐるみの目を執拗にえぐり出し、そこに代用品を詰め込んでまで封印した理由。それは、単なる破壊衝動などではない」
窓の外で、一際大きな稲妻が走り、数秒遅れて空を割るような雷鳴が理科準備室を震わせた。
稲光の青白い光が、如月さんの知的な紫の瞳と、ピンセットに挟まれたおぞましいピーナッツの殻を、一瞬だけ鮮明に照らし出す。
「この異常な行動のルーツには、異常なまでの『視線への執着』がある。……持ち主は、このクマの『目』を通して見られること、あるいは観測されることに、発狂するほどの恐怖を抱いていたのじゃ」
「視線への……執着」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「そうだ。だからこそ、目をえぐり出して『盲目』にする必要があった。そして、ただ盲目にするだけでなく、ピーナッツという偽物の目を詰め込むことで、何かを『偽装』しようとしたのじゃ。……自分を見つめる、何らかの恐るべき監視の目から逃れるためにな」
如月さんの紡ぎ出したその結論は、僕の背筋を完全に凍りつかせた。
持ち主の生徒は、校内で犯罪被害に遭っていたわけではない。何か恐ろしい『視線』に怯え、その監視から逃れるために、自分の大切なぬいぐるみを傷つけ、天井裏の暗闇へと封印したのだ。
だが、如月さんの完璧な論理の網の中で、僕の泥臭い直感が、ふと一つの小さな『違和感』に引っかかっていた。
(……監視の目から逃れるための偽装? だとしたら、なんで代用品が『ピーナッツ』なんだ?)
僕は、如月さんのピンセットに挟まれている、ふやけたピーナッツの殻をじっと見つめた。
ビー玉でも、ボタンでも、丸めた紙くずでもない。なぜ、わざわざこんな有機物の殻を選んだのか。
その時。
僕の凡庸な視線が、ピンセットに強く挟まれたピーナッツの殻の『ある一点』を捉え、僕は思わず声を上げていた。
「……あ、あの、如月さん」
「なんじゃ。わしの美しい論理の余韻を邪魔する気か」
「いや、違います。……そのピーナッツ。如月さんがピンセットで強く挟んでるのに、なんだか妙に軽く凹んでませんか?」
僕のその何気ない、本当にただの泥臭い直感に基づく一言が。
如月瑠璃の完璧すぎる論理の死角を穿ち、この猟奇的な事件の『真実の地獄』の扉を、完全にこじ開けることになろうとは。
この時の僕は、まだ知る由もなかったのである。




