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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『ピーナッツの瞳と、凡庸な助手』 ~Section 1:春の嵐と、視線の交差~

 月見坂の空を、分厚く湿った初夏の雲が重苦しく覆い隠していた。

 遠くで微かに響く雷鳴が、これから訪れるであろう激しい夕立の予兆を告げている。


 如月学園高等部、旧校舎。


 最新鋭のAI管理から完全に見放されたその最北端の図書室は、今日も相変わらず、古い紙と酸化したインクの匂い、そして淹れたてのダージリンティーの微かに甘い香りに満ちていた。


 西日が差し込まない薄暗い空間の中で、分厚い一枚板の閲覧テーブルを挟み僕は、対面に座る少女の顔をそっと窺った。


「……如月さん。外、だいぶ暗くなってきましたね。これ、絶対に降りますよ。それも、バケツをひっくり返したみたいな土砂降りが」


 僕は、野暮ったい眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、窓の外の不穏な空模様を心配そうに見つめた。


 僕の目の前で、特注のルーペを片手に傷だらけの千切れたネックレスのチェーンを検分している少女——如月瑠璃は、僕の言葉に視線を上げることもなく、冷ややかな声で切り捨てた。


「ふん。何を怯えておる、サクタロウ。天候の悪化など、気象衛星のデータとこの湿度からすれば三時間前には予測できていたことじゃ。お主のその凡庸な脳味噌は、雲が黒くなってからでないと雨の気配も察知できんのか」


「いや、気象衛星のデータなんか普通は見ませんって……」


 僕は「はぁ……」と深く、そしてどこか諦観の入り混じったため息をついた。


 現在十六歳。長く真っ直ぐな黒髪を豊かに下ろし、深く知的な紫の双眸を持つ彼女は、その完璧な美貌とは裏腹に、言葉の端々に容赦のない毒を孕ませている。僕は、この月見坂のすべてを牛耳る絶対君主の、たった一人の専属助手(下僕)として、日々こうして彼女の理不尽な『鑑定』に付き合わされているのだ。


「……でも、このひどい雨の匂い、なんだか懐かしいですね」


 僕は、自らのティーカップに残っていたぬるい紅茶を飲み干すと、ふと、窓ガラスを叩き始めた大粒の雨の音に耳を傾けた。


「懐かしい? お主のその貧相な記憶力のどこに、感傷に浸るようなデータベースがあるというのじゃ」


「いや、感傷っていうか……」


 僕は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。


「ほら、僕が如月さんと最初に出会った日も、こんなひどい春の嵐でしたよね。高等部の入学式の、あの日です」


 パラパラという音が、瞬く間に激しい雨音へと変わり、旧校舎の古い木造の建物を大きく揺らし始める。


 僕は、窓の外の豪雨を見つめながら、背筋をブルッと震わせた。


「あの時のこと、今でも夢に見るんですよ。如月さんが、あの雨の吹き込む渡り廊下で、泥だらけのぬいぐるみを抱えてた時のこと。……あの、目をくり抜かれてピーナッツを詰められたクマのぬいぐるみ。あれ、マジでトラウマ級のホラーでしたからね」


 僕のその言葉に、如月さんはピンセットを動かす手をピタリと止めた。


 彼女が今、何を考えているのか、僕には分からない。ただ、激しく窓を打ち付ける雨の音が、僕の意識を現在から数ヶ月前——あの狂騒に満ちた春の嵐の日へと、急速に引きずり込んでいった。


 ——今から数ヶ月前、四月のことである。


 月見坂市は、その日、記録的な春の嵐に見舞われていた。


 分厚い鉛色の雲が空を覆い尽くし、バケツをひっくり返したような豪雨が、新市街の完璧に舗装されたアスファルトを容赦なく叩きつけている。


 しかし、如月学園高等部の巨大な体育館(メインアリーナ)の中は、外の狂騒が嘘のように静まり返り、そして極めて快適な温度と湿度に保たれていた。


 最新鋭の環境制御AIが、数千人の新入生と保護者が発する熱気と湿気を瞬時に計算し、微かな駆動音すら立てずに空調を最適化しているのだ。


「……すごいな、ここ。息苦しいくらい、綺麗だ」


 新入生用のパイプ椅子に座りながら、僕は自分の着ている真新しいブレザーの襟元を、少しだけ窮屈そうに緩めた。


 僕は、この春から如月学園高等部に入学したばかりの、いわゆる『外部生』だ。小学、中学と、雑多で泥臭い旧市街の公立学校で育ってきた僕にとって、この新市街の中心にそびえ立つ如月学園のすべてが、まるで異次元の産物のように思えた。


 周囲に座っている『内部進学生』たちは、皆一様に背筋をピンと伸ばし、仕立ての良い制服をシワ一つなく着こなしている。彼らが交わす会話の声量は見事にコントロールされており、旧市街の中学校で日常茶飯事だった、馬鹿笑いや怒声など微塵も聞こえてこない。


 さらに僕を萎縮させているのは、周囲の女子生徒たちが放つ、圧倒的な『洗練されたオーラ』だった。すれ違うだけでふわりと香る、嗅いだこともないような高級なシャンプーの匂い。丁寧に手入れされた艶やかな髪。僕は、現実の女性——とりわけ同年代の女子に対する耐性が、悲しいほどに皆無であった。


(……無理だ。あんなキラキラした女子たちと、これから同じ教室で過ごすなんて絶対に無理だ。目が合っただけで緊張で石になっちまう。ああ……早く家に帰って、推しの地下アイドルの配信が見たい……)


 僕の唯一の心の拠り所は、旧市街の小さなライブハウスを拠点に活動している、売れない地下アイドルの存在だけだった。画面の向こうか、ステージの上にいる『絶対に手が届かない存在』だけが、僕が唯一安心して直視できる女性なのだ。


 そんな僕が、現実逃避の妄想にどっぷりと浸りきっていた最中。


 壇上の巨大なマイクの前に立った教頭が、厳かな声でアナウンスを行った。


『——続きまして、新入生代表の挨拶。新入生代表、如月きさらぎ……』


 教頭がその名を呼び上げた瞬間。


 それまで完璧な静寂を保っていたアリーナの空気が、微かに、しかし確実に波立ったのを僕は肌で感じた。


 『如月』。


月見坂市の経済とインフラのすべてを牛耳る、絶対的な王家。その令嬢が、自分たちと同じ学年にいる。僕でさえニュースで耳にするその名前に、新市街のエリート生徒たちすらも畏怖と好奇心を隠しきれないようだった。


『新入生代表、如月瑠璃さん。壇上へ』


 教頭が、もう一度、少しだけ声を張り上げて呼んだ。


 しかし——。


 数十秒が経過しても、パイプ椅子の海の中から立ち上がる者は、誰一人としていなかった。


 ざわ……。


 アリーナの中に、さざ波のような私語が広がり始める。


 教頭の額に、脂汗が浮かぶのが遠目にも分かった。舞台袖で待機していた数名の教師たちが、血相を変えてトランシーバーを握りしめ、走り出していく。


『如月さん? 如月瑠璃さん、いらっしゃいますか?』


 マイクを通した教頭の焦燥しきった声が、虚しくアリーナに響き渡る。


 新入生代表であり、何よりこの学園の絶対的な支配者の娘であるはずの令嬢が、入学式の最中にいなくなった。


 その前代未聞の事態に、式典の進行は完全に停止し、教師たちは半狂乱となってアリーナ中を探し回り始めた。完璧に管理されていたはずの空間が、瞬く間にパニックの渦へと呑み込まれていく。


(うわあ、なんかすごいことになってるな。お嬢様って、意外とヤンキーみたいなことするんだな)


 僕は、周囲の混乱をどこか他人事のように眺めていた。


 そして、その混乱の最中、僕の下腹部にとある極めて生物学的な、しかし切実な問題が発生した。


(……やばい、トイレ行きたい)


 極度の緊張と、空調の効きすぎたアリーナに長時間座っていたせいだろう。限界が近かった。


 僕は、血まなこになって令嬢を探し回っている担任とおぼしき教師の背中をトントンと叩き、「あの、すみません。トイレ……」と小声で申告した。


 教師は僕の顔すら見ず、「ああっ、もう! 早く戻ってきなさい!」と苛立たしげに手を振った。


 僕は、まるで沈没船から逃げ出すネズミのように、こそこそとした足取りで、パニック状態のアリーナを後にした。


 ——その数分前。


 アリーナのパニックをよそに、如月瑠璃はすでに、誰もいない新校舎の廊下を悠然とした足取りで歩いていた。


(くだらん。あまりにもくだらん)


 瑠璃は、自らの真新しいブレザーの袖口を忌々しげに引っ張りながら、完璧に磨き上げられた純白の大理石の床を踏みしめた。


 新入生代表の挨拶。それは、月見坂市のすべてを牛耳る如月財閥の令嬢として、この学園に入学する瑠璃に与えられた、絶対的な義務であり、同時に最も無価値な『見世物の時間』であった。


 周囲の大人たちは、瑠璃の『完璧な令嬢としての振る舞い』しか見ていない。完璧な血統、完璧な成績、完璧な容姿。そのすべてを求められ、一切の『不純物』を許されない、氷点下の檻。


(わしの魂は、あんな無菌室で退屈な活字を読み上げるためにあるのではない。月見坂のどこかに落ちている、人間の泥臭い情動のルーツを裁定するためにあるのじゃ)


 七年前、九歳の夏に、唯一の理解者であった皐月優奈を失ってから。


 瑠璃は、自らの内に『情動の眼』を内包し、たった独りで完全な鑑定眼を完成させた。しかし、その完璧な眼を持ってしても、優奈の不知火湖の謎(死の真相)は依然として解けないままである。


 瑠璃は、その空白を埋めるための圧倒的な情報を、圧倒的な『不純物のルーツ』を、常に渇望していた。大人たちのご機嫌を取るための操り人形を演じている暇など、一秒たりともないのだ。


 瑠璃は、天井の隅で青いLEDランプを点滅させながら待機している清掃ドローンを一瞥し、鼻で笑った。


(つまらん。この新校舎には、鑑定する価値のある不純物など一つも存在せん。やはり、あの古びた旧校舎の方へ向かうとしよう)


 瑠璃は踵を返し、新校舎と旧校舎を繋ぐ『渡り廊下』へと向かった。


 少し進むと、新校舎の無機質な白い空間が途切れ、急に床材が古びた木材へと変わる境界線が現れる。


 そこは、雨風を完全に防ぐガラスの壁がなく、木造の太い柱と屋根があるだけの、半屋外のような構造になっていた。


 春の嵐が吹き荒れる外の空気が、容赦なく吹き込んでくる。


 風の音と、屋根を打ち付ける激しい雨の音。空調の効いた無音の世界から一転、世界が本来持っている暴力的なまでの『ノイズ』が、瑠璃の全身を包み込んだ。


 右半身が容赦なく吹き付ける豪雨によって濡れそぼり、白いブラウスが肌に張り付くが、瑠璃はその不快感すらも、無菌室から抜け出した自由の証明のように感じていた。


 その時。


 瑠璃の紫の瞳が、渡り廊下の屋根と外の境界線ギリギリの床に落ちている『ある物』を捉え、ピタリと動きを止めたのである。


 ——一方、その頃。


 僕は、ホテルのロビーよりも豪華な新校舎のトイレで用を済ませ、深く息を吐き出して手を洗っていた。


(……ふぅ。助かった。でも、式典、まだゴタゴタしてるんだろうな。戻りづらいし、少しだけ時間潰すか)


 僕は、アリーナへ続くルートとは反対の方向へと、宛もなく歩き出した。


 誰もいない静かな廊下。自分がこのエリート校にいるという現実感が、いまだに湧いてこない。


 少し歩くと、前方の景色が急に変わり、古びた木造の空間が現れた。新校舎と旧校舎を繋ぐ『渡り廊下』だ。


 ゴォォォという風の音と、激しい雨の音が聞こえてくる。


 僕が、吹き込んでくる雨粒を避けようと、慌てて手前の太い柱の陰に身を寄せた、その時だった。


 渡り廊下の中央。


 雨の吹き込む屋根と外の境界線の、ギリギリの場所に。


 一人の少女が、じっと足元を見つめて立ち尽くしていた。


 僕は、思わず息を呑んだ。


 美しい、という言葉すら陳腐に思えるほどの存在感だった。


 手入れの行き届いた、絹糸のように長く真っ直ぐな黒髪が、吹き込む風に煽られて大きくうねっている。


 僕と同じ、新入生の真新しいブレザーの制服。しかし、彼女の右半身は、吹き込む豪雨のせいで容赦なく濡れそぼり、白いブラウスが肌に張り付きかけていた。


 それでも、少女は雨に濡れることなど一切気にしていないかのように、微動だにしない。


 何より僕の目を釘付けにしたのは、彼女の横顔だった。


 透き通るような、病的なまでに白い肌。そして、長い睫毛の奥にある、宝石のアメジストをそのままはめ込んだかのような、深く、冷たく、そして知的な『紫色の瞳』。


 その瞳は、激しい春の嵐などではなく、ただ足元の『一点』だけを、まるで獲物を狙う鷹のように鋭く見据えていた。


(……やばい、超美少女だ……。新市街の女子って、みんなあんなに綺麗なのか……?)


 女性耐性が皆無な僕の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。


 声をかけるべきだろうか。「雨に濡れるから、こっちに来た方がいい」と。それが普通の、親切な男子高校生の振る舞いというものだ。


 だが、僕の足は、接着剤で床に固定されたように一歩も動かなかった。


(無理無理無理! あんな絶世の美少女に話しかけるなんて、僕の貧弱なコミュ力じゃ絶対に無理だ! もし冷たい目で『何?』とか言われたら、ショックで即死する!)


 僕は、完全に気配を殺し、木造の太い柱の物陰から、ただオドオドとその少女の様子を伺うことしかできなかった。


 やがて、少女がゆっくりと、その場にしゃがみこんだ。


 そして、制服の袖が泥水で汚れるのも厭わず、濡れた床の上に落ちていた『何か』に、白く細い手を伸ばした。


(なんだ? 何か拾ったのか?)


 僕の位置からは、彼女の背中が邪魔になって、それが何なのかよく見えなかった。


 ただ、雨と泥でドロドロに薄汚れた、茶色い塊のように見える。


(おかしいな)


 僕は、ふと強烈な違和感を覚えた。


 この如月学園は、清掃ドローンによってチリ一つの落下も許さない完璧な管理体制が敷かれているはずだ。先ほど新校舎の廊下でも、待機しているドローンを見たばかりだ。たとえこの渡り廊下が古い場所だとしても、あんな『泥で汚れた塊』のような明らかなゴミが、床の上に放置されていること自体が不自然だ。


 僕の中で、好奇心が、女性に対する恐怖心をほんの少しだけ上回った。


 僕は、柱の陰から、恐る恐る、足音を立てないように少女の背後へと近づいていった。


 三歩、四歩と距離を詰め、彼女の肩越しに、その手の中にあるものを覗き込もうとした、その瞬間。


「さっきからそこで何をしておる」


 凜とした、しかし絶対零度のように冷たい声が、雨音を切り裂いて僕の鼓膜を直撃した。


「ひっ!?」


 僕は、心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、間抜けな悲鳴を上げて飛び退いた。


 少女は、しゃがみこんだ姿勢のまま、ゆっくりと首だけでこちらを振り返った。


 冷徹な紫の双眸が、柱の陰から這い出てきた不審者たる僕の姿を、正確に捉え、氷のように冷たく射抜いていた。



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