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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 10:新しい朝と、隣に立つ凡庸な助手~

 深い、あまりにも深く冷たかった七年間の夜が、ついに明けた。


 月見坂の街を重く覆っていた夜の帳が、東の空から徐々に白み始め、新市街の巨大なガラス張りのビル群が、昇りくる朝日に反射して眩い黄金色の光を放ち始める。


 AIによって完璧にスケジュール管理された清掃ドローンたちが一斉に飛び立ち、街に落ちたわずかなチリや不純物を徹底的に排除するため、無機質な羽音を響かせて人工的な空を巡回していく。


 如月本邸の広大な自室。


 最新鋭の空調が一定の温度を保ち続ける無菌室のようなその空間で、瑠璃は徹夜明けの静かな疲労感と共に、アンティークの書斎机の前に座ったまま、窓から差し込む白々とした朝の光を全身に浴びていた。


 机の上には、昨夜、極細のメスで表面を削られ、その真実の姿——『水底に沈んだ村への永遠の墓標』——を暴かれた、木と鉄粉でできた精巧な『黒鉄の鍵』が、まるで長年の役目を終えたように、静かに横たわっている。


「これは、優奈の死の真相に関する空白を埋めるピースではない。警察の怠慢な発表を覆す証拠でもなければ、七年間わしを縛り付けた不知火湖の呪いでもない。……ただの、故郷を喪った誰かの、不器用で切ない愛のルーツじゃった」


 瑠璃は、赤錆の浮いた鍵を指先でそっと撫でながら、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。


 優奈がなぜ、あの九歳の夏に不知火湖で命を落としたのか。その真の理由は、依然として深い水底の暗闇の中にある。


 しかし、瑠璃の心は、七年間で初めて、驚くほど静かに澄み渡っていた。


 優奈が遺してくれた『情動を聴き取る力』が、自分の中に完全に同化し、息づいていることを、昨夜の孤独な鑑定によってはっきりと確信できたからだ。もう、物理的な質量としての優奈がいなくとも、自分はこの眼で、世界中のどんな不純物からも彼女の音楽を聴き取ることができる。


 瑠璃は、高く束ねていた黒髪をほどき、ゆっくりと立ち上がった。


 深夜の神聖な鑑定の儀式のために身に纏っていた、ストイックな黒のタートルネックと細身のパンツを脱ぎ捨てる。そして、いつもの如月学園高等部の、一切の汚れを知らない真っ白な制服へと腕を通した。


 姿見の前に立つと、そこには徹夜のせいで少しだけ目の下に隈を作りながらも、過去の亡霊という憑き物が落ちたように清々しく、そして誇り高い表情を浮かべた、十六歳の絶対君主の顔があった。


「さて。今日も今日とて、この退屈な街に落ちているガラクタどもを裁定してやらねばならんな」


 瑠璃は、自らを鼓舞するようにそう力強く呟くと、黒鉄の鍵を机の最も奥の引き出し——月見坂の極上のルーツたちを保管する特等席——にそっと仕舞い、自室のドアを開けた。


 ——放課後。


 容赦のない初夏の太陽が、月見坂の街のアスファルトを白く焦がしている。


 瑠璃は、如月本邸から差し向けられた黒塗りの高級迎車を、専属護衛の黒田の目を盗んで当然のようにすっぽかし、いつものように旧校舎の図書室へと向かって歩を進めていた。


 グラウンドから聞こえてくる運動部の喧騒が、次第に遠ざかっていく。


 新校舎の徹底的に管理された空気から離れ、旧校舎の廊下に足を踏み入れると、そこにはむせ返るような夏の熱気と、数十年前の木材が放つ懐かしい匂いが立ち込めていた。


 ギィ……と、蝶番が軋む重々しい音を立てて、図書室の分厚い木製の扉を押し開ける。


 中には、あの古い紙と酸化したインクの匂い、そして……微かに甘い、淹れたてのダージリンティーの蒸気の匂いが漂っていた。


「あ、如月さん。お疲れ様です。……今日もお迎えの車を撒いてきたんですね」


 部屋の奥の、重厚な一枚板の閲覧テーブル。


 そこにはすでに、アンティークの茶器セットを広げ、瑠璃の到着を待っていたサクタロウの姿があった。


 野暮ったい眼鏡に、どこか冴えない猫背の姿勢。休日は地下アイドルのライブで声を枯らし、泥水に落ちたペンライトを国宝のように扱う男。新市街の洗練されたエリート生徒たちからは完全に浮き上がっている、旧市街出身の凡庸な少年。


 それが、現在の瑠璃が自ら選んだ、たった一人の専属助手である。


「当然じゃ。わしはあの息の詰まる無菌室のような本邸や、AIに管理された新校舎よりも、この埃っぽい図書室の空気の方が性に合っておる。……それよりサクタロウ、紅茶の温度はどうなっておる? わしは極度の猫舌だと、何度言えば分かるのじゃ」


「あ、すみません! ええっと、氷を入れてちょうどよく……いや、氷を入れたら風味が落ちて怒られるので、少し冷ましますね!」


 サクタロウは慌ててティーカップを両手で持ち上げ、ふーふーと息を吹きかけようとして——瑠璃の氷点下のような冷ややかな視線に気づき、ピタリと不自然に動きを止めた。


「……お主のその不衛生な息で冷ました紅茶など、誰が飲むか。窓際へ持って行って、自然の風で冷ませ。まったく、三歩歩けば忘れる鳥頭じゃな。いや、鳥に失礼か」


「うっ……すみません。仰る通りです……」


 サクタロウはしょんぼりと肩を落とし、すごすごとティーカップを持って窓際へと移動した。


 そのひどく滑稽で、どこまでも人間くさい後ろ姿を見つめながら、瑠璃は口元に小さく、本当に小さな笑みを浮かべた。


(……愚鈍で、不器用で、気の利かない男じゃ。かつて優奈が持っていた、世界を翻訳する完璧な知性や、すべてを優しく包み込むような音楽とは、まさに対極にあるような存在)


 瑠璃は、自らの特等席に腰を下ろし、特注のルーペと革表紙の鑑定ノートを取り出してテーブルの上に置いた。


(……だが、お主には、わしが冷たい論理の奥に置き去りにしてしまいそうになる『泥臭い人間の体温』を、無意識に拾い上げる不思議な引力がある)


 数日前のペンライトの鑑定で、サクタロウが涙ぐみながら言った『気持ちは水に沈まない』という言葉。


 あの凡庸な男の、不器用で素朴な感傷がなければ、瑠璃は一生、黒鉄の鍵の真実に辿り着くことはできず、七年前の暗闇の底に幽閉されたままだっただろう。


 優奈が、瑠璃の論理に『高尚で美しい音楽』を乗せてくれる存在だったとすれば。


 サクタロウは、瑠璃の完璧すぎる論理を地上に繋ぎ止めるための、『地に足の着いた、泥臭い人間の体温』を与えてくれる存在なのだ。


 瑠璃にとって、彼は決して優奈の代用品ではない。自分一人で『情動の眼』を扱えるようになった今の瑠璃だからこそ隣に置く意味がある、全く新しい種類の不純物なのだ。


「……おい、サクタロウ。いつまで窓の外を眺めておる。紅茶はもう十分冷めたじゃろう。さっさと持ってこい」


「あ、はい! ただいま!」


 サクタロウが小走りで戻ってきて、ソーサーがカチャカチャと鳴る危なっかしい手つきで、瑠璃の前にティーカップをそっと置いた。


 瑠璃はそれを一口啜り、完璧な温度であることを確認して満足げに頷くと、自らの学生鞄から、今日拾い集めてきた『獲物』をテーブルの上に取り出した。


「さて。本日の不純物は、これじゃ」


 コトリ、と分厚い木製のテーブルに置かれたのは、ひどく泥にまみれた、片方だけの『真っ赤なハイヒール』であった。


「新市街と旧市街の境界線上にある、あの古びた陸橋の下に転がっておった。ヒールの踵の部分が見事にへし折れ、真紅のエナメルの表面には無数の擦り傷がある。……さあ、サクタロウ。お主のその凡庸な脳味噌で、このハイヒールが辿ってきたルーツを推理してみせよ」


 サクタロウは、泥だらけのハイヒールをまじまじと見つめ、腕を組んでうなり声を上げた。


「ええっと……ヒールが折れているということは、走って逃げた? 例えば、誰かに追われて陸橋の下を必死に走った女性が、焦って転んでヒールを折り、そのまま脱ぎ捨てて裸足で逃げたとか……」


「馬鹿者」


 瑠璃は、即座に冷たく切り捨てた。


「物理的な痕跡をよく見ろ。ヒールの折れた断面は、地面に向かって垂直に圧力がかかった『転倒』の跡ではない。斜め横方向から、強い力で意図的に『蹴り折られた』痕跡じゃ。さらに、靴底の摩耗具合を見てみろ。これは、日常的に履き込まれたものではない。新品同様のツルツルとした靴底に、アスファルトの粗い傷だけが不自然に、しかも広範囲についておる」


「えっ? 意図的に蹴り折った……? じゃあ、誰かへの嫌がらせですか? 人の靴をわざと壊して捨てたとか……」


「ふん。相変わらず表層の泥汚れしか見えぬ男じゃな」


 瑠璃は、ルーペを置き、かつて優奈が遺してくれた『情動の視座』を、自らの論理の網に淀みなく、そして鮮やかに組み込んでいく。


「この靴の持ち主は、誰かに追われていたわけではない。……自らの意志で、何かから『降りた』のじゃ」


「降りた……?」


「そうじゃ。真っ赤なピンヒール。それは、背伸びをして自分を高く、大人びて、美しく見せるための窮屈な武装じゃ。……この持ち主は、新市街の華やかなパーティーか、あるいは見栄を張らねばならないようなデートに向かう途中、ふと、そんな背伸びをしてまで取り繕う自分自身に嫌気がさしたのじゃろう。誰かの期待に応えるための、窮屈で偽物の自分にな」


 瑠璃の脳裏に、かつて『完璧な皐月の令嬢』を演じることに息苦しさを感じ、古い音叉を愛おしそうに撫でていた優奈の横顔が重なる。


 そして同時に、如月の本邸という無菌室で、親の過剰な愛情という檻の中にいる自分自身の姿も。


「だから、陸橋の下で自らの足でヒールを蹴り折り、武装を解いて、旧市街の泥臭い日常へと歩き出したのじゃ。この広範囲のアスファルトの傷は、折れた靴を引きずってでも、自分の足で力強く歩いた証拠じゃな。……これは、逃走の痕跡などではない。一人の女性の、痛快で誇り高い『反逆と解放のルーツ』じゃな」


 瑠璃が推理を語り終えると、図書室の空気がシンと静まり返った。


 西日に照らされた埃の粒子が、まるでかつてのあの日のように、瑠璃の完璧な鑑定を讃えて静かに拍手をして舞っている。


 サクタロウは、口を半開きにしたまま、ただただ感嘆の息を漏らしていた。


「す、すごいです、如月さん。ただの折れた靴から、そんな映画みたいな背景を読み取れるなんて。……やっぱり、如月さんの眼は特別ですね。ただの事実だけじゃなくて、その人の『気持ち』まで透視してるみたいだ」


 サクタロウのその無邪気な賞賛の言葉に、瑠璃は一瞬だけ目を伏せた。


 この眼は、わし一人で手に入れたものではない。


 七年前に失われた、かけがえのない半身が、わしの心の中に遺してくれた、最も美しくて、最も哀しい贈り物なのだ。


 そして昨夜、あの鍵の真実を解き明かしたことで、わしはついに、この眼を『完全に自分のもの』にすることができた。


「当然じゃ。わしを誰だと思っておる。月見坂のすべての不純物を裁定する、絶対的な鑑定士じゃぞ」


 瑠璃は、誇り高く顔を上げ、サクタロウを真っ直ぐに見据えた。


 その紫の双眸には、もう過去の亡霊に囚われた暗い影はない。ただ、眼の前にある世界の真実を暴き出そうとする、王者のような強い光が宿っていた。


「お主はただ、わしの完璧な論理の横で、その凡庸な感嘆の声を上げておればよい。……ただし、わしが人間の泥臭さを見落としそうになった時は、お主のその鈍感な直感で、遠慮なく指摘するがよいぞ。助手の仕事としては、それくらいしか期待しておらんからな」


「は、はい! 頑張ります!」


 サクタロウは、瑠璃の言葉の裏にある不器用な信頼と愛情に気づいているのかいないのか、満面の笑みで大きく頷いた。


 西日が差し込む、旧校舎の図書室。


 埃の舞う光の中で、瑠璃は窓の外の抜けるような青空を見上げた。


 (優奈。お主はもう、この世界にはいない。お主が遺した最大の謎——不知火湖の真相を解き明かす日は、まだ少し先になるかもしれない。だが、わしはもう立ち止まらん。お主の音楽をこの胸に抱き、この愚鈍な助手を引き連れて、世界中のどんな退屈なガラクタのルーツも、極上の物語に変えてみせる。)


「さあ、サクタロウ。次はあの薄汚れた手帳の切れ端じゃ。さっさとルーペを寄越せ」


「はい、如月さん!」


 十六歳の絶対君主の、新しく、そして騒がしい日常が、再び幕を開ける。


 月見坂の街に落ちているすべての不純物が、彼女の鋭い眼と、彼らの温かい体温によって、真実のルーツを歌い上げるその日を待っているのだ。



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