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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 9:孤独な鑑定と、沈まない鍵の真実~

 サクタロウに自らの言葉遣いのルーツ——山内かえでのことを語り、そして七年前の優奈の喪失という深淵な記憶を独り遡ったあの夜から。


 月見坂の街には、数週間の時が流れていた。


 季節は本格的な夏へと足を踏み入れようとしており、旧校舎の図書室には、開け放たれた窓から湿気を帯びた熱風が吹き込むようになっていた。


 瑠璃は、相変わらず放課後になればこの図書室を占拠し、サクタロウという愚鈍だが従順な助手を従え、月見坂に落ちている『ありえない不純物』の鑑定という名の退屈しのぎを繰り返している。


 その数週間の間に、瑠璃の心境に一つの奇妙な変化が起きていた。


 きっかけは、つい数日前の放課後。サクタロウが持ち込んできた、ある下等な不純物の鑑定でのことだった。


 それは、泥水が溜まった路地裏の水たまりに落ちていた、無惨にひび割れ、泥にまみれたプラスチック製のペンライトであった。


 サクタロウは、普段は女性に対して極度に奥手で、瑠璃に対しても常に敬語でオドオドと接しているような男だ。しかし、こと自分の推している『地下アイドル』の話題や、それに類するアイテムが絡むと、途端に異常なほどの熱量を発揮する。


『これは……僕の推している地下アイドルの、初期の限定ペンライトです! こんな無惨に割られて、泥水の中に捨てられるなんて……いくら推しが卒業するからって、ひどすぎます!』


 サクタロウは、その泥だらけのプラスチックの残骸をハンカチに乗せ、裏切られたファンのような怒りと悲しみを露わにしていた。


 しかし、瑠璃はそれを一瞥し、ルーペ越しに物理的な痕跡をなぞると、静かに、そしてひどく優しい声でサクタロウの言葉を否定したのだ。


『サクタロウ。お主は表層の泥汚れしか見ておらん。よく見ろ。この持ち手の部分……プラスチックの表面が、長年の摩擦で完全に削れてツルツルになっておる。さらに、電池カバーの爪が折れたのか、何度も透明なテープで補修した痕跡がある。……これは、不用品として捨てられたのではない』


 瑠璃の脳裏に、かつて優奈が教えてくれた『祈りのルーツ』が重なる。


 瑠璃の瞳は、すでに泥にまみれた事実の奥にある、人間の深い愛を正確に見抜いていた。


『割れた断面を見てみろ。これは意図的に叩き割られたものではない。上から重い質量……おそらく車のタイヤか何かに、一瞬で轢き潰された特有の圧壊痕じゃ。……この持ち主は、ライブの帰り道か何かに、長年大切にしていたこのペンライトを不注意で落としてしまった。必死に探したじゃろうが、暗い路地裏の泥水の中に落ちてしまい、見つけることができなかった。そして無情にも、車に轢かれてしまったのじゃ。……これは、愛が憎悪に変わった廃棄物などではない。持ち主の深い喪失感と、今でも暗闇の中を探し続けている『消えない愛のルーツ』じゃ』


 瑠璃が紡いだその完璧で、血の通った美しい鑑定結果に、図書室の空気は静まり返った。


 サクタロウは、みるみるうちに目を潤ませ、ハンカチに乗せた泥だらけのペンライトを、まるで迷子を抱きしめるようにそっと両手で包み込んだ。


『……そうだったんですね。捨てられたんじゃなかった。……如月さん、ありがとうございます。このペンライト、泥水の中に沈んで真っ黒に汚れてしまっても……この人が推しを応援していた頃の『熱』や、大切にしていた『気持ち』までは、一緒に泥の底に沈んでいなかったんですね』


 凡庸な男の、己の趣味に裏打ちされただけの、素朴な感傷。


 しかし、サクタロウのその【気持ちは沈まない】という何気ない言葉の響きが、七年間、分厚い氷に閉ざされていた瑠璃の思考回路の奥底に、決定的な亀裂を入れたのだ。


 ——そして、現在。


 月光が、磨き上げられた黒檀の床に青白い長方形を落としている、如月本邸の広大な自室。


 十六歳の瑠璃は、ベッドの縁に腰掛け、自らの白い素肌を包み込んでいる深い紫色のシルクのネグリジェの裾を握りしめながら、自室の片隅に置かれた重厚なアンティークの書斎机をじっと見つめていた。


 机の中央に鎮座しているもの。


 七年前の夏、皐月彰から手渡されて以来、ただの一度も手放すことなく瑠璃の心を物理的に圧殺し続けてきた、あの赤茶けた『黒鉄の鍵』である。


(……気持ちは、沈まない。か)


 瑠璃は、深夜の静寂に向かって、数日前の助手の言葉を思い出しながら独りごちた。


 サクタロウの言葉が、瑠璃に一つの残酷な真実を突きつけていた。


(……わしは、この七年間、何をしておったのじゃ)


 瑠璃は、自らの白く震える両手を見つめた。


 七年前、棺の前でこの鍵を受け取ったあの日。瑠璃は、これを『重厚な無垢の鉄であるにもかかわらず、水に浮いた』という、物理学を根底から否定する呪いのアイテムだと断定した。


 不知火湖で優奈が命を落としたという事実。警察はそれを『水底の深みに足をとられた、単なる不慮の水難事故』として早々に処理した。


 だが、瑠璃はその陳腐な結論を、この七年間ただの一度も信じたことはなかった。あの聡明な優奈が、何の意味もなく水に溺れるはずがない。殺人事件などという短絡的なものではないにせよ、そこには必ず、警察が見落とした別の理由、別の真実が隠されているはずなのだ。


 瑠璃は、その『空白の真実』を埋めるための絶対的な証拠として、この沈まない鍵の謎にすがりついてきた。この物理法則を無視した鍵の謎を解き明かせば、優奈の死の本当の理由が分かるはずだと、盲目的に抱きしめ続けてきたのだ。


 だが、本当にそうか?


 月見坂のすべての不純物を裁定する、この絶対的な鑑定士たる如月瑠璃が。


 ただの一度でも、この鍵を『科学的』に計測したことがあっただろうか。


 否だ。


 警察の『浮いていた』という報告書の言葉と、自らの手のひらが感じた『鉄のような冷たさと重さ』、そして何より、優奈を失ったという『圧倒的な悲哀』によって、瑠璃の冷徹な目は完全に曇らされていたのだ。


 事実を見ることを恐れ、感情の泥沼に沈み込んでいたのは、他でもない瑠璃自身であった。


(優奈。お主はもう、わしの隣で歌ってはくれん。お主の情動で、わしの事実に音楽を乗せてくれることは二度とない)


 瑠璃は、ゆっくりとベッドから立ち上がった。


 そして、自らの体を包んでいたネグリジェを、滑らせるように躊躇いなく脱ぎ捨てた。


 これから行うのは、水や刃物を用い、不純物の真理を暴くための神聖な鑑定の儀式だ。どれほど深夜であろうとも、寝巻のまま、最高級のシルクを汚すような雑な真似で臨むことは、鑑定士としての瑠璃の美学が許さない。


 瑠璃はクローゼットを開け、深いネイビーの細身のパンツと、手首までをぴたりと覆う黒のタートルネックシャツという、極めて実用的でストイックな装いに着替えた。


 さらに、普段は背中に豊かに下ろしている長い黒髪を両手でまとめ上げ、鑑定の際に視界を遮らぬよう、高い位置でタイトな一本結びにする。


 鏡の中の自分と目が合う。そこにいるのは、過去の亡霊に怯える孤独な少女ではなく、月見坂の真実を裁定する絶対君主の、冷たく研ぎ澄まされた顔であった。


 完璧なスイッチの切り替え。


 瑠璃は、静かな足取りでアンティークの書斎机の前に座り、引き出しから精緻な道具たちを取り出して、冷たい光を放つ医療器具のように整然と並べた。


 電子天秤、ノギス、ピンセット、極細のメス、そして純水で満たされた大型のガラスビーカー。


(お主がわしに遺してくれた『視座』は、この身の中に、確かに根を張っておる。……今夜、わしは一人で完璧なデュエットを奏でよう。わしが物理法則でこの鍵の真実を切り裂き、そして……わし自身が、お主の代わりにこの不純物の『心』を歌い上げる)


 それは、七年間の呪縛との、孤独な決別の儀式の始まりであった。


 瑠璃は、極めて冷静な、機械のような正確さで鑑定のプロセスを開始した。


 まず、精密な電子天秤に赤茶けた鍵を乗せる。


 デジタル表示された質量(グラム数)を、手元の鑑定ノートに万年筆で書き込む。


 次に、ノギスを使って鍵の全長、幅、厚みをミリ単位で計測し、アンティーク特有の複雑な装飾部分の体積を、積分を用いておおよそ概算する。


 しかし、それだけでは足りない。瑠璃はさらに絶対的な正確さを期すため、純水で満たされた目盛り付きの大型ビーカーの中に、極細の糸で結んだ鍵をゆっくりと沈め、溢れ出た水の体積を測定した。


 アルキメデスの原理を利用した、完璧な体積の算出である。


(質量を、体積で割る)


 瑠璃は、ノートに数式を走らせた。


 鉄の密度(比重)は、通常約7.8 g/cm³である。もしこの鍵が、見た目通りの本物の無垢の鉄であれば、当然その数値に近似するはずだ。


 しかし、瑠璃のペン先が導き出した答えは、彼女の七年間の『絶望的な思い込み』を、あっさりと、そして残酷なまでに打ち砕くものであった。


(密度……約0.95 g/cm³)


 水の密度『1.0 g/cm³』を、わずかに下回っている。


 つまり、この鍵は『水に浮く』のが物理学的に極めて正常な、当たり前の物質であったのだ。


(馬鹿な。この手触り、この冷たさ、そして表面に浮いた赤茶けた錆は、どう見ても鉄の酸化物じゃ。プラスチックや中空のアルミニウムであるはずがない)


 瑠璃は、自らの眼と手のひらの感覚を疑った。


 しかし、数値は絶対に嘘をつかない。


 瑠璃は極細の医療用メスを手に取り、鍵の目立たない裏側の、赤錆が濃く浮いている部分に刃先を当て、力を込めてわずかに表面を削り取った。


 そして、削り取った微小な欠片と、鍵の断面を、高倍率のルーペで覗き込む。


 そこに見えた真実。


 それは、大の大人である警察の鑑識さえも欺き、絶対的な鑑定士である瑠璃を七年間も盲目にさせていた、あまりにも精巧で、そして狂気的なまでの『偽装工作』の痕跡であった。


(……なんという執念じゃ)


 瑠璃は、ほうっと熱い感嘆の息を吐き、メスを置いた。


(この鍵の芯材は、鉄ではない。水に浮くほど比重の軽い、特殊な樹脂か……いや、これは木材じゃな。おそらく、バルサ材のように極めて軽く浮力の高い木材を、寸分違わぬ鍵の形に精巧に削り出しておる。……そして、その表面全体に、本物の『鉄の粉末』を大量に混ぜ込んだ樹脂を、何層にもわたって分厚くコーティングしておるのじゃ)


 謎は、完全に氷解した。


 表面が鉄の粉末で覆われているため、触れた時の熱伝導率は鉄そのものであり、ひんやりと冷たい。


 分厚いコーティングと、芯材である木材のバランスが絶妙に計算されており、人間の掌には『ずしりと重い鉄』のように錯覚させる質量を持たせつつも、全体の比重は水『1.0』をギリギリで下回るように調整されている。


 そして極めつけは、表面の鉄粉を意図的に塩水か何かで酸化させ、本物の赤錆を発生させていることだ。これにより、視覚的にも触覚的にも、誰が見ても『重厚なアンティークの黒鉄の鍵』としか認識できない、完璧なイミテーションが完成していたのである。


(物理法則は、何一つ破綻などしていなかった。これは、不知火湖の呪いでもなければ、優奈の死がもたらした超常現象でもない。……一人の人間が、凄まじい時間と労力と情熱を注ぎ込んで創り上げた、ただの『水に浮く精巧な偽物の鍵』じゃ)


 冷たい事実の骨組みが、ここに完成した。


 この鍵は、優奈の死の真相とは何の関係もない。ただの精巧な偽物であり、偶然不知火湖の水面に浮かんでいたものを、警察が優奈の遺留品だと誤認して持ち帰っただけの、無関係な不純物に過ぎないのだ。


 六歳の頃の瑠璃であれば、ここで『己の目を欺いた下等な偽造品め。鑑定する価値もないゴミじゃ』と吐き捨て、ゴミ箱に投げ入れて終わっていただろう。


 しかし、十六歳の瑠璃は、自らの胸に手を当て、深く、静かな呼吸を繰り返した。


 ここからが、デュエットの後半戦だ。


 優奈の担当であった『情動の翻訳』。それを、今夜は瑠璃自身が一人で歌い上げなければならない。


(……教えてくれ、優奈。お主なら、この精巧な偽物に、どのような音楽を聴き取る?)


 瑠璃は目を閉じ、七年前のあの西日の差す図書室を脳内に構築した。


 埃の舞う光の中、対面に座る栗色の髪の少女。彼女は、この偽物の鍵を両手で包み込み、悲しげに、けれど限りなく優しい声で、こう歌い始めるはずだ。


『ねえ、瑠璃。鍵っていうのは、大切な扉を開けるための道具でしょう? 本当の鉄の鍵なら、水に落とせば当然、泥の底深くに沈んでいってしまうわ。……でも、この鍵を作った人は、どうしてもこの鍵を沈ませたくなかったのよ』


 瑠璃の脳内で、記憶の中の優奈の声と自らの思考が完全にリンクし、一つの巨大な奔流となって真実へと向かっていく。


(……なぜじゃ。なぜ、水に沈んでは困る?)


『それはね、この鍵で開けるべき扉が、すでに水底にあるからよ』


 瑠璃は、ハッとして目を見開いた。


 不知火湖。


 七年前の夏、図書室で優奈が語っていた、あの湖の哀しい噂。


『不知火湖って本当に不思議な場所なの。湖の底がすごく深くて……底には、昔の村の跡が沈んでいるっていう噂もあるわ』


 すべてのピースが、残酷なほどの美しさをもって組み合わさっていく。


 ダム建設か何かによって、かつて人が住んでいた村が、丸ごと不知火湖の底に沈んだ。


 この精巧な鍵を創り上げた持ち主は、その村の住人だったのだ。


 住み慣れた家、愛する家族との思い出が詰まった我が家。それが、冷たい水の底に永遠に沈められてしまった。


 家主は、引っ越しの際に持ち出した『自分の家の本当の鍵』を握りしめ、湖畔に立ったことだろう。しかし、その重い鉄の鍵を湖に投げ入れれば、鍵は水底の泥に沈み、永遠に見失われてしまう。


 それでは駄目だったのだ。


 自分がいつでも、あの水底にある我が家に帰れるように。自分の魂が、あの家に繋がっていることを証明できるように。


 だからその人は、元の鍵と全く同じ形、同じ冷たさを持つ『水に浮く偽物の鍵』を、狂気的なまでの情熱を注いで自らの手で創り上げたのだ。


 そして、それを湖に投げ入れた。


 水底に沈んだ我が家の真上。その水面という境界線で、空と水底を繋ぐ『墓標』として、この鍵を永遠に浮かべておくために。


(これは、優奈の死の空白を埋めるピースではない。警察の発表した単なる水難事故という陳腐な結論を覆す証拠でもなければ、七年間わしを縛り付けた呪いでもない)


 瑠璃は、机の上の、メスで傷をつけた黒鉄の鍵を、そっと両手で包み込んだ。


 七年間、氷のように冷たく、恐ろしい質量で瑠璃の心を圧殺してきたその鍵が。今、瑠璃の手のひらの中で、一人の人間の『故郷への絶望的なほどの愛』を帯びて、じんわりと温かく発熱しているように感じられた。


「これは、故郷を水底に奪われた誰かが、もう二度と開くことのない扉のために創り上げた、切なくも美しい『永遠の墓標のルーツ』じゃ」


 深夜の寝室に、瑠璃の静かな、祈るような声が響き渡った。


 謎は、すべて解けた。


 七年間、瑠璃の時間を止めていた巨大な物理的矛盾は、ただの『一人の人間の深い哀しみと執念』へと翻訳され、夜空に溶けていった。


 優奈の死の真相は、依然として分からないままだ。不知火湖で彼女に何があったのか、それはまだ深い水底の闇の中にある。


 だが、この『沈まない黒鉄の鍵』に関する呪縛だけは、今夜、瑠璃自身の手によって完全に断ち切られたのだ。


『お見事ね、瑠璃』


 不意に、誰もいるはずのない寝室の空間から、銀の鈴のような優しい声が聞こえた気がした。


 間違いない。それは七年前に永遠の別れを告げた、あの皐月優奈の声だった。


 錯覚だ。脳が作り出した幻聴に過ぎない。


 けれど、瑠璃の目からは、七年前の葬儀の日以来、ただの一度も流れることのなかった大粒の涙が、ポロポロととめどなく溢れ出していた。


「ああ……わしは、解いたぞ、優奈。お主がいなくても、お主の音楽を、この耳で確かに聴き取ったぞ……!」


 瑠璃は、束ねた髪を揺らし、自らの両手で顔を覆って声を殺して泣いた。


 それは、七年間の絶望と孤独を洗い流す、浄化の涙であった。


 自分の中に、優奈の魂が確かに生きている。自分の冷徹な眼の奥に、優奈の優しい心が完全に同化している。その事実を、自らの鑑定によって証明できたことが、何よりも嬉しく、そして何よりも哀しかった。


 もう、一人ではない。


 物理的な質量としての優奈は永遠に失われてしまったが、彼女が遺してくれた『情動の視座』は、瑠璃の絶対的な鑑定眼の一部として、永遠に生き続ける。


 月光が差し込む静かな部屋の中で、十六歳の絶対君主は、ついに自らの手で一つの長い長い夜に終止符を打った。


 手の中の黒鉄の鍵は、もう彼女を苦しめる呪いのアイテムではない。それは、瑠璃が自らの足で再び前へ進むための、誇り高き『最初の不純物』として、彼女の心の中に静かに仕舞い込まれたのであった。



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