第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 1:完璧な街と、迷子の令嬢~
今から十一年前。
月見坂市が、如月コンツェルンの莫大な資本によって『スマートシティ』としての劇的な進化を遂げつつあった頃の話である。
新市街の中心にそびえ立つ如月本社ビルの最上階から見下ろす街並みは、まるで精巧に作られたジオラマのように完璧だった。ゴミ一つ落ちていない白亜の舗装路。徹底的に計算された緑地帯。そして、街の至る所に設置された無数のAI搭載型監視カメラと環境制御ドローンが、行き交う人々の安全と秩序を二十四時間体制で管理している。
この完璧に制御された無菌室のような街で、如月コンツェルン社長の如月彰と、社長秘書である如月菫の間に生まれた次女・瑠璃は、五歳という年齢を伸び伸びと、いや、周囲の大人たちの胃に無数の穴を開けるほどの奔放さで過ごしていた。
「ああっ、瑠璃お嬢様! そちらは清掃用ドローンの搬入口です! 危険ですから早く戻ってきてください!」
新市街の高級ショッピングモールの裏手。
黒のスーツを汗だくにした屈強な男が、悲鳴のような声を上げながら小さな背中を追いかけていた。如月家が誇る最高ランクの専属ボディガード、黒田である。彼はどんな凶悪犯や企業テロリストを前にしても決して動じない冷徹なプロフェッショナルだが、この『好奇心の塊』のような五歳の令嬢の前では、常に半泣き状態を強いられていた。
「黒田、うるさい。ちょっと見るだけ」
瑠璃は足を止めることなく、フリルのついた可愛らしいサマードレスの裾を翻し、清掃用ドローンの格納庫を覗き込んでいた。
彼女は、決して落ち着きがないわけでも、親を困らせるためにわざと走り回っているわけでもない。ただ、彼女の目に映る世界には『なぜ?』と『どうして?』が溢れすぎていたのだ。ドローンがどうやって自律的にゴミを吸い込んでいるのか。あの配線の色はなぜ赤と青に分かれているのか。気になったものがあれば、周囲の制止など一切耳に入らず、ふらふらとそこへ向かって歩き出してしまう。
子供らしいと言えばそれまでだが、彼女が如月家の令嬢である以上、その不用意な一歩は誘拐や事故というコンツェルン全体の危機に直結する。
「お嬢様、お願いですから私から離れないでください。旦那様や奥様に知れたら、私が月見坂湾の底にコンクリ詰めで沈められてしまいます……!」
「黒田は大きいのに、いつもびくびくしてるね。変なの」
瑠璃は格納庫の観察に飽きると、黒田の分厚く大きな手を小さな両手で掴み、不思議そうに見上げた。
そのアメジストの瞳は、五歳の子供とは思えないほど深く、そして恐ろしいほどに澄み切っている。
如月家は、長女である翡翠と、この次女の瑠璃を、狂気にも近いほどの過保護と愛情で包み込んでいた。
父である彰は、普段の冷徹な経営者の顔を家庭では完全に捨て去り、娘たちのためなら何億という金を玩具代として投じるほどの親バカだった。祖父である会長の弦十郎に至っては、孫娘がくしゃみを一つしただけで、コンツェルンが所有する総合病院の小児科医をチームごと本邸に呼びつける始末だ。
そんな異常な溺愛環境の中で育てば、わがままで傲慢な子供に育つのが自然の摂理だろう。実際、四つ年上の姉である翡翠は、すでにその才能を遺憾なく発揮していた。
『うわぁぁぁん! パパぁ、瑠璃が私の絵本を取ったのぉ!』
少し前の本邸での出来事だ。
瑠璃が書斎で静かに読もうとしていた図鑑を、後からやってきた翡翠が強引に奪おうとした。瑠璃がそれを拒否すると、九歳の翡翠はわざとらしく床に座り込み、大声で泣き叫び始めたのだ。
すると、別室からすっ飛んできた父の彰は、状況も確認せずに『瑠璃、お姉ちゃんに貸してあげなさい。泣かせちゃ駄目だろう』と瑠璃をたしなめた。翡翠は彰の胸に顔を埋めながら、瑠璃の方を見て、ペロッと舌を出して意地悪く笑っていた。
瑠璃はその時、怒るわけでもなく、ただ冷ややかな目で姉を観察していた。
(翡翠お姉ちゃんの泣き顔には、涙が一つも出ていない。声を大きくして、パパの同情を買うための『計算』だ。……くだらない)
五歳にして、瑠璃は人間の持つ不純な感情のメカニズムを直感的に理解していた。泣けば大人が動く。泣けば欲しいものが手に入る。当時九歳だった姉は、すでにそれを最大の武器として活用していたのだ。
瑠璃は、そんな姉の姿を強烈な反面教師としていた。だから彼女は、物心がついてからただの一度も泣いたことがない。転んで膝から血を流した時も、痛みに顔を歪めるより先に『血はなぜ赤いのか』『どうして固まるのか』と傷口をまじまじと観察するような、少し気味の悪いほどの冷静さを持った子供だったのだ。
そんな瑠璃の迷子癖に対抗するため、如月コンツェルンは彼女の衣服の胸元に、常に特製の『GPSタグ』を装着させていた。
高級ブランドの真珠のブローチに偽装されたそのタグは、新市街を網羅するAI監視システムと常にリンクしている。もし彼女が黒田の視界から外れても、五分以内に必ず居場所を特定できる、完璧な防衛システムだった。
だが、その大人が作り上げた『完璧』が音を立てて崩れ去る日が、ついにやってきた。
ある夏の午後のことだ。
新市街のメインストリートで、黒田の護衛のもと、母親の菫と一緒に買い物を楽しんでいた時のこと。
菫がほんの数十秒、顔馴染みのブランドショップの店長と優雅な挨拶を交わし、黒田が周囲の通行人に鋭い警戒の目を光らせていたそのわずかな隙。
瑠璃の視界の端を、妙なものが横切った。
それは、一匹の薄汚れた野良猫だった。新市街には野良猫など存在しないはずだ。清掃用AIドローンが即座に生体反応を検知し、保護局に連絡が行くシステムになっているからだ。だが、その猫の首には、なぜかキラキラと虹色に光る『歪なガラス玉』が不格好な紐で結びつけられており、それが太陽の光を不規則に反射して、瑠璃の旺盛な好奇心を強烈に刺激したのだ。
「あれ、何……?」
瑠璃は繋いでいた母親の手をすっと離し、フラフラとその野良猫の後を追い始めた。
猫は慣れた足取りで、きらびやかなショーウィンドウの並ぶ通りから、AIカメラの死角となっている狭く薄暗いビルのメンテナンス通路へと滑り込んでいく。
瑠璃もまた、お気に入りのドレスの裾が汚れることも厭わず、その狭い通路のフェンスの隙間へと小さな身体を潜り込ませた。
カチャッ。
その時、小さな乾いた音が鳴った。
フェンスから突き出していた錆びた針金に、瑠璃の胸元についていたブローチ型のGPSタグが引っかかり、ドレスの布地から外れて地面に落ちたのだ。
しかし、目の前を歩くガラス玉の正体に夢中になっている瑠璃は、自分を守る命綱が外れたことに全く気がつかなかった。
「待って、ねこちゃん。それ、見せて」
瑠璃は小走りで猫の背中を追い続けた。
メンテナンス通路を抜け、薄暗い高架下をくぐり、複雑に入り組んだ路地を幾度となく曲がる。
十数分ほど歩き続けた頃、猫はひらりと高いブロック塀を飛び越え、そのままどこかへ姿を消してしまった。
「あーあ、いなくなっちゃった。つまんないの」
瑠璃は軽く唇を尖らせ、踵を返そうとした。
だが、その時初めて、彼女は自分の周囲の空気が、先ほどまでの『完璧な街』とは全く違うことに気がついた。
足元の道は、ゴミ一つない真っ白な舗装路から、ひび割れて雑草の生えたアスファルトに変わっている。
空調の効いたような無臭の空気は消え去り、代わりに古いコンクリートの匂い、夕飯の準備をするような醤油の匂い、そして微かなカビの匂いが入り混じった、重く湿った空気が鼻をついた。
見上げれば、空を覆い隠すようにして、錆びたトタン屋根の古い家屋が隙間なく立ち並んでいる。新市街には等間隔で設置されていたAI搭載の防犯カメラも、空を飛ぶ監視ドローンも、ここには何一つ存在しない。
そこは、月見坂市の光と影の『影』の部分。
再開発から完全に取り残され、如月コンツェルンのAIシステムの手が一切及ばない、混沌と生活臭にまみれた『旧市街』のど真ん中だった。
「……ここ、どこ?」
五歳の瑠璃は、ポツンと一人、見知らぬ古い路地の交差点に立ち尽くした。
振り返っても、当然ながら黒田の姿はない。母親の菫の声も聞こえない。
普通の五歳の子供であれば、この時点で恐怖に顔を引き攣らせ、その場にしゃがみ込んで大声で泣き叫んでいただろう。周囲の大人を呼び寄せ、自分が迷子になったことを全力でアピールするのが、子供の正常な生存本能だ。
だが、瑠璃のアメジストの瞳に涙は一滴も浮かばなかった。
彼女は小さな頭をフル回転させ、状況を極めて冷静に分析し始めていた。
(パパもママも黒田もいない。知らない道。……完全に迷子になったんだ)
泣いて声を上げれば、通りすがりの誰かが助けてくれるかもしれない。
しかし、涙という不純なものを利用して大人の同情を買う行為がどれほど見苦しくくだらないか、彼女は姉の嘘泣きを見て嫌というほど学習している。
ならば、自分が取るべき行動は一つしかない。
瑠璃はドレスについた土埃を小さな手でパンパンと払い落とすと、迷うことなく、路地のすぐ目の前にあった古びた一軒家の門をくぐった。
「誰かいるー?」
インターホンらしきものは壊れて配線がむき出しになっていたため、瑠璃は躊躇うことなく、重たい木製の引き戸をガラガラと力一杯に開け放った。
それが、彼女のその後の人生を決定づける、最も重要で、最も不純物に満ちた『極上のルーツ』との出会いになるとは、この時の瑠璃はまだ知る由もなかった。




