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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 8:『水底の沈黙と、沈まない黒鉄の鍵』~

 月見坂の街を覆い尽くした九歳の夏は、狂おしいほどに長く、そして息苦しかった。


 如月本邸の広大な自室。最新鋭のAIが完璧な温度と湿度を維持するその無菌室のような空間で、瑠璃は毎日、分厚い洋書のカレンダーに赤ペンで斜線を引いては、九月一日が訪れるのを指折り数えて待っていた。


 本邸での生活は、相変わらず氷点下の溺愛に満ちていた。少し庭に出ようとするだけで、黒田をはじめとする護衛たちが慌てて日傘を差し出し、冷たい飲み物を用意する。両親は瑠璃の健康と安全を絶対的に管理し、中学生になった姉の翡翠は「瑠璃は危なっかしいから、私の目の届くところにいなさい」と、過保護な干渉を繰り返す。


 彼らの愛は本物だ。だが、その完璧に消毒された愛の中には、瑠璃が求める『不純物』は一つとして存在しない。


(退屈じゃ。どこを見渡しても、完璧に管理されたガラクタばかり。優奈め、今頃あの不知火湖とやらで、わしを驚かせるような極上の不純物を見つけておるのじゃろうな)


 瑠璃は、冷房の効いた窓ガラスに額を押し当て、陽炎の立つ庭を見下ろしながら、旧校舎の図書室での『デュエット』を夢想していた。


 自分が冷徹な事実を提示し、優奈がそこに温かい音楽を乗せる。あの完璧な交響曲が再び奏でられる日まで、あと少し。あと数日の辛抱だ。


 しかし、その『九月一日』が瑠璃の人生に訪れることは、二度となかった。


 八月の終わりの、あるひどく蒸し暑い夕暮れ時のことである。


 本邸の静寂を切り裂くように、父・彰の書斎の直通電話がけたたましく鳴り響いた。


 その直後、常に完璧な冷静さを保っていたはずの父の怒声と、母・菫の悲鳴のような短い叫び声が、重厚なドア越しに瑠璃の耳に届いた。


 廊下を慌ただしく走る使用人たちの足音。屋敷全体の空気が、目に見えない巨大な圧力によって急激に圧縮されていくような、異様な緊迫感。


 何事かと自室を出た瑠璃の前に、血の気を失った黒田が立ちはだかった。


「お嬢様、お部屋にお戻りください。今は、いけません」


「どけ、黒田。何があった。父と母の様子がおかしいではないか」


 瑠璃は黒田の制止を振り切り、書斎の開け放たれたドアの隙間から、中を覗き込んだ。


 そこには、受話器を握りしめたまま、まるで幽鬼のように立ち尽くす父の姿があった。


『……信じられん。あの不知火湖で……水難事故だと? 皐月彰の娘が……』


 その言葉の断片が耳に届いた瞬間。


 瑠璃の脳内で、世界を構築していたすべての物理法則が、音を立てて崩壊した。


「……ゆな、が……?」


 呼吸の仕方を忘れたように、喉が引き攣る。


 水難事故。皐月の娘。不知火湖。


 与えられた断片的な事実(データ)から導き出される結論は、たった一つしかない。しかし、瑠璃の誇る絶対的な論理的思考回路は、その結論を弾き出すことを強烈に拒絶した。


 何かの間違いだ。論理に飛躍がある。証拠が不十分だ。そんなありえない事実を、このわしが承認するはずがない。


 だが、現実は瑠璃の冷徹な論理など歯牙にも掛けず、あまりにも残酷な物理的事実として、彼女の前に突きつけられたのである。



 数日後、皐月家の広大な敷地内で、密やかに、しかし厳かに行われた葬儀。


 月見坂の経済界の重鎮たちが顔を揃える中、瑠璃は黒い喪服に身を包み、両親の後ろに隠れるようにして、祭壇に飾られた優奈の遺影を見上げていた。


 春の陽だまりのように微笑む、栗色の髪の少女。


 棺の中に横たわる彼女の体は、警察の検死と修復を経て、まるでただ眠っているだけのように美しく整えられていた。


 しかし、瑠璃の鋭い眼は、その肌から完全に失われた体温を、血の通わなくなった細胞の静止を、残酷なまでに見抜いていた。


(動かん。喋らん。息をしておらん。優奈。お主、ただの『物理的な質量』になってしまったのか)


 S-Musicを率いる父の皐月彰は、一回りも二回りも小さくなったように背中を丸め、声を殺して泣き崩れていた。優奈の母や兄も、正気を失ったように棺にすがりついている。


 周囲の人間たちの悲嘆の情動が、重く冷たい波となって瑠璃に打ち寄せる。


 だが、瑠璃の目からは、一滴の涙もこぼれなかった。


 悲しくないのではない。


 優奈が死んだという『物理的な事実』に、どうやって『感情』を乗せればいいのかが、全く分からなかったのだ。


 この三年間の図書室での儀式において、瑠璃は常に冷たい事実だけを抽出し、そこに情動という名の音楽を吹き込む役割は、すべて優奈に委ねていた。「さあ、優奈。お主の音楽を乗せてみせよ」と、最後の仕上げを彼女に託すのが、瑠璃の愛おしい癖だった。


 だが今、目の前にある『優奈の死』という絶対的な事実を前に、それを物語に翻訳してくれる人間は、もう世界のどこにも存在しない。


 解読キーを失った暗号のように、優奈の死はただの冷たく巨大な事実として、瑠璃の心を物理的に圧殺しようとしていた。


 葬儀が終わりに近づいた頃。


 憔悴しきった皐月彰が、親族の控え室の隅でただ独り立ち尽くす瑠璃の前に、ふらりとした足取りで歩み寄ってきた。


「君が、如月瑠璃くんだね。優奈から、いつも話を聞いていたよ。君は優奈の、たった一人の本当の親友だった」


 彰のくぼんだ眼窩からは、すでに涙は涸れ果てていた。


 彼は震える手で、自らの喪服のポケットから、黒いベルベットの小さな袋を取り出し、瑠璃の小さな手のひらにそっと押し付けた。


「これは……警察が、不知火湖の事故現場で回収した、優奈の遺留品だ。あの子は、これを君に渡すんだと、旅行の初日からずっと大切に握りしめていた。だから、君が持っていてやってくれ」


 瑠璃は、微かに震える指先で、その袋の紐を解いた。


 中から転がり出てきたのは、一つの『黒鉄(くろがね)の鍵』であった。


 それは、大昔の洋館の扉を開けるような、重厚で無骨なアンティークの鍵だった。表面には赤茶けた錆が浮き、ずしりとした冷たい質量が手のひらに沈み込んでくる。


「これは……?」


「分からないんだ」


 彰は、力なく首を振った。


「優奈のものではない。湖畔のどこかで拾ったのか……。ただ、警察の報告書には、奇妙なことが書かれていた」


 彰の言葉に、瑠璃の意識がわずかに現実へと引き戻される。


「優奈は……湖の急な深みに足をとられて、沈んでしまった。だが、この重い鉄の鍵だけは、彼女の手から離れた後も、なぜか湖の底に沈むことなく、不知火湖の水面に『ぽつんと浮いていた』そうなのだ。どれほど物理的にありえないことでも、現場の捜査員たちが、確かにこの目で見たと言っている」


 瑠璃の紫の瞳孔が、極限まで収縮した。


 重厚な鉄の塊である鍵。


 それが、浮力を持たないにもかかわらず、深い湖の水底に沈むことなく、水面に浮かび続けていた。


 それは、瑠璃がこれまで培ってきた物理法則と論理を、根底から嘲笑い、完全に否定する『絶対的な矛盾』であった。


「……ありえん」


 瑠璃は、手の中のひんやりと重い鉄の鍵を凝視した。


 ありえない。こんなものが水に浮くはずがない。比重計算も、表面張力も、すべての科学的根拠がそれを否定している。


 だが、事実は『浮いていた』と告げている。


 瑠璃は、必死に論理の網を組み立てようとした。


 内部に空洞があり、奇跡的なバランスで浮力を保った? いや、この質量と手触りは完全に中まで詰まった無垢の鉄だ。水草などの浮遊物に絡まっていた? いや、警察の報告では単独で浮かんでいたという。


 分からない。物理的な事実から導き出されるロジックが、完全に破綻している。


(優奈)


 瑠璃は、心の中で、失われた自らの半身にすがりつくように呼びかけた。


(わしには分からん。この沈まない鍵が持つ、物理的な意味が。頼む、優奈。いつものように、この不純物に隠された『物語』を歌ってくれ。これが何の扉を開くための鍵で、誰の絶望なのか。なぜ、この重い鉄が水底の暗闇を拒絶し、水面にとどまり続けたのか。お主の情動で、わしに教えてくれ……!)


 しかし、どれほど心の中で叫んでも。


 隣から、あの銀の鈴のような優しい声が返ってくることは、もう二度となかった。


 圧倒的な『沈黙』。


 その時初めて、瑠璃の目から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。


 自分のロジックを完成させてくれる『音楽』が、世界から永遠に失われてしまったことへの、魂を引き裂かれるような絶望。


「あ、ああ……あぁぁぁぁっ……!!」


 六歳の出会いから一度たりとも泣かなかった絶対君主が、棺の前で、獣のように声を上げて泣き崩れた。


 手の中の『沈まない黒鉄の鍵』を、まるで優奈の心臓そのものであるかのように、胸の奥深く、血が滲むほど強く抱きしめながら。


 ——それから、七年の月日が流れた。


 月見坂の街を、凍てつくような冬の夜気が包み込んでいる。


 如月本邸の、静まり返った広大な自室。瑠璃は、深い紫色の最高級シルクのネグリジェに身を包み、大理石の床に落ちる青白い月光の長方形をじっと見つめていた。


 最新の空調が吐き出す、無味乾燥な空気。


 つい先ほどまで図書室で、あの愚鈍だがどこか憎めない助手・サクタロウと共に吸い込んでいた、古い紙とダージリンティーの匂いは、すでに完璧な清浄システムによって跡形もなく消し去られている。


 十六歳になった瑠璃は、月光に照らされた自らの白い手のひらを、静かに開いた。


 そこには、七年前のあの夏の日から、ただの一度も手放すことなく持ち続けている、赤茶けた重厚な黒鉄の鍵があった。


『湖の底に沈むことなく、水面に浮いていた』鍵。


 瑠璃は、この七年間、狂ったようにこの鉄の鍵の謎を解き明かそうとし続けてきた。


 あらゆる物理学の書物を読み漁り、材質を分析し、自らの鑑定眼のすべてを注ぎ込んだ。だが、答えは永遠の沈黙の中にある。


 なぜなら、この不純物には『優奈の歌』という最後のピースが欠落しているからだ。


 瑠璃が『ありえない場所にある、ありえないモノ』に異常なまでの執着を見せ、そのルーツを狂気的なまでに追い求める理由。


 それは、知的な好奇心などという生易しいものではない。


 自分が物理法則という名の手術メスで世界の綻びを切り裂き続ければ、いつか、あの失われた『優奈の音楽』が聞こえてくるのではないか。


 この沈まない鍵の謎を解き明かし、そのルーツに隠された『真の物語』を完成させることができた時、自分はようやく、七年前の不知火湖の呪縛から解放され、優奈との『最後のデュエット』を終わらせることができるのではないか。


(サクタロウよ)


 瑠璃は、あの図書室で淹れられた温かい紅茶の香りを思い出しながら、冷たい鍵の冷たさを指でなぞった。


(お主は、地下アイドルの追っかけなどという卑俗な趣味を持つ、凡庸な男じゃ。女性の扱いにも慣れておらん。優奈のような、わしを完璧に包み込む知性も音楽も持たぬ。だが、お主には、わしの見落とす『泥臭い人間の体温』を拾い上げる、不思議な力がある)


 かつて優奈と二人で『完全な一つの眼』であったように。


 今の瑠璃は、サクタロウという不器用な半身を傍らに置くことで、再び世界と対話しようと試みているのだ。


 瑠璃は、深い紫色のシルクに包まれた膝を抱え、冷たい黒鉄の鍵を額に押し当てた。


 月光の射し込む無菌室のような寝室に、永遠に開くことのない扉の、沈黙の音が鳴り響いている。


 十六歳の絶対君主は、いつかこの鍵が真実のルーツを語り出すその日を待ちわびながら、長く、孤独な夜の深淵へと、ゆっくりと沈んでいくのであった。



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