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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 7:九歳の夏と、不知火湖への旅~

 月見坂の街に、アスファルトを焦がすような九歳の夏が到来した。


 新市街のメインストリートは、巨大な冷却塔と地下に張り巡らされたAI制御の冷水パイプによって、常に初夏のような爽やかな温度に保たれている。しかし、如月学園の敷地の最北端、再開発の波から見放された旧校舎の周辺だけは、容赦のない太陽の熱が古いコンクリートに蓄積され、むせ返るような濃密な夏の匂いを放っていた。


 図書室の窓の外では、油蝉の鳴き声が鼓膜を打つような大音量で響き渡っている。


 開け放たれた窓から入り込む熱風が、埃を被ったカーテンをゆっくりと揺らしていた。


「瑠璃。今日はとびきり冷たいものを持ってきたわ。旧市街の入り口にある、あの古い氷屋さんのラムネよ」


 重厚な扉を開けて入ってきた優奈の手には、水滴をびっしりと浮かべた、青いガラス瓶が二本握られていた。


 彼女の口からごく自然に放たれた【瑠璃】という響き。あの日、心の境界線を取り払ってからというもの、優奈はもう決して『さん』付けで呼ぶことはなかった。


 そのたった二文字の音が耳に届くたび、瑠璃の胸の奥底には、冷たい氷に触れたような鋭い感覚と、それに相反するような甘い熱が同時に広がる。それは、瑠璃がこれまでの九年間の人生で決して知ることのなかった、絶対的な『安心』の証明であった。


「気が利くではないか、優奈。新市街の無味乾燥な純水よりも、旧市街の不純物が混じった氷水の方が、はるかに喉を潤すというものじゃ。さあ、早く座れ。今日の獲物は、これまでの三年間の集大成とも言える、極上の難物じゃぞ」


 瑠璃はラムネの瓶を受け取り、ビー玉を押し込む小気味良い音を響かせると、テーブルの中央に置かれた『それ』を顎でしゃくった。


 分厚い一枚板のテーブルの上に置かれていたのは、ひどく損傷したアンティークのオルゴールであった。


 本来ならば、美しい木箱の中に真鍮製の精巧なシリンダーと櫛歯(くしば)が収まり、ゼンマイの力で優雅なメロディを奏でるはずの機械。


 しかし、そのオルゴールの内部は、凄惨な破壊の痕跡に満ちていた。シリンダーが収まるべき中心軸には、真っ黒に焼け焦げ、ドロドロに溶けた『レコード盤の欠片』が、まるで楔のように無理やりねじ込まれている。その強引な圧力によって、メロディを奏でるはずの櫛歯は何本も根元からへし折れ、真鍮の歯車は無残に歪んでいた。


「旧市街のスクラップ工場の裏手、不法投棄の山の中に埋もれておった。……どうじゃ、優奈。お主の得意な音楽の分野じゃが、これほど冒涜的で、物理法則を無視した破壊行動を見たことがあるか?」


 瑠璃の鋭い紫の瞳が、自信と知的な興奮に満ちて輝いている。


 優奈はラムネの瓶を置き、テーブルの上のその異様な物体をじっと見つめた。彼女の眼差しは、壊れた機械を見るものではなく、致命傷を負った生き物を悼むような、深い悲しみを帯びていた。


「物理的な矛盾は明白じゃ」


 瑠璃は、自らの指先でオルゴールの木箱をトントンと叩きながら、流れるようにロジックを組み立てていく。


「レコードとは、溝に刻まれた波形を針で読み取る媒体。対してオルゴールは、シリンダーのピンが櫛歯を弾くことで音を鳴らす機械じゃ。構造も、音を出す原理も全く異なる。この溶けたレコード盤をオルゴールにねじ込んだところで、音楽が鳴るはずなど絶対にない。そんなことは、赤ん坊でも分かる物理的な事実じゃ」


 瑠璃はそこで言葉を区切り、ルーペで溶けたレコード盤のラベルの残骸を拡大した。


「さらに、このレコードの材質。大量生産される塩化ビニールではなく、スタジオでのテスト録音などに使われるアセテート盤じゃな。そして、火で炙られて溶けた痕跡……。わしの論理が導き出す結論はこうじゃ。これは、世に出ることのなかったテスト音源を、何らかの理由で完全に隠滅しようとした者の仕業。燃やすだけでは飽き足らず、手元にあったオルゴールの機械部分にねじ込み、強引に破壊することで、二度と再生できないようにした。……己の過去の失敗を物理的に消し去ろうとする、見苦しい隠蔽のルーツじゃな」


 論理の網の目は完璧だった。破壊の痕跡、材質、そして隠蔽という目的。瑠璃が提示した骨組みは、鉄壁の説得力を持っていた。


 しかし、瑠璃自身も分かっていた。この推論には、人間の血が通っていない。


 彼女は、自らが組み上げた完璧な骨組みを、対面に座る『自らの半身』へと委ねるように、優奈の目を見つめた。


「さあ、優奈。わしの物理的な事実に、お主の音楽を乗せてみせよ」


 優奈は、瑠璃の言葉に小さく頷くと、溶けたアセテート盤のラベルのわずかな切れ端に顔を近づけた。


 そして、目を閉じて深く息を吸い込む。


「瑠璃の言う通り、これはアセテート盤よ。スタジオで一発録りをした、この世に一枚しかないテスト音源。……でもね、瑠璃。これを隠滅しようとしたのなら、どうしてただ粉々に割らなかったの? オルゴールにねじ込むなんて、力もいるし、手も怪我するような方法をわざわざ選ぶのは、不自然だわ」


「ほう。ならば、なぜこのような物理的矛盾を犯したというのじゃ」


「……この人は、音源を消したかったんじゃないわ。むしろ、絶対に『残したかった』のよ」


 優奈の静かな声が、蝉時雨の響く図書室の空気を震わせた。


 彼女は、へし折れたオルゴールの櫛歯をそっと指先でなぞった。


「瑠璃。オルゴールっていうのはね、ゼンマイを巻けば、永遠に同じメロディを、同じ音程で狂いなく奏で続けてくれる機械よ。……きっと、このテスト音源に録音されていた歌声の持ち主は、もう二度と歌えなくなってしまったのね。病気か、事故か、あるいは……」


 優奈は言葉を濁し、悲しげに目を伏せた。


「残されたこの人は、その大切な人の歌声が失われてしまうことに、どうしても耐えられなかった。永遠に、いつでもあの声を聞けるようにしたかった。……だから、狂いのない永遠を約束してくれるオルゴールの機械に、その歌声を刻んだレコードを、無理やり一体化させようとしたのよ。物理的に不可能だと分かっていても、心がそれを拒絶して、強引にねじ込んでしまったの」


 瑠璃は、息を呑んで沈黙した。


 隠蔽ではなく、永遠への固執。


 破壊ではなく、狂気的なまでの保存への渇望。


「火で炙ったのは、レコードを柔らかくして、オルゴールの歯車に少しでも噛み合うようにするためよ。……でも、結果的に両方を壊してしまった。永遠の歌声を手に入れようとした結果、レコードの溝も、オルゴールの櫛歯も、すべてを失ってしまったの。……これは隠蔽のためのゴミじゃない。大切な人の声を永遠に繋ぎ止めようとした、一人の人間の悲壮な『執着と絶望のルーツ』だわ」


 優奈が最後の言葉を紡ぎ終えた瞬間。


 テーブルの上の惨たらしい破壊の残骸は、愛する者の声を失った人間の、血を吐くような慟哭の結晶へとその姿を変えた。


 瑠璃の背筋を、強烈な電撃のような悪寒と、圧倒的な美しさが同時に駆け抜ける。


「……見事じゃ、優奈。いや、見事という言葉すら陳腐に思える」


 瑠璃は、自らの両手を強く握り締め、震える声で感嘆を漏らした。


「わしの物理的な事実が、お主の情動の翻訳によって、これほどまでに残酷で美しい物語へと反転するとは。……お主のその眼と心は、もはやわしの論理を完全に補完し、凌駕しておる。この三年間、数え切れない不純物を鑑定してきたが、本日のこの『絶望のオルゴール』は、間違いなく我ら二人の最高傑作じゃ」


「瑠璃の骨組みがあったからこそよ。……二人でなければ、この悲しい機械は、ただの不法投棄のゴミとして終わっていたわ」


 優奈は、儚げに微笑みながら、瑠璃の差し出した手をしっかりと握り返した。


 汗ばむような初夏の熱気の中、重なり合った二人の手のひらには、世界中のどんな宝石よりも確かな、絶対的な信頼と理解の温度が宿っていた。


 二人の鑑定眼は、この瞬間、これ以上ないほどの完璧な頂点に達した。


 物理と感情。論理と音楽。そのすべてが完全に融合した『一つの眼』が、ここに完成したのである。


「さて、極上の鑑定も終えたことじゃ。ラムネもすっかりぬるくなってしまったな」


 瑠璃は、心地よい疲労感と共に椅子の背もたれに体を預けた。


「いよいよ明日から夏休みじゃ。この図書室も、しばらくは暑くて寄り付けんじゃろう。……お主は、今年も行くのか? あの退屈な避暑地へ」


 瑠璃の問いかけに、優奈は少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめた。


「ええ。明日の朝から、家族全員で不知火湖(しらぬいこ)の別荘へ行くわ。……S-Musicの経営が軌道に乗ってから、父様も母様も本当に忙しくて、家族全員でゆっくり過ごせるのは、この夏の時期だけなの。兄様も、この時ばかりは後継ぎの勉強を休んで、一緒に釣りをしてくれるのよ」


 『父様』『母様』『兄様』。


 優奈の口から紡がれるその家族への呼び方には、皐月という看板の重さに耐えながらも、どうにか家族の絆を保とうとする、彼女なりの切実な愛情が込められていた。


 翻って、瑠璃自身の家族はどうだろうか。


 瑠璃は、無意識のうちに小さくため息をついた。


 彼女の家族――『祖父』『父』『母』『姉』は、決して瑠璃に冷たいわけではない。むしろ、その逆であった。


 五歳の頃、旧市街で少し迷子になっただけで、会長である祖父は怒り狂い、社長である父・彰は血相を変えて社員と最新ドローンを月見坂中に放ち、母・菫は瑠璃が戻るまで過呼吸を起こさんばかりに取り乱した。中学生となった姉の翡翠にしても、かつてのような癇癪や虚栄心をすっかり潜め、今や如月の完璧な令嬢として洗練された振る舞いを身につけており、妹である瑠璃の不審な行動を『危なっかしい』と過剰なまでに心配してくるようになった。


 彼らは、如月瑠璃という存在を心の底から溺愛し、保護しようとしている。


 だが、その愛はどこまでも『完璧で無菌な檻』であった。彼らが愛しているのは、あくまで『如月の娘としての瑠璃』であり、泥にまみれて不純物を拾い集める彼女の本当の『ルーツへの渇望』を、彼らは理解できないどころか、治療すべき奇行のように扱った。


 息の詰まるような、絶対的な安全と過保護。自分という『不純物』を徹底的に消毒しようとする、氷のように完璧な愛。瑠璃にとっての孤独とは、愛されていないことではなく、自分の最も大切な魂の形を、誰にも理解されないことにあった。


「……ふん。家族旅行とは、いかにも大衆的な行事じゃな。お主も皐月の令嬢として、せいぜい愛想笑いを浮かべて親の機嫌を取ってくることじゃ」


 瑠璃は、優奈だけが自分のすべてを理解してくれているという絶対の事実を確かめるように、わざと意地悪な言葉を投げかけた。


 案の定、優奈は瑠璃のその不器用な強がりを完全に見透かしたように、優しく微笑んで首を振った。


「愛想笑いなんてしないわ。……それにね、不知火湖って本当に不思議な場所なの。湖の底がすごく深くて、水面が鏡みたいに空を反射するのよ。底には、昔の村の跡が沈んでいるっていう噂もあるわ。……瑠璃、約束する」


 優奈は、テーブルの上の瑠璃の手を、もう一度強く握り直した。


「不知火湖の湖畔で、瑠璃が驚くような『極上の不純物』を絶対に見つけてくるわ。そして、九月の新学期が始まったら、一番にこの図書室に持ってくる。……だから、それまで待っていてくれる?」


 瑠璃は、優奈の真っ直ぐな瞳に見つめられ、不意に心臓の奥が甘く締め付けられるのを感じた。


 ただの夏休みの別れ。たった一ヶ月ほどの空白。


 それなのに、なぜかこのまま手を離してしまえば、二度とこの温もりに触れることができないような、奇妙で不吉な焦燥感が瑠璃の胸をかすめた。


「……当然じゃ。わしを誰だと思っておる。月見坂のすべての不純物を裁定する、絶対的な鑑定士じゃぞ。……お主が拾ってくるガラクタなど、一秒でそのルーツを暴いてみせる。だから……」


 瑠璃は、握られた手をわずかに握り返し、自分でも驚くほど素直な、九歳の少女らしい声で紡いだ。


「だから、怪我などせず、無事に帰ってこい。……わしは、気が短いんじゃ。九月の一日に姿を見せねば、地の果てまで追いかけて罰を与えてやるからのう」


「ふふっ。ええ、分かっているわ。……絶対に、ここに戻ってくる」


 二人は指切りをするようにして手を離し、立ち上がった。


 図書室の扉を開け、軋む廊下を歩いて旧校舎の外へと出る。


 西日が、月見坂の街全体を燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。油蝉の鳴き声は、まるで世界の終わりを告げるサイレンのように、狂おしいほどのボリュームで鳴り響いている。


 校門の前で、二人は別れの道を歩み出す。


 高級車が待つ新市街のメインストリートへ向かう優奈と、黒田が待つ裏門へ向かう瑠璃。


「じゃあね、瑠璃! 素敵な夏を!」


 数メートル離れた場所から、優奈が振り返り、両手を大きく振って叫んだ。


 逆光に照らされた彼女の笑顔は、この三年間で瑠璃が見てきたどんな宝石よりも、どんな極上の不純物よりも美しく、眩しかった。


 瑠璃は、いつもなら絶対にしないような、無防備で、そして心からの純粋な笑顔を浮かべた。


 如月の令嬢としての仮面も、鑑定士としての冷徹な鎧もすべて脱ぎ捨てた、ただの『瑠璃』としての満面の笑み。


「ああ! 待っておるぞ、優奈!」


 瑠璃もまた、右手を高く上げて振り返した。


 それが、瑠璃の瞳に焼き付いた、皐月優奈という少女の最後の姿であった。


 夏休みが始まり、月見坂の街はさらなる熱波に包まれた。


 瑠璃は本邸の冷房の効いた自室で、溺愛という名の過保護な監視網の中で、優奈が不知火湖から持ち帰ってくるであろう『極上の不純物』に思いを馳せながら、一人静かに鑑定ノートの白紙のページを撫でていた。


 二人の絆は永遠であり、九月の図書室で再びあの完璧な交響曲が奏でられることを、微塵も疑ってはいなかった。


 だが、運命の歯車はすでに、修復不可能なほどに狂い始めていたのである。


 永遠のメロディを約束するはずだったオルゴールが、無惨に砕け散っていたように。


 二人の少女が交わした約束もまた、不知火湖の暗く冷たい水底へと、音もなく引きずり込まれようとしていた。


 すべてを終わらせる残酷な訃報が、如月の本邸に届くまでのカウントダウンは、すでに始まっていたのである。



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