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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 6:異なる視座と、研ぎ澄まされる眼~

 九歳を迎えた春の終わり。


 月見坂の街を包み込む空気が、柔らかな春の微風から、じっとりとした初夏の熱を帯びた湿風へと変わり始めた頃。


 如月学園の最も北に位置する旧校舎の図書室は、もはや瑠璃と優奈にとって、単なる放課後の遊び場という枠組みを完全に超越し、二人のための神聖な『法廷』にして、魂を交わす『聖域』と化していた。


 三年前、六歳の頃の瑠璃は、ただ独りで世界の綻びを数え、冷たい物理法則の網で不純物を掬い上げるだけの、孤独な観測者に過ぎなかった。


 しかし今、彼女の隣には常に、皐月優奈という豊穣な海が存在している。


 瑠璃が切り出した無機質な事実に、優奈が人間の情動や歴史という豊かな音楽を吹き込み、真実のルーツを裁定する。そのプロセスを何百回、何千回と繰り返すうちに、二人の思考の回路は、まるで精巧な歯車のように寸分の狂いもなく噛み合い始めていた。


 その日の放課後。


 図書室の分厚い一枚板のテーブルに、瑠璃は一つの奇妙な物体を置いた。


 コトリ、と鈍く重い音が、埃の舞う静寂の空間に響き渡る。


「優奈。本日の獲物は、これまでにないほど不気味で、そして饒舌なルーツを秘めておるぞ」


 瑠璃は、対面に座る親友を真っ直ぐに見据え、自信に満ちた力強い声で宣言した。


 テーブルの中央に鎮座しているのは、大人の親指ほどの大きさの、赤黒く固まった無骨な蝋の塊であった。まるで乾いた血糊か、あるいは潰された柘榴(ざくろ)のように生々しい色合いをしている。


 そして何よりも異様なのは、その蝋の塊の中心から、金色に光る『万年筆のペン先』が、まるで心臓に突き立てられた杭のように、鋭く突き出していることだった。


 優奈は、読んでいた古い分厚い音楽理論書を静かに閉じ、興味深そうに身を乗り出した。西日が彼女の栗色の髪を透かし、黄金色の後光のように輝かせている。


「まあ。まるで前衛芸術のオブジェみたいね。瑠璃さん、これはどこで見つけたの?」


「旧校舎の三階にある、今は誰も使っていない第一音楽室じゃ。あの部屋の奥に、シーツも被せられずに埃まみれで放置されている古いグランドピアノがあるじゃろう? その心臓部たる響板の真下、床すれすれの木枠の裏側に、この蝋がべったりと張り付けられておった。腹這いになって裏側を覗き込まねば、絶対に気づかぬ完全な死角じゃな」


 瑠璃は自らの席に深く腰を下ろし、特注のルーペを取り出して、その奇妙な不純物を指し示した。


「まずは物理的な事実の整理からじゃ。このペン先は、表面に彫られた燕の細工と刻印から見て、国内でも最高級の万年筆ブランドのもの。14金製じゃな。しかし、ペン先の先端が肉眼でも分かるほど、不自然に右へひしゃげておる。これは長年の強い筆圧による摩耗や、経年劣化によるものではない。高い場所から硬い床へ、ペン先から垂直に落下させた時にのみ生じる、特有の致命的な破損じゃ」


 瑠璃の冷徹な紫の瞳が、対象を物理的なデータの集合体として精緻に解剖していく。その視線の鋭さは、刃物すら凌駕するほどの冴えを見せていた。


「次に、この赤黒い蝋じゃ。一見すると高級な手紙に使うシーリングワックスかとも思ったが、成分に不純物が多く、燃焼時の煤が不均一に混じっておる。これは、停電時などに使うような安価な実用キャンドルの蝋じゃ」


 瑠璃はそこで言葉を区切り、窓から差し込む西日を背にして、優奈の顔をじっと見つめた。


 九歳になった彼女の脳内には、すでに優奈という『情動の翻訳機』の回路が、自らのロジックの根幹として完全に組み込まれていた。


 瑠璃は、優奈が教えてくれた『モノの心を聴く』というアプローチを、自らの論理の刃の延長線上に置き、さらに深く、暗い人間の深淵へと踏み込んでいく。


「昔のわしなら、これを『高価な品を壊した過失を隠すための、臆病な隠蔽工作』と切り捨てておったじゃろう。だが、この三年間でお主がわしに植え付けた『視座』が、そのような浅薄で無味乾燥な結論を許さん」


 瑠璃の口元に、鋭くも誇り高い、絶対君主の片鱗を感じさせる笑みが浮かぶ。


 優奈は、瑠璃の言葉の続きを待つように、静かに息を呑み、両手を胸の前で組んだ。


「単に過失を隠蔽するだけなら、ゴミ箱の底に捨てるか、窓の外の茂みに投げ捨てれば済む話じゃ。わざわざ火を点けて安物のキャンドルを溶かし、接着剤代わりにしてまで『グランドピアノの響板の裏』という場所に固定した。この執念とも呼べる不自然で手間のかかる行動には、強烈な『人間の情動』が絡んでおる」


 瑠璃は、自らの白く細い指先でテーブルの上をトントンと一定のリズムで叩きながら、推理をさらに深淵へと進めていく。


 冷たい物理法則と、熱く渦巻く人間の感情。その二つを、寸分の狂いもなく縫い合わせるように。


「万年筆とは、目に見えない言葉を、文字という形にして紙に可視化するための道具じゃ。それが破損し、文字を書けなくなった。そして、それを張り付けた場所は、弦の振動を増幅させ、空間に『音楽』として響かせるための心臓部たる響板。……優奈。この万年筆の持ち主は、誰かにどうしても伝えたい言葉があったが、幾度試みても文字にすることができなかったのじゃろう」


 優奈の目が、驚きと、深い歓喜に見開かれた。


 瑠璃は構わず、一気にそのルーツを暴き立てる。


「文字にして紙に定着させる勇気がなかったのか。あるいは、文字という記号では到底伝えきれないほど、重く泥臭い感情だったのか。だから、この者は自らの意志で、ペン先を硬い床に叩きつけて折り曲げ、言葉を紡ぐ機能を『殺した』のじゃ。そして、文字にできなかったその感情を、今度は『音楽』に託そうとした。誰かがそのピアノを弾くたびに、自分の書けなかった言葉が、目に見えない音楽となって空気に溶けていくようにとな。これは隠蔽のためのゴミではない。一人の人間の、不器用で切実な『祈りの儀式』の跡じゃ」


 図書室の空気が、シンと静まり返った。


 西日に照らされた埃の粒子が、まるで瑠璃の紡いだ完璧な物語に共鳴して、静かに、そして熱狂的に拍手をしているかのようにきらきらと舞っている。


「……瑠璃さん。あなたって、本当に……」


 優奈は、感極まったように両手で口元を覆い、言葉を詰まらせた。その大きな瞳には、薄っすらと涙の膜が張っている。


 瑠璃が、自らの力だけで、物理的な痕跡から人間の『見えない心』にまで辿り着いた。それは、優奈が三年間、瑠璃の隣で優しく歌い続けてきた旋律が、瑠璃という少女の魂の奥底に、完璧な根を張った瞬間であった。


「どうじゃ、優奈。わしも少しは、お主の得意領域に踏み込めるようになったじゃろう? お主の甘ったるい解釈を待たずとも、これくらいの不純物の情動なら、わしの論理の網で十分に掬い上げられる」


 瑠璃は、少しだけ照れ隠しのようにふんぞり返り、得意げに胸を張った。


 優奈は、目元に滲んだ嬉し涙を指先でそっと拭うと、テーブルの上のその奇妙な蝋の塊を、傷ついた小鳥でも扱うかのように、両手でそっと包み込んだ。


 彼女の体温が、冷え切った赤黒い蝋に、微かな熱を与えていく。


「ええ。瑠璃さんの推理、本当に完璧だわ。万年筆の意味も、響板の役割も……その人が抱えていた苦しさも、全部瑠璃さんが見抜いてくれた。私の出る幕なんて、もうなくなっちゃったかもしれないわね」


「馬鹿を言うな。わしが組み立てたのは、あくまで事実に基づいた『感情の骨組み』に過ぎん。ほら、お主の仕事じゃ。この完璧な骨組みに、お主のその無駄に豊かな教養と音楽的な感性で、最後の装飾を施してみせよ」


 瑠璃に促され、優奈は蝋の塊を窓の光に透かして見つめた。


 太陽の光を浴びた蝋の縁が、血のように赤く、そしてどこか悲しげに滲んで見える。


 優奈は、目を閉じてその物体が放つ『沈黙の歌』に耳を澄ませた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「そうね……。瑠璃さんが見抜いてくれた通り、これは文字を殺して音楽に託した『祈りの儀式』よ。でも、もう少しだけ切ない要素が、この形には隠されていると思うの」


 優奈は、蝋の表面のわずかな凹凸を、慈しむように指でなぞった。


「瑠璃さん、この蝋の垂れ方を見て。ただ無造作に押し付けて固めただけじゃないわ。丸く、意図的に形を整えるように広げられているでしょう? これ、まるで大切な手紙を封じる時に使う『シーリングワックス』の形そのものよ」


「シーリングワックス。手紙の封、じゃと?」


「ええ。安物のキャンドルしか手に入らなかったけれど、この人は、どうしても出せなかった手紙の代わりに、自分の宛先のない言葉を、このペン先ごと蝋で『封じ込めた』のよ。……そしてね、ペン先に刻まれた燕の細工。ツバメは『幸運』や『愛する人の帰還』を意味する鳥よ。国内の最高級ブランドの万年筆って、普通は大切な人からの『贈り物』として手にするものが多いの」


 優奈のその言葉に、瑠璃の構築した論理のピースが、さらに深く、哀しい色を帯びて噛み合っていく。


「なるほど。この万年筆自体が、かつて誰かから贈られた、愛の証とも言える大切な品だったということか。それを自らの手で壊さねばならないほどの、決定的な別離……あるいは裏切りがあった」


「きっとそうよ。愛していた人からの贈り物を壊して、その悲しみに二度と触れないように蝋で封をして、音楽の神様がいるピアノに託した。……これはただの祈りじゃないわ。もう二度と戻らない時間への、そして、もう二度と会えない人への、永遠の『さよなら』のルーツよ」


 優奈が最後のピースをはめ込んだ瞬間、ただの汚れた蝋とひしゃげた金色の金属片は、一人の人間の血の滲むような別れの痛みと、それを音楽に昇華させようとした途方もない愛の結晶へと、劇的な変貌を遂げた。


 瑠璃の研ぎ澄まされたロジックが世界を切り裂き、そこに人間の情動という骨格を与える。


 そして、優奈の深い教養と音楽的な感性が、そこに体温と色彩を注ぎ込み、哀しくも美しい物語として完成させる。


「見事じゃ。優奈」


 瑠璃は、心からの賞賛を込めて、深く頷いた。


「わしの導き出した『祈り』のルーツが、お主の最後の鑑定によって、より深く、より残酷で美しい『永遠の決別』へと昇華された。やはり、わしの完璧な鑑定には、お主のその視座が不可欠のようじゃな」


「瑠璃さんの完璧な論理の土台があったからよ。私たち、これで本当に、誰にも負けない『二つで一つの眼』になれたわね」


 優奈は、心底嬉しそうに微笑み、そのオブジェをテーブルの中央、二人の陣地のちょうど境界線にそっと置いた。


 互いの魂が浸透し合い、完全に混ざり合う。瑠璃の荒削りだった好奇心は、優奈という無二の理解者と過ごしたこの三年間で、世界中の誰にも辿り着けない、狂いのない神懸かった精度と美しさを獲得するに至ったのだ。


「ありがとう、瑠璃さん。……ねえ、私たち、大人になってもずっとこうして、二人で世界の秘密を解き明かしていけたらいいわね」


 優奈が、窓の外の青空を見上げながら、夢見るような、それでいて確信に満ちた声で呟いた。


「当然じゃ。わしの世界には、もうお主のその甘ったるい翻訳が組み込まれてしまっておるからのう。お主がS-Musicの歌姫としてどれほど忙しくなろうとも、わしが地の果てまでも追いかけて連れ戻し、不純物の前に座らせてやる」


 瑠璃の力強い断言を聞いた優奈は、小さく声を上げて笑った。


 しかし、その笑い声はふと途切れ、優奈は西日に照らされた瑠璃の横顔を、まるではじめて見る宝物のように、静かに、そして真っ直ぐに見つめた。


「どうした、優奈。わしの顔に何かついておるか」


 瑠璃が怪訝そうに眉を寄せると、優奈はゆっくりと首を横に振った。


「……ううん。ただね、私たち、これで本当に『一つ』になったんだなって思って」


 優奈の瞳の奥で、今まで常に引かれていた、細く透明な境界線が、音を立てて溶け落ちていくのが見えた。


「ねえ。……もう、『さん』付けなんて、いらないわよね」


 瑠璃は、目をわずかに見開いた。


 六歳の春に出会ったあの日から三年間。優奈はどんなに親しくなっても、どんなに深く魂を交わしても、必ず『瑠璃さん』と呼んでいた。皐月の令嬢としての品格の表れでもあり、互いの領域を尊重する美しい礼儀でもあった。


 しかし今、その最後のヴェールが取り払われようとしている。


「これからは、ただ『瑠璃』って呼んでもいい?」


 優奈のその問いかけは、静かな図書室の中で、どんな音楽よりも甘く、そして決定的に瑠璃の胸を打った。


 瑠璃は、ほんの少しだけ頬に朱を差しながらも、照れ隠しのようにふいっと顔を背けた。


「好きにするが良い。わしは出会った初日から、ずっとお主のことを呼び捨てにしておるのじゃからな。今更じゃ」


 その不器用な許諾の言葉に、優奈は、太陽が弾けたような、この三年間で一番美しく、眩しい笑顔を見せた。


「ふふっ。うん。……ありがとう、瑠璃」


 そのたった一言。


 ただ名前を呼ばれただけなのに、瑠璃の胸の奥底が、どうしようもなく熱く、そして甘く締め付けられた。


 九歳の春の終わり。


 旧校舎の図書室で向かい合う二人の少女は、自分たちの絆と、完璧に融合した鑑定眼が、未来永劫にわたってこの世界の謎を解き明かし続けるのだと、無邪気に、そして確固たる自信を持って信じていた。


 彼女たちの心の中には、【永遠】という言葉が疑いようのない真実として輝いていた。


 だが、この完璧に研ぎ澄まされた『二人の眼』をもってしても。


 やがて訪れる夏の光の中で、たった一つの、最も大切な命のルーツだけが、永遠に水底の暗闇へと沈められ、解き明かせない謎として残されてしまう運命にあることなど、知る由もなかったのである。


───────。


 優奈が口にした【永遠の決別】というルーツ。


 そして、ようやく手に入れた『瑠璃』という親愛の響き。


 それらが、自分たち二人に残酷なまでに降りかかる未来の暗示であったことに気づくのは、もう少し先の話である。


 季節は、若葉の匂いを色濃くし、逃れられない運命が待つ『九歳の夏』へと、静かに、しかし確実に歩みを進めていた。



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