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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 5:月見坂の街並みと、共有する世界~

 旧校舎の図書室という閉ざされた秘密基地で育まれた二人の絆は、季節が巡り、彼女たちが七歳、そして八歳へと成長していくにつれて、その領域を月見坂市という巨大な街そのものへと広げていった。


 週末や休日の午後。瑠璃は、専属の護衛である黒田の目を巧妙に誤魔化し、本邸を抜け出す術をすっかり身につけていた。


 待ち合わせ場所はいつも、完璧な区画整理がなされた『新市街』と、かつての雑多な熱気を残す『旧市街』を隔てる、境界線の役割を果たす小高い丘の上の公園だった。


 その日も、瑠璃は装飾を削ぎ落とした上質なダークネイビーのワンピースに身を包み、公園の入り口にある古いレンガ造りの時計塔の下に立っていた。


 ほどなくして、春の終わりの柔らかな風を纏うようにして、優奈が姿を現す。彼女は淡いベージュのブラウスに歩きやすいパンツスタイルという、皐月財閥の令嬢としては少しばかり活動的すぎる出で立ちであったが、その一歩一歩の所作には、隠しきれない気品と音楽的なリズムが宿っていた。


「お待たせ、瑠璃さん。……今日はどのルーツを探しに行く?」


「ふん。わしはたった今、到着したところじゃ。……今日はそうじゃな、新市街の南ブロック、あのアホみたいに巨大なガラス張りの商業施設の裏手を回って、旧市街の入り口まで下ってみるぞ。あの人工的な街の境界線には、不要になって吐き出された極上の不純物が吹き溜まっておるはずじゃからな」


 瑠璃が冷ややかな紫の瞳を細めて先陣を切ると、優奈は「ふふっ、楽しみだわ」と微笑み、S-Musicが最近リリースしたという軽快なポップスのメロディを小さく口ずさみながら、彼女の半歩後ろを付いて歩き出す。


 それが、七歳から八歳にかけての二人の、最も美しく、そして最も穏やかな日常の風景であった。


 月見坂市は、瑠璃たちにとって巨大な『情報の海』だった。


 AIによって分刻みで清掃ドローンが巡回し、一切のチリや埃を許さない新市街の白亜のビル群。そこでは、落ちているゴミ一つが『重大なエラー』として処理される。だからこそ、ドローンの死角となる路地裏や、完璧な舗装のわずかなひび割れに残されたモノは、誰かが明確な意図を持ってそこに遺した『強烈な人間の意志の痕跡』となり得るのだ。


 一方、丘を下った先にある旧市街は、錆びついたトタン屋根や、色褪せたネオンサイン、入り組んだ細い路地が迷路のように連なる、アナログな熱気に満ちた世界だった。そこでは不純物が日常に溶け込んでいるため、真に価値のあるルーツを見つけ出すには、風景と同化してしまったモノの『違和感』を正確に抽出する、より高度な鑑定眼が要求される。


「……見ろ、優奈。あのベンチの下じゃ」


 新市街と旧市街を繋ぐ、長い階段の途中にある踊り場。瑠璃は、綺麗に清掃されたはずのベンチの脚の裏側に、ガムテープで乱暴に貼り付けられた小さな金属製の缶を発見した。


 周囲の目を警戒しながら、瑠璃がその缶を慎重に剥がし取り、中を開ける。


 中に入っていたのは、数枚の硬貨と、ひどく擦り切れた一枚の『電車の切符』だった。


「ただの小銭入れではないな。……この切符は、月見坂市から遠く離れた、海沿いの終着駅への片道切符じゃ。日付は……もう三ヶ月も前のものになっておる。印字が消えかかっているのは、何度も指でこすった痕跡じゃな」


 瑠璃の脳内で、物理的な証拠が瞬時に結びついていく。


 硬貨の額面、片道切符、ガムテープの劣化具合、そしてこの場所。


「……逃亡の準備、あるいはその未遂じゃな。三ヶ月前、誰かがこの街から逃げ出そうとした。じゃが、この階段の途中でその決意が鈍り、結局、切符とわずかな逃走資金をここに隠して、元の生活へと戻っていった。……愚かで、ひどく臆病なルーツじゃ。せっかく不純物だらけのこの街から抜け出すチャンスだったというのに、自ら檻に戻るなど、鑑定する価値もない」


 瑠璃は、つまらなそうにその缶を元に戻そうとした。


 しかし、隣から優奈の白く細い指が伸びてきて、瑠璃の手元からそっと切符を抜き取った。


「そうかしら? 私は、この人は決して『臆病』だから戻ったんじゃないと思うわ」


「ほう? ならば、お主のその甘ったるい解釈を聞かせてもらおうか」


 瑠璃が腕を組んで挑発的に見上げると、優奈は切符の裏側を指差した。


 そこには、鉛筆の薄い字で、不器用な子供の字のような跡が残っていた。文字としては読めないが、ぐしゃぐしゃとした丸や線の塊。


「これは、小さな子供の落書きよ。……きっと、この切符を買った人は、一人でこの街を出ようとしたのね。でも、ここへ来て、ポケットに入っていたこの切符の裏に、自分の子供が書いた落書きがあることに気づいたんだわ。……だから、逃げるのをやめたの。臆病になったんじゃなくて、逃げることよりも、その落書きを描いた『誰か』のそばで、泥まみれになっても戦うことを選んだのよ。……この缶をここに貼り付けたのは、自分が一度は弱音を吐いたという事実を戒めとして残すための、名誉ある『(いかり)』なんじゃないかしら」


 優奈の静かな声が、階段に吹き抜ける風に乗って響いた。


 瑠璃は、目を見開いたまま、その古い切符と優奈の横顔を交互に見つめた。


 物理的な事実の羅列を、人間の情動というフィルターに通すことで、無価値なゴミを『名誉ある戦いのルーツ』へと反転させる。


 優奈のその魔法のような解釈を聞くたびに、瑠璃の冷たく尖った心は、まるで温かい紅茶に溶ける角砂糖のように、静かに、そして甘やかに解けていくのを感じるのだ。


「……お主のその、何でもかんでも美しい物語に仕立て上げる癖、鑑定士としては致命的なバイアスになりかねんぞ」


「ふふっ。でも、瑠璃さん。私の解釈を聞いた時のあなたの顔、とっても優しくて綺麗よ。私は、その顔が見たくて歌っているようなものだわ」


「なっ……! ば、馬鹿を言うな! わしは真実しか愛さん!」


 顔を真っ赤にしてそっぽを向く瑠璃を見て、優奈は階段に響き渡るような明るい声で笑った。


 このような日々を重ねる中で、瑠璃の内面には、ある明確な変化が訪れていた。


 それは、周囲の人間、とりわけ自らの『家族』に対する認識と、呼称の変化であった。


 六歳の頃までは、瑠璃もごく普通の子供のように、親を『パパ』『ママ』と呼び、姉を『お姉ちゃん』と呼んでいた。それは、如月という完璧な檻の中で、少しでも家族としての体裁を保とうとする、無意識の自己防衛であったのかもしれない。


 しかし、優奈という『真の理解者』を得て、不純物の真理に触れる喜びを知った七歳の後半頃から、瑠璃はそのような甘ったるい呼称を一切捨て去った。


 如月彰のことは、冷徹な一族の長として『父』と呼ぶ。


 如月菫のことは、ただその妻という記号として『母』と呼ぶ。


 そして、己の虚栄心を満たすためだけに妹を貶める如月翡翠のことは、軽蔑を込めてただ『姉』と呼ぶようになった。


 山内かえでから受け継いだ『わし』という一人称と、この無機質な家族への呼称。それは、瑠璃が如月という血縛から精神的に独立し、絶対的な鑑定士としての自我を確立するための、重要な通過儀礼であった。


 そして不思議なことに、優奈もまた、瑠璃のその変化に呼応するかのように、自らの家族への呼び方を独特のものへと定着させていた。


「私の家はね、瑠璃さんのように冷たくはないけれど、いつも重たい音楽が鳴り響いているの。……S-Musicを背負う『父様』、それを支えながらも過去の栄光を忘れられない『母様』、そして、私の代わりに会社の跡継ぎとしてのプレッシャーに押し潰されそうになっている『兄様』……」


 旧市街の古い喫茶店の軒先で、二本の安価なソーダ水のアイスキャンディーを分け合いながら、優奈は遠くを見つめてそう語った。


 『父様』『母様』『兄様』。その上品で古風な響きには、皐月という音楽一族に対する深い敬愛と、同時に、そこから決して逃れられないという静かな諦念が混じっているように、瑠璃の耳には聞こえた。


「……お主も、なかなかに窮屈なルーツを背負っておるのじゃな。歌姫などと持て囃されておるが、その実、家族の期待という見えない鎖でがんじがらめというわけか」


「ええ。だからこそ、私には瑠璃さんが必要なのよ。……瑠璃さんと一緒にこの街のガラクタのルーツを探している時だけは、私は『皐月の歌姫』じゃなくて、ただの『優奈』になれる。あなたが私の言葉を、嘘のない真実として受け止めてくれるから」


 優奈は、溶けかけたアイスキャンディーを持ったまま、瑠璃に向かってあの春の日のような、すべてを包み込む微笑みを向けた。


 瑠璃にとって、優奈はすでに『友達』という軽い言葉で表現できる存在ではなかった。


 自分の冷徹な鑑定に、人間の心の温度を与えてくれる知的な相棒。


 自分の歪な言葉遣いも、世界への反逆も、すべてを肯定し、隣に並んで歩いてくれる唯一の理解者。


 七歳から八歳へと至るその一年間。


 月見坂の街並みは、彼女たちにとって巨大な宝箱であり、そこで交わされる対話は、二人だけの完璧な交響曲(シンフォニー)であった。


 瑠璃の尖った好奇心と冷たいロジックを、優奈の豊かな知性と慈愛が優しく包み込む。その完璧な補完関係によって、瑠璃の『ありえない場所にあるモノのルーツを見抜く力』は、もはや大人の探偵や警察でさえも及ばないほどの、神懸かった精度へと研ぎ澄まされていったのである。


 だが、どんなに美しい音楽にも、必ず終わりはやって来る。


 二人の少女が共有した、この奇跡のように穏やかで完璧な世界が、やがて来る【九歳の夏】に、あまりにも残酷な形で水底へと沈められてしまうことを……。


 ソーダの甘い匂いが漂う旧市街の路地裏で笑い合う二人は、まだ知る由もなかったのである。



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