第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 4:音楽の系譜と、知的な相棒~
季節が春から初夏へと移り変わる頃には、旧校舎の図書室は完全に、六歳の瑠璃と優奈の『二人だけの領土』として完成していた。
放課後を告げる無機質な電子チャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、瑠璃は誰よりも早く教室を抜け出し、この埃っぽい静寂の中へと足を踏み入れる。そして、少し遅れて、優奈が重厚な木製の扉をギィと軋ませながら、春の終わりの陽光と共に姿を現す。
それが、二人の誰にも侵されない日常の始まりだった。
分厚い一枚板の閲覧テーブルの上は、見事なまでに対照的な二つの世界で二分されていた。
瑠璃の陣地には、道端で拾い集めた『極上の不純物』たち——泥にまみれた空き缶のプルタブ、千切れたチケットの半券、誰かの手垢に塗れた擦り切れかけのハンカチなどが、まるで貴重な発掘品のように整然と並べられている。
対する優奈の陣地には、五線譜がびっしりと書き込まれた古いノートや、革表紙の音楽理論書、そして時折、彼女の父親の会社から持ち出してきたとおぼしき、色鮮やかな海外アーティストのカセットテープなどが置かれていた。
『目に見える物理的な痕跡』から過去の真実を抉り出そうとする瑠璃。
『目に見えない音の連なり』から、そこに込められた人間の情動を読み解こうとする優奈。
二人のアプローチは全く異なるベクトルを向いているはずなのに、なぜかこの図書室のセピア色の空気の中では、不思議なほど見事に調和していた。
「……優奈よ。お主は毎日毎日、そのような紙の上の黒いオタマジャクシばかり眺めて、何が楽しいのじゃ。音などというものは、空気を震わせた瞬間に消えてなくなる、極めて不確かな現象に過ぎん。傷や汚れのように、永遠にそこに残る物理的なルーツを持たぬではないか」
ある日の放課後。瑠璃は、ルーペ越しに古い硬貨の傷を観察しながら、目の前で五線譜を指でなぞっている優奈に向かって、ふとそんな疑問を投げかけた。
優奈は、楽譜から目を上げると、窓から差し込む西日に栗色の髪を透かせながら、ころころと鈴を転がすように笑った。
「瑠璃さんにとっては、そう見えるのね。でも、音は決して消えてなくならないわ。空気を震わせた音は、それを聴いた人の『心の中』という一番安全な場所に、消えないルーツとして刻み込まれるのよ。……それにね、私が読んでいるのはただの音符じゃないわ。これは、皐月家が背負っている『歴史』の証明でもあるの」
優奈はそう言うと、持っていた五線譜のノートをパタンと閉じ、代わりに制服のポケットから、一本の古びた金属製の道具を取り出してテーブルの上に置いた。
それは、楽器の調律に使う『音叉』だった。しかし、高級な銀製であるはずのその音叉は、全体がひどく黒ずんでおり、持ち手の部分には、何か硬いもので執拗に叩きつけられたような無数の打痕が残っていた。
「……見事な不純物じゃな。銀の酸化具合から見て、少なくとも数十年は手入れされずに放置されていた代物。そしてこの打痕……これは意図的な破壊衝動の痕跡じゃ。お主の家のような格式高い音楽一家に、これほど呪われたようなルーツを持つモノが存在するとはな」
瑠璃の冷ややかで鋭い紫の双眸が、瞬時にその音叉の物理的な事実をスキャンし、言語化する。
優奈は、瑠璃のその一切の容赦がない冷徹な鑑定に怯むことなく、むしろ深く頷いて、その黒ずんだ音叉を自らの小さな両手でそっと包み込んだ。
「瑠璃さんの言う通りよ。これは、皐月家にとっての『呪い』そのもの。……かつて、私の祖父である皐月淳之助が使っていた音叉なの」
その名前は、六歳の瑠璃の記憶アーカイブにも、月見坂の経済史における一つの『汚点』として明確に記録されていた。
かつて皐月財閥は、『Satsuki-classic』という絶対的なブランドを掲げ、月見坂市の、いや、国内のクラシック音楽界を牛耳る権威であった。しかし、淳之助の代に行われた巨額の汚職、コンクールの買収、そして才能ある若手音楽家たちの不当な搾取が明るみに出たことで、Satsuki-classicは一夜にして崩壊した。
一族はクラシック界の表舞台から完全に追放され、皐月の名は、音楽を愛する人々から『不純な強欲の象徴』として忌み嫌われることとなったのである。
「祖父の事件の後、皐月家は本当にすべてを失いかけたわ。クラシック界の重鎮たちは私たちを冷たく切り捨て、親戚たちも次々と去っていった。……でも、私の父様は諦めなかったの」
優奈の声には、六歳の少女とは思えないほどの、静かで、しかし揺るぎない覚悟と誇りが滲んでいた。
「父様は、クラシックという伝統的で高尚な世界を完全に捨てたわ。そして、月見坂の富裕層が見下していた海外のPOPSやロック……大衆のための、泥臭くて激しい音楽を専門に扱う『S-Musicコーポレーション』を立ち上げたのよ。……最初は『皐月の落ちぶれた末路だ』って、みんなに笑われたそうよ」
「しかし、今やS-Musicは、如月コンツェルンさえも無視できないほどの莫大な利益と影響力を、この街にもたらしておる。お主の父君は、泥水の中から自らの足で這い上がった、極上の反逆者というわけじゃな」
瑠璃がそう評価すると、優奈は嬉しそうに目を細めた。
しかし、彼女の視線はすぐに、手の中の黒ずんだ音叉へと落とされた。
「でもね、新市街の伝統的な富裕層の中には、今でも私たち皐月家を『クラシックを裏切って、低俗な音楽で小銭を稼ぐ成り上がり』だと陰口を叩く人がたくさんいるの。……私自身も、いずれはS-Musicを背負う『歌姫』として、完璧な存在でいなければならない。……この音叉の打痕はね、クラシックを捨てて泥にまみれる決意をした時、父様が自らの手で叩きつけて傷つけたものなのよ。過去への決別と、二度と高尚な世界には戻らないという、戒めのために」
優奈のその言葉を聞いて、瑠璃はハッとした。
彼女は、この音叉の打痕を『単なる破壊衝動』と鑑定した。しかし、優奈が提示したルーツは違った。それは、一族の罪を背負い、泥まみれになりながらも新しい音楽の系譜を繋ごうとした、皐月彰という一人の男の『血を流すような決意の痕跡』だったのだ。
「なるほど。お主が常に完璧な令嬢として振る舞いながらも、どこかこの完璧な街の空気を窮屈そうに息を潜めておった理由が、よく分かったぞ」
瑠璃は、自らの顎に手を当て、深く納得したように頷いた。
如月の完璧な血統に生まれながら、山内かえでという旧市街の老婆のルーツを継承し、世界から浮き上がってしまった瑠璃。
クラシック界の権威から転落し、泥臭い大衆音楽の世界で必死に『新しい皐月』の看板を背負って歌い続ける優奈。
二人は、その立ち位置こそ対極にあったが、その魂の奥底に抱えている『家名の重圧』と、それを打ち破ろうとする『不純物への渇望』という点において、完璧な合わせ鏡であった。
「ねえ、瑠璃さん。だから私、あなたの鑑定が好きなの。あなたは、どんなに汚れたモノでも、どんなに価値がないと見捨てられたモノでも、そこに刻まれた傷を『美しい歴史』として肯定してくれるでしょう? ……私、いつか父様の作るロックやPOPSの音楽も、瑠璃さんの鑑定みたいに、人々の隠された傷を肯定できるような、そんな歌にしてみたいの」
その言葉は、瑠璃の冷徹な知性の奥底にある、柔らかで脆い部分を優しく包み込んだ。
瑠璃は、自分が決してただの『気まぐれな子供』ではなく、世界に必要な『裁定者』なのだという事実を、優奈の言葉によって初めて確信することができたのだ。
「……ふん。お主のその大衆音楽とやらが、わしの要求する極上の不純物のレベルに達するかどうかは、わしがこの厳しい眼で、直接鑑定してやらねばならんな」
「ふふっ、お手柔らかにお願いするわ、絶対的な鑑定士様」
二人は、図書室の静寂の中で、顔を見合わせて小さく笑い合った。
瑠璃にとって、優奈はただの『優しい友人』ではなかった。
のちの時代、瑠璃の助手となる朔光太郎は、彼女の突飛な推理に振り回され、驚愕し、慌てふためくばかりの従順な『凡人』である。しかし、この六歳の皐月優奈という少女は違った。
彼女は、瑠璃の常軌を逸した冷徹な論理に決して呑まれることなく、常に同じ目線に立ち、瑠璃が見落としがちな『人間の心の機微』という見えないルーツを、音楽的な感性によって補完してみせた。
例えば、ある日のこと。
中庭のゴミ箱の裏に捨てられていた、半分溶けかかったプラスチック製のギターピックを見つけた時のことだ。
「安物のプラスチックじゃ。ライターか何かで炙られ、意図的に溶かされておる。これは、素行の悪い生徒が、音楽に対する敬意もなく、ただの退屈しのぎに破壊行動に及んだという、下等で無価値なルーツじゃな。ゴミ箱へ直行じゃ」
瑠璃は、一瞥しただけで冷たく切り捨てようとした。
しかし、隣でそれを見ていた優奈は、瑠璃の腕をそっと掴んで止めた。
「待って、瑠璃さん。……破壊行動じゃないかもしれないわ。このピックの先端を見て」
優奈に促され、瑠璃がルーペでピックの先端を拡大すると、そこには火で炙られる前に刻まれたであろう、無数の微細な削れ跡が存在していた。それは、弦を何千回、何万回と弾き続けなければつかないような、過酷な摩耗の痕跡だった。
「確かに……激しい摩耗じゃ。じゃが、それがどうしたというのだ」
「何百時間も弾き込んで、自分の指の形にすり減るまで大切にしていたピックを、ただの退屈しのぎで燃やす人はいないわ。……これはきっと、『お葬式』だったのよ」
「葬式、じゃと?」
「ええ。例えば、親に音楽の道を反対されて諦めざるを得なかった誰かが……あるいは、どうしても指が動かなくなってしまった誰かが、自分の夢に引導を渡すために、このピックを火葬にしたんじゃないかしら。……ほら、溶けたプラスチックの跡が、なんだか涙の形に見えない?」
優奈のその言葉に、瑠璃は雷に打たれたような衝撃を受けた。
物理的な激しい摩耗と、感情的な夢への決別と火葬。その二つが完全に融合した瞬間、ただの溶けたプラスチックのゴミは、一人の人間の血の滲むような『極上の悲劇のルーツ』へと劇的な変貌を遂げたのだ。
「……お主の言う通りかもしれん。……わしは、またしても表面的な物理現象に囚われ、その奥にある魂の叫びを聞き逃すところであった」
瑠璃は、自らの未熟さを恥じるように目を伏せた。
しかし、優奈は瑠璃の背中にそっと手を回し、優しく撫でた。
「謝らないで、瑠璃さん。瑠璃さんがピックの削れ跡を正確に見つけてくれたから、私はその人の心に気づくことができたの。……ね? 私たちは二人で一つよ。瑠璃さんの『目』と、私の『心』。二つが合わされば、解けないルーツなんて何もないわ」
優奈はそう言うと、静まり返った図書室の中で、誰に聞かせるわけでもなく、小さく、柔らかな声で歌を口ずさみ始めた。
それは、S-Musicが手掛ける海外の古いロックバラードの一節。
夢破れた者への鎮魂歌のようなそのメロディは、クラシックのような高尚な形式美こそなかったが、六歳の瑠璃の心を根底から揺さぶるような、泥臭くも圧倒的な『熱』と『優しさ』を孕んでいた。
瑠璃は、ただ静かに目を閉じ、優奈のその極上の歌声に耳を傾けていた。
自分は決して独りではない。
この冷たく完璧な世界の中で、自分の冷徹な論理を否定せず、むしろそこに温かい血を通わせてくれる、知的な相棒。
皐月優奈という存在は、もはや瑠璃にとって単なる『友達』という枠組みを遥かに超え、自らの鑑定眼という魂の一部を形成するための、決して欠かすことのできない『完璧な半身』へと変わりつつあった。
図書室の窓から差し込む西日が、並んで座る二人の少女の影を、床の上で一つの大きな塊として長く伸ばしていた。




