表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/32

第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 3:旧校舎の図書室と、二人の秘密基地~

 月見坂の象徴たる如月学園の広大な敷地内において、新市街の『完璧な管理』から唯一取り残されたような場所。それが、敷地の最北端にひっそりと佇む、旧校舎の図書室であった。


 新校舎に併設された真新しいメディアセンターが、AIによる徹底した温湿度管理のもと、一切の埃を許さず、すべての蔵書を電子データとして瞬時に検索・閲覧できる『情報の無菌室』であるのに対し、この旧校舎の図書室は真逆の性質を持っていた。

 分厚い木製の扉の向こうには、古いインクと羊皮紙が酸化していく乾いた匂い、建材の奥深くに染み付いた数十年前の雨の記憶のような微かな湿り気が、常に濃密に漂っている。

 傾きかけた西日が、埃を被った高い窓枠を切り取って、セピア色の光の帯を黒檀の床に落とす。その光の束の中を、細かな塵がまるで重力から解放されたかのように、ゆっくりとダンスするように舞っていた。

 グラウンドで遊ぶ生徒たちの歓声も、ここまでは遠い波の音のようにしか届かない。この図書室の中だけが、世界の喧騒から完全に隔離され、時間が琥珀の中に閉じ込められたかのような静寂を保っていたのである。


 山内かえでと過ごした、あの旧市街の古い家屋に似た空気。

 六歳の瑠璃は、中庭での皐月優奈とのあの運命的な出会いから数日が経ったあとも、放課後になれば迷わずこの場所へと足を運び、一人の時間を楽しんでいた。

 重厚な一枚板の閲覧テーブルに、道端で拾い集めた極上の『不純物』たちを並べ、誰にも邪魔されることなくそのルーツを紐解く。それは、彼女にとって何よりも神聖で、孤独な儀式のはずであった。


 しかし、ある春の終わりの午後。

 その完璧な静寂の中に、控えめな、けれど決して迷いのない、柔らかな足音が混じるようになった。


 ギィ……と、蝶番が軋む重々しい音を立てて、図書室の扉がゆっくりと開く。


「……ここ、やっぱり素敵ね。瑠璃さんの『鑑定』にぴったりの、とても静かで、優しい匂いがするわ」


 そこに立っていたのは、皐月優奈だった。

 彼女は、まるでこの場所が最初から自分のものでもあったかのように、極めて自然な足取りで図書室の中へと入ってくる。その手には、革表紙の古い音楽理論の洋書が抱えられていた。

 優奈は、瑠璃が座る閲覧テーブルの対面の椅子を引き、流れるような優雅な所作で腰を下ろした。


「ふん。わしの聖域を勝手に侵すでない、優奈。ここは、わしが一人で不純物と対話するための、神聖な場所なのじゃから」


 瑠璃は、手元にあった錆びた鍵の鑑定を中断し、冷ややかな紫の瞳で優奈を睨みつけた。

 言葉では拒絶を示しながらも、瑠璃の心の中には、不思議と『怒り』や『不快感』は湧いてこなかった。むしろ、あの西日に透ける栗色の髪が図書室の空気に溶け込む光景を、心のどこかで待ち望んでいた自分自身の存在に気づき、微かな戸惑いすら覚えていたのだ。


「ふふっ、そんな怖い顔をしないで。対話なら私も混ぜてよ。二人の方が、もっとたくさんの声が聞こえるかもしれないわ」


 優奈は、瑠璃の老人口調での威嚇など全く意に介する様子もなく、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。

 そして、抱えていた洋書をテーブルの端に置くと、ふと思いついたように口を開いた。


「そういえば、昨日うちの父様が、瑠璃さんのお父様とお仕事でお会いしたそうなの。……瑠璃さんのお父様と、私の父様。同じ『(あきら)』という名前なのよね」


 瑠璃は、ふっと息をついて肩の力を抜いた。


「……左様じゃ。如月コンツェルンの社長たる如月彰と、S-Musicを率いる皐月彰。月見坂の経済を二分する両家の主が、揃いも揃って同じ名前とはな。これでは、我々の家の事情を知らぬ一般の人間が活字で読めば、印刷所の『誤植』かと疑うかもしれんぞ」


 瑠璃が皮肉交じりにそう言うと、優奈は堪えきれないようにクスクスと声を上げて笑った。


「本当にね。同じ名前だなんて、不思議な縁だわ。でも、名前は同じでも、背負っているルーツや音楽は全然違う。……私の父様は、祖父が失った皐月の誇りを、全く違うジャンルの音楽で取り戻そうと必死に戦っているの。だから、いつも眉間にシワが寄っていて、少しだけ窮屈そう。……瑠璃さんのお父様はどう?」


「……わしの父も、似たようなものじゃ」


 瑠璃は、伏し目がちに答えた。


「完璧な如月の血筋を守るために、常に誰かの目を気にして生きておる。……父の書斎は、この図書室よりもはるかに立派だが、息が詰まるほど退屈じゃ。あそこには、血の通った不純物など一つも存在せんからのう」


 『彰』という同じ名を持つ、二人の絶対的な父親。その巨大な庇護のもとにありながら、同時にその重圧という名の檻に閉じ込められているという共通の感覚。

 六歳の二人は、互いの家庭の事情を深く語り合うことはしなかったが、その短いやり取りだけで、それぞれの背負っている『孤独の輪郭』を正確に共有したのだ。


「……ねえ、瑠璃さん。これを見て」


 優奈が、話題を変えるようにして、制服のポケットからそっと何かを取り出し、テーブルの上に差し出した。

 それは、銀色に光る小さな鈴だった。

 しかし、その鈴の表面には無数の細かい擦り傷があり、どこかが不自然に歪んでいる。優奈がそれを指先で弾いてみても、チリンという澄んだ音は一切鳴らず、ただカチリという鈍い金属音が響くだけだった。


「音が鳴らない鈴、か。……内部の構造に致命的な欠陥があるのかのう。本来の目的を果たせぬなど、鑑定しがいのないゴミじゃな」


 瑠璃は、興味なさそうに視線を外した。

 しかし優奈は、その鳴らない鈴を愛おしそうに両手で包み込んだ。


「そうかしら? 私は逆に、この『鳴らない』という事実こそが、この鈴にとっての最大のルーツであり、音楽だと思うわ。……瑠璃さん、お願い。あなたのその目で鑑定してみて。なぜ、この鈴は自分自身の声を殺してしまったのか」


 優奈のその真っ直ぐな、期待に満ちた眼差しを向けられ、瑠璃は小さく舌打ちをした。

 ……仕方ない。

 瑠璃は、優奈の手のひらから鈴を奪い取るようにして受け取った。

 鋭い紫の瞳を限界まで細め、表面の細かな傷の角度を、窓から差し込む西日の光にかざして丹念に観察する。そして、鈴の隙間から内部の構造を覗き込んだ。


(……なるほど。鈴の内部で音を鳴らすための玉が、樹脂のようなもので意図的に固められておる。……これは経年劣化による故障ではない。誰かが、音を消すために、執拗なまでの手間をかけて詰め物をしたのじゃ)


 瑠璃の脳内で、物理的な事実というパズルのピースが、カチリと音を立てて組み合わさっていく。

 なぜ、鈴の音を消す必要がある? 鈴は、己の存在を周囲に知らせるためのモノだ。その根源的なアイデンティティを、持ち主が自らの手で否定するということは……。


「……結論が出たぞ、優奈」


 瑠璃は、鈴をテーブルの上にコトリと置いた。


「隠密性、じゃな。例えば、飼い猫が獲物を捕らえるのを邪魔しないように飼い主が工夫した……あるいは、音を立ててはいけない場所、例えば厳格な図書館や、病室などでこれを持つ必要があった者の持ち物じゃ。物理的な証拠から導き出されるルーツは、そのどちらかじゃろう」


「ふふっ。惜しいわね、瑠璃さん」


 優奈は、悪戯っぽく微笑みながら、得意げに人差し指を立ててみせた。その仕草は、瑠璃の論理的な鑑定を否定するものではなく、むしろその先にある『真実』へ導くための、優しい指揮者のようであった。


「その鈴が落ちていたのは、中庭の古い水道の蛇口の近くよ。……あそこの植え込みには、春の今の時期だけ、小さな野鳥が巣を作っているの。とっても臆病な鳥で、少しの物音でも巣を放棄してしまうらしいわ」


 優奈の言葉に、瑠璃はハッとして目を見開いた。


「……きっと、雛たちを驚かせたくないと思った優しい誰かが、お気に入りのキーホルダーを外すのではなく、その音だけをわざと殺して、鳥たちを守ろうとしたんじゃないかしら。……その見えない優しさこそが、この鈴の『不純な歴史』なのよ」


 瑠璃は絶句した。

 自分の鑑定眼は、物理的な証拠から【誰が、どうやって、どのような状況で】を導き出すことには、大人顔負けの精度を誇っていた。

 しかし、優奈は【なぜ、そうしたのか】という、人間の心の揺らぎ……その最も不確かで、最も美しい『愛しさ』を、まるで楽譜から隠されたメロディを読み解くように提示してみせるのだ。


「……お主には、敵わんな、優奈」


 瑠璃は、自らの敗北を認めるように、しかし決して不快ではない、不思議な充足感に包まれながら深く息を吐いた。


「そんなことないわ。瑠璃さんのその鋭い観察眼がなければ、私は鈴の内部に樹脂が詰められていることにさえ気づけなかった。ただ壊れているだけだと思って、捨てていたかもしれないわ」


 優奈は、身を乗り出して瑠璃の手をそっと握った。

 その手のひらは、六歳の子供らしく小さく、けれどとても温かかった。


「……ねえ、瑠璃さん。これからも二人で、この図書室で『世界の不純物』を鑑定しましょう? 私があなたの『心を読む目』になり、あなたが私の『真実を語る言葉』になって。……二人なら、世界に落ちているどんな退屈なガラクタのルーツも、極上の物語に変えることができるわ」


 優奈のその言葉は、瑠璃の魂の最も深い部分に、初めて自分と同じ温度の火を灯した。

 如月家の令嬢としてではなく、かえでの弟子としてでもなく。ただ、自分の情熱を共有し、異なる視点から高め合える『対等な相棒』。


「……ふん。お主のその甘ったるい解釈には、時に論理の飛躍があるが……まあ、悪くはない。わしの完璧な鑑定の、ほんの少しのスパイスくらいにはなるじゃろう」


 瑠璃は、握られた手を振り払うことはせず、そっぽを向きながらも、口元には隠しきれない小さな笑みを浮かべていた。


 西日が差し込む静かな旧校舎の図書室。

 埃の舞う光の中で二人は向き合い、一つの鳴らない鈴を見つめていた。

 それは、世界で最も孤独だった六歳の瑠璃が、生まれて初めて『世界に一人ではない』ことを確信した、幸福な沈黙の時間だった。


 やがて、この図書室は、誰にも立ち入ることの許されない『瑠璃個人の聖域』から、二人だけの『秘密基地』へとその意味を変えていく。

 毎日放課後になれば、二人はここで待ち合わせ、道端で拾い集めた不純物を机に並べ、時に真剣に議論を戦わせ、時に声をあげて笑い合った。

 瑠璃の冷徹でロジカルな鑑定眼は、優奈という完璧な『感情の翻訳者』を得たことで、かつてないほどの精度と深みを持つ『完全な眼』へと研ぎ澄まされていくことになる。


 しかし、その幸福な秘密基地での日々が、やがて来る残酷な『水底の沈黙』へと向かっていることを、その時の二人はまだ、知る由もなかったのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ