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如月令嬢は『手ぶらの鑑定書を疑わない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 2:隣の歌姫と、交わる視線~

 月見坂の建都二十周年を祝う、少しばかり騒がしすぎた春の嵐が過ぎ去り、数日が経った頃。

 如月学園の広大な中庭には、前夜に降った雨の残り香と、息吹き始めたばかりの若葉の青臭い匂いが、ひどく濃密に立ち込めていた。人工的に完璧な温度管理がなされている新市街にあって、天候という予測不可能な自然現象がもたらすこの『匂いの変化』は、六歳の瑠璃にとって数少ない気晴らしの一つであった。


 その日も、瑠璃は賑やかなランチタイムの喧騒を避けるようにして、独り校舎の北側へと足を向けていた。

 向かった先は、まだ完全に手入れが行き届いていない、旧式の古い温室の裏手である。最新型の自律式清掃ドローンは、プログラミングされた直線的な動きを好むため、こうした複雑に入り組んだ地形や、古びたレンガの隙間などをスキャンするのを苦手としていた。

 つまり、そこは人工的な完璧さに穿たれた、小さくも決定的な『世界の綻び』であり、瑠璃が求める『極上の不純物』が吹き溜まる絶好の鑑定スポットであったのだ。


 瑠璃は、真っ白な高級生地で仕立てられた制服のプリーツスカートが汚れるのも一切意に介さず、まだ湿り気をたっぷりと含んだ黒土の上に、躊躇うことなく屈み込んだ。

 彼女の鋭く冷ややかな紫の瞳が、雑草の影を縫うようにして地面を舐め回す。そして、枯れ葉の下に半分ほど埋もれるようにして落ちている『それ』を、瞬時に捕捉した。


 それは、一つの中身が空になった、煤けた古いマッチ箱であった。


(なぜ、このような場所に、これほどのアナログな燃焼具が落ちておるのじゃ)


 瑠璃は、小さな白い指先で泥を払いながら、そのマッチ箱をそっと摘み上げた。

 表面には、今はなき場末のバーのロゴが、擦り切れて辛うじて読める程度に刻印されている。それは、新市街のクリーンな無菌室のような空気の中で、ひどく場違いで、それゆえに強烈な『人間の生々しい熱』を放っているように見えた。


(このマッチ箱の表面に残る煤の成分……。学園内の焼却炉から出たものではない。もっと不規則で、油分の多い煤じゃ。さらに、紙の歪み方からして、何度も人間の手汗を吸い込んでは乾くという過程を繰り返しておる。……旧市街からここまで、風だけで運ばれるには、あまりにも物理的な障害が多すぎる。……ならば、誰かが自らの足でこれを持ち込み、そして意図的に、この温室の裏手という死角で手放したということか……?)


 瑠璃の脳内で、物理的な証拠から導き出される論理の糸が、目まぐるしい速度で織り上げられていく。

 彼女がそのマッチ箱を、自らの鑑定ノートに刻むべき極上の戦利品としてポケットに収めようとした、まさにその時だった。


「それは、きっと誰かの『お守り』だったんじゃないかしら」


 背後から不意にかけられたその声は、春の朝靄を抜けてくる銀の鈴のように透明でありながら、同時に、決して折れることのない確かな知性と、揺るぎない品格を湛えた響きを持っていた。

 瑠璃は、心臓が一瞬跳ね上がるのを感じながら、警戒する小動物のように弾かれたように振り返った。

 そこには、自分と同じ如月学園の真っ白な制服を着た、一人の少女が立っていた。


 ウェーブがかった柔らかな栗色の長い髪が、午後の傾き始めた光を透かして、まるで溶けた金細工の糸のように柔らかに輝いている。

 穏やかだが、すべてを包み込むような深い慈愛と、物事の本質を射抜くような鋭い知性の光を同時に宿した瞳。

 瑠璃はその姿を一目見て、それが隣のクラスの生徒であることを、自らの記憶アーカイブから一瞬の澱みもなく検索し、特定した。


 皐月優奈(さつき ゆな)

 かつて彼女の祖父・淳之助(あつのすけ)が起こした巨額の汚職事件によって、一族は一度クラシック音楽界の絶対的権威であった『Satsuki-classic』を失い、月見坂の表舞台から追放されかけた。しかしその後、彼女の父・皐月彰(さつき あきら)の決死の尽力により、クラシックという伝統をかなぐり捨て、海外のPOPSやロックを専門とする新しいプロダクション『S-Musicコーポレーション』として、劇的かつしたたかな再起を果たしたのである。

 そのS-Musicを背負って立つ皐月財閥の令嬢である優奈は、入学早々、その『歌姫』と称されるほどの類まれなる美声と、誰に対しても分け隔てなく接する柔らかな社交性で、学園の教師や生徒たちの注目の的となっていた。

 如月コンツェルンと皐月財閥。同じ『彰』という名を持つ父。しかし、日陰で泥にまみれて不純物を拾い集める瑠璃に対し、優奈は常に人々の輪の中心で輝く、対極に位置する『光』の住人であった。


「……皐月の娘か。わしの鑑定を邪魔するでない。何用じゃ」


 瑠璃は、相手の素性を完全に承知の上で、あえて突き放すような冷徹な老人口調を投げかけた。

 自らの絶対的な聖域である『不純物との対話』に、土足で踏み込まれたことへの、幼いながらも峻烈な拒絶の意志。普通の六歳児なら、ここでその威圧感に怯えて泣き出すか、あるいはおかしな話し方だと嘲笑い、クラスメイトに言いふらすために逃げ帰るはずだった。

 しかし、優奈は違った。

 彼女は驚くことも、不愉快そうに眉を寄せることも、軽蔑の視線を向けることもなかった。それどころか、彼女は瑠璃の鋭く冷ややかな瞳を真っ直ぐに見つめ返し、優雅に、そして心からの親愛を込めて、春の陽だまりのように柔らかく微笑んだのである。


「お邪魔してごめんなさい、如月瑠璃さん。……でも、その話し方、とっても素敵ね。まるでお伽話の奥底に住んでいる、世界の秘密をすべて識っている魔法使いみたいだわ」


 瑠璃は、不意に胸の奥の、自分でも気づいていないほど深く固く閉ざされていた『欠落』を、鋭い矢で貫かれたような衝撃を覚えた。

 自分のこの歪な話し方を、奇異の目で見ず、気味悪がることもなく、ただ真っ直ぐに、偽りない声色で『素敵』だと言い切った人間。

 如月という名前に怯えて媚びへつらうこともなく、その老人のような言葉遣いを揶揄して優越感に浸ることもない。

 山内かえで以外の人間で、自分という、世界から浮き上がってしまった異物を丸ごと肯定した人間は、この六年の短い人生において、目の前に立つこの少女が初めてだったのだ。

 

 瑠璃は、動揺を悟られまいと、ことさらに険しい表情を作り、手の中のマッチ箱を握りしめた。


「……ふん。お世辞は不要じゃ。皐月の令嬢が、わしのような変わり者に媚びを売る必要などなかろう。わしはただ、このマッチ箱という不純物のルーツを辿っておるだけなのじゃからな。あっちへ行け」


「お世辞じゃないわ。私は本当に、あなたのその言葉の響きが、とても美しい音楽のように聞こえたのよ。……でも、そのマッチ箱のルーツ。あなたが考えている物理的な経路や理由よりも、もう少しだけ『切ない物語』が隠れているかもしれないわよ? 音楽みたいに、目に見えない部分にね」


 優奈はそう言うと、瑠璃の隣に、まるで最初からそこに居るべき人間であったかのように、そっと、流れるような優雅な所作でしゃがみ込んだ。

 最高級の白いプリーツスカートが湿った土に触れ、茶色く汚れることも一切気にせず、彼女は瑠璃と肩が触れ合いそうなほどの距離で、その小さなマッチ箱を覗き込んだ。


「見て、瑠璃さん。このマッチ箱の角の部分、全体的に煤けているのに、ここだけ少し潰れて、表面が擦り切れているでしょう? これはおそらく、誰かのポケットの中で何度も、何度も、大切に握りしめられていた証拠だわ。……きっとね、この学園で働く誰かが、昔の自分を支えてくれた、どうしても捨てられなかった思い出を、今日、ようやくここに置いていく決心をしたんだと思うの。過去と決別して、新しい自分になるために」


 瑠璃は絶句した。

 自分はモノを物理的な証拠として、過去へと遡るための『冷たい事実』として見ていた。煤の成分、紙の歪み、風の軌道。それらから導き出されるロジックこそが、世界を紐解く絶対的な法則だと信じていた。

 しかし、優奈はそこに『感情』という、目に見えない、そして計算不可能な不純物を付け加えたのだ。

 優奈の推察は、瑠璃の冷徹なロジックを否定するものではない。むしろ、瑠璃が組み立てた骨組みに、豊かな色彩と体温を与え、血の通った『物語』へと昇華させるような、不思議で圧倒的な説得力を持っていた。


「……お主、なぜそんなことが分かる。モノは喋らん。モノに人間の心など宿らぬ」


「音符という記号そのものに心は宿らないけれど、それを繋ぎ合わせたメロディには、歌う人の心が宿るでしょう? きっと、それと同じよ。……ねえ、瑠璃さん。あなたも本当は、独りでいるのが好きなんじゃなくて、誰も自分と同じものを見てくれないのが寂しかったんじゃないかしら。……私はね、入学式の日からずっと、あなたのその鋭くて、すべてを見透かそうとする綺麗な瞳が、とても素敵だと思っていたの」


 優奈の静かな言葉は、瑠璃が自分自身にさえ隠していた、剥き出しの真実を正確に突いていた。

 如月財閥の令嬢という、逃げ場のない檻。山内かえでから引き継いだ言葉という、自らに課した呪縛。それらによって周囲から切り離され、孤立していた瑠璃の頑なな心を、優奈は持ち前の社交性という安っぽい武器ではなく、ただ一人の人間としての深い共鳴と理解によって、春の雪解けのように、音もなく解かし始めたのだ。


 優奈もまた、財閥の令嬢という重いレッテルによって、クラスの中で「当たり障りのない、完璧な日々」を演じさせられていたのだろう。彼女の美しい歌声は称賛の対象だったが、彼女が本当に歌いたい悲しみの歌、彼女が本当はどのような痛みを感じているのかを分かろうとする者は、一人もいなかったのだ。

 『隣のクラスの歌姫』と『変わり者の令嬢』。

 対極にいると思われていた、共通の孤独という不純物を持った二人の視線が、煤けた小さなマッチ箱の上で、運命的に重なり合った。


「……お主、おかしな奴じゃな。皐月の娘ともあろう者が、このような人目のつかない場所で泥にまみれておると、親にひどく叱られるぞ」


「ふふ、それを言うなら瑠璃さんも同じじゃない。あなたのその真っ白な制服の膝、もう泥だらけよ? ……ねえ、約束して。明日もここで、一緒に不純物を探しましょう? 私、あなたの見る世界を、もっともっと知りたいの。二人で、この月見坂の街に隠されたルーツを、ひとつ残らず歌い上げましょう」


 瑠璃は、自らの胸の奥で、鼓動がかつてないほど激しく早まるのを感じた。

 それは、難解な謎を解き明かした時の知的な高揚感とは全く違う、もっと根源的で、腹の底から湧き上がるような、熱い生命の震え。

 

「……許可する。お主の知性、わしの鑑定の補助としては、少しは役に立ちそうじゃからな。……明日もここへ来い」


 不器用で、素直になれない、しかし六歳の瑠璃なりの最大限の歩み寄り。

 優奈は嬉しそうに目を細めると、「ありがとう、瑠璃さん」と、世界で一番贅沢な歌声で囁いた。


 それが、如月瑠璃という、のちに月見坂の絶対君主と呼ばれる少女にとって。

 生涯でただ一人となる、そして永遠に失われることになる『親友』との、初めての交信であった。

 二人の足元で、古いマッチ箱は静かに横たわっていた。それはもはや単なる清掃ドローンの拾い残したゴミではなく、二人の魂を強く繋ぎ止めるための、最初で最後の極上のルーツを刻み始めていた。


 瑠璃はこの時、初めて知った。

 鑑定眼というものは、決して独りで磨き上げるものではないということを。

 自分とは異なる旋律を持った他者の視座、そして感情という名のフィルターが加わることで、世界という名の不純物は、より深く、より鮮やかに、その裏に隠された真実の物語を暴き出していくのだということを。


 中庭に、午後の授業の開始を告げる、無機質な電子チャイムが鳴り響いた。

 

「また明日ね、瑠璃さん。約束よ」


「……ああ。一秒でも遅れるでないぞ、優奈。わしは待つのが嫌いじゃからな」


 立ち上がり、背中を向けて教室へと戻っていく優奈の姿を、瑠璃はしばらくの間、膝に付いた泥を払うことも忘れて、ただじっと見つめていた。

 春の柔らかな光が、彼女の栗色の髪を黄金色に縁取り、その姿はまるで、不条理と孤独に満ちたこの完璧な世界から自分を救い出してくれる、一筋の美しい旋律のように見えた。

 

 六歳の瑠璃が、生まれて初めて『他者』を自らの領域に受け入れた春の午後。

 彼女の孤独な鑑定ノートの白紙のページに、初めて『誰かの笑顔』という、この上なく極上で、そしてこの上なく愛おしい不純物が書き加えられたのである。



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