第2話『水底の歌姫と、沈まない黒鉄の鍵』 ~Section 1:深夜の静寂と、六歳の記憶~
サクタロウと共に旧校舎の図書室を後にし、夕闇が沈殿する廊下を歩いたあの感触が、まだ足の裏に確かな熱量として残っている。
送り届けられた如月本邸の自室。瑠璃は今、自分という存在を丁寧に、かつ残酷なほど厳重に包み込むために誂えられた、最高級シルクのネグリジェに身を包んでいた。
それは、月の光を吸い込んで真珠のような鈍い光沢を放つ、深い紫色の布地。細い肩紐は、今にも滑り落ちそうなほど危うく彼女の白い肩に掛かり、胸元を飾る繊細なフランス製レースは、瑠璃の呼吸に合わせて微かに、しかし確かに波打っている。
裾は歩くたびに流麗な弧を描き、膝下まで覗く彼女の素足は、夜の冷気を含んだ大理石の床の上で、陶器のような滑らかさを際立たせていた。十六歳の少女が、眠りの淵に沈むためだけに用意されたその装束。それは、月見坂の支配者たる如月の血筋が、睡眠という最も無防備な時間においてさえも、完璧な『美』という名の管理下にあることを象徴していた。
瑠璃は、広大なベッドの中央に座り、長い黒髪を背に流しながら、膝を抱えるようにして丸まっていた。
ネグリジェの薄い布越しに、自らの膝の骨の感触が伝わってくる。サクタロウの前では決して見せることのない、一人の少女としての、ひどく無防備で、それでいて鋭利な孤独。
天井を見上げれば、そこには新市街の建築技術の粋を集めた、一切の歪みのない完璧な水平が広がっている。AIが秒単位で管理する空調システムは、人の呼吸を妨げない最適の湿度と温度を維持し、微かな音すら立てずに、ただ清潔で無味乾燥な空気を吐き出し続けていた。
だが、その清潔すぎて死んでいるような空気の中で、瑠璃の鼻腔は無意識のうちに『あの匂い』を執拗に追い求めていた。
つい先ほどまで図書室で吸い込んでいた、古い羊皮紙が放つ乾いたインクの香り。建材の奥深くに染み付いた数十年前のカビの、どこかノスタルジックな湿り気。そして、サクタロウが慣れない手つきで淹れたダージリンティーから立ち昇っていた、鼻の奥を優しくくすぐる温かい蒸気の匂い。
それらは、如月本邸という名の『完璧な檻』が最も忌み嫌い、即座に清浄され、排除されるべき、下等な不純物たちだ。しかし、今の瑠璃にとっては、それらこそが自分を生に繋ぎ止めるための、極上の鑑定書の一部のように思えてならなかった。
窓から差し込む冬の月光が、磨き上げられた黒檀の床の上に、鋭利な刃物で切り取ったような青白い長方形を落としている。
瑠璃は、ネグリジェから伸びる自らの長く白い指先を、その光の輪郭へとそっと差し出した。
光の冷たさと、影の暗転。その境界線を見つめていると、今日、サクタロウに『わし』の話し方のルーツ——山内かえでのことを語ったことで、彼女の心の中に幾重にも掛けられていた厳重な錠が、音もなく外れ始めていくのが分かった。
記憶という名の深淵が、その重い口をゆっくりと開き、彼女の意識を十年前の、あの眩しすぎて正視できない春へと引き摺り込んでいく。
(……サクタロウに話したのは、あくまで『わし』の成り立ちに過ぎん。山内かえでから受け継いだ、言葉という名の不純物……)
瑠璃は、ネグリジェの裾を握りしめ、自らの細い足首を隠すように身を縮めた。
彼女には、まだ誰にも語っていない、あの従順で、それでいてどこか芯の強い助手にさえも明かすことのできない、もう一つの『過去』がある。
それは、彼女の鑑定眼を単なる知的な遊びから、逃れられぬ『執念』へと変貌させ、彼女の心に、生涯消えることのない決定的な欠落を刻みつけた、ある一人の少女との物語。
記憶の針は、十年前。瑠璃が六歳の春、如月学園初等部に入学した頃へと、一気に遡る。
建都二十周年という、街全体が祝祭の熱狂に包まれていた月見坂市。如月コンツェルンがその威信をかけて設立した如月学園は、新市街の象徴であると同時に、広く多様な生徒を受け入れる自由な学風を掲げていた。
学費さえ納めれば、そこに身分の差も、出自の優劣もない。理論上、そこは月見坂で最も『平等』なはずの場所であった。
入学式の日、六歳の瑠璃は完璧にプレスされた真っ白な制服に身を包み、校門をくぐった。
周囲を見渡せば、新しいランドセルを誇らしげに背負った子供たちが、親の手を握り、これから始まる学園生活への期待に目を輝かせている。あちこちで笑い声が上がり、春の陽光の下で『希望』という名の眩しい色が溢れていた。
しかし、瑠璃の足取りだけは、その祝祭の輪から明確に浮き上がっていた。彼女の歩みは、周囲を鑑定し、自らの居場所がないことを確認するための、冷徹な、そしてあまりにも大人びた一歩であった。
山内かえでから引き継いだ、およそ六歳の子供が口にするはずのない老人口調。そして、学園の設立母体である如月コンツェルンの次女という、あまりにも巨大すぎて、自分自身の意志とは無関係に与えられた『如月』という名の重力。
それらは、教室という閉鎖空間において、瑠璃を瞬時に『不可触な観測対象』へと押し上げた。
同級生たちは、彼女のアメジストの瞳に見つめられるたびに、自分たちの内側の、まだ幼い、けれど確かに存在する卑俗な感情――『ずるい』という嫉妬や『気持ち悪い』という違和感を見透かされるような言い知れぬ恐怖を覚え、遠巻きに眺めては『変わった子』『怖いお嬢様』と、ひそひそと、それでいて残酷な無邪気さで囁き合った。
教師たちは、彼女の機嫌を損ねて自分の輝かしいキャリアに傷がつくことを何よりも恐れ、彼女の一挙手一投足を、腫れ物に触るような、慇懃無礼な恭しさで称賛した。
誰一人として、如月瑠璃という一人の少女の『中身』を見ようとはしない。
そこに在るのは『如月』というブランドへの畏怖か、あるいは『老人口調』という異物への拒絶反応だけだった。
瑠璃にとって、教室という場所は、無機質なデータの集積所でしかなかった。そこには、彼女が渇望する、血の通った『ルーツ』も『不純物』も、何一つとして存在しない。
休み時間、他の子供たちが校庭を走り回り、賑やかな遊びに興じる中、瑠璃は音もなくその輪から姿を消した。
彼女は独り、校舎の裏手や、再開発の手が及ばず放置されたままの中庭の隅、人工的な美しさの隙間に潜む『綻び』を求めて彷徨っていた。
六歳の少女にとって、その孤独は耐え難いものであるはずだった。だが、瑠璃には山内かえでから授かった『視座』があった。
彼女の唯一の慰めは、地面に落ちている『忘れ去られたモノ』たちの鑑定だった。
完璧に管理された如月学園の敷地内であっても、人の営みがある以上、不純物は必ず発生する。
側溝の隅に詰まった古いアメの包み紙。誰かが隠れて持ち込んだのであろう、錆びついたクリップ。あるいは、清掃ドローンが拾い忘れた、名もなき草の枯れ葉。
瑠璃は、それらのガラクタを一つずつ丁寧に拾い上げては、その表面に刻まれた傷跡や汚れを、まるで古文書を読み解く学者のような眼差しで見つめた。
(このアメの紙は、新市街では売っていない種類のものじゃ。……きっと、旧市街から通う給食の搬入業者が落としていったのに違いない。この模様の掠れ方は、ポケットの中で何度も指が触れた証拠……。彼はきっと、この甘いもので厳しい労働の合間の休息を繋いでいたのじゃろうな……)
(このクリップの歪みは、書類を留めるためではなく、子供が退屈しのぎに指先で弄んだ痕跡じゃ。左右非対称な曲がり方は、持ち主が右利きであり、かつ、不安を感じている時にこれを指でなぞっていたことを示しておる。この教室の誰かが、授業の退屈さや、あるいは家庭の不和を、この小さな金属片にぶつけていたのじゃな……)
モノが語る沈黙の物語だけが、彼女の孤独を埋めてくれた。
人間と会話をすれば、返ってくるのは虚飾に満ちた賛辞か、怯えの混じった沈黙だけだ。だが、モノは嘘をつかない。ただそこに在るという事実だけで、自分たちが辿ってきた泥臭い歴史を、彼女の鋭い鑑定眼の前にさらけ出してくれる。
瑠璃にとって、学園の敷地は巨大な『情報の墓場』であり、同時に『真実の展示場』でもあった。
植え込みの奥に見つけた、片方だけ剥がれたスニーカーのロゴ。それは、誰かがここで全力で駆け抜け、何かから逃げようとした証拠。
校舎の壁の死角に残された、小さな落書きの跡。それは、完璧さを強いるこの学園に対する、名もなき生徒のささやかな反逆のルーツ。
瑠璃は、それらの『ゴミ』を一つ拾うたびに、世界との繋がりを取り戻していくような感覚を覚えた。
『不純物を観察する変な子』。
それが、入学して数週間のうちに学園内で定着した如月瑠璃の評価だった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るたび、瑠璃は拾い上げた不純物を元の場所へ、あるいは自分だけの『鑑定ノート』に記録するために大切に仕舞い、再びあの無菌室のような教室へと戻っていく。
そこには自分の席があり、名前を呼ぶ教師がいる。けれど、瑠璃の心はいつも、中庭の湿った土の上や、錆びついた手すりの下に残してきた『不純物の物語』と共にあった。
六歳の瑠璃にとって、世界はあまりにも清潔で、あまりにも孤独だった。
彼女は、自分が生涯、この完璧に整えられた檻の中で、モノの亡霊たちとだけ対話して生きていくのだろうと、どこか諦めに似た悟りさえ抱いていた。
本邸に帰れば、完璧な『如月』を演じ、学校に行けば『奇妙な令嬢』を演じる。
その隙間に、本当の如月瑠璃を理解してくれる人間など、この広い月見坂のどこにも存在しないのだと。
深夜の、静まり返ったベッドの上。
瑠璃は深い紫色のシルクに包まれた自らの膝に顔を埋め、当時の自分が感じていた、あの冷たく、硬い『孤独の重み』を思い出していた。
まだ誰も隣におらず、ただ独りで世界の綻びを数えていた、あの春の日々。
追憶の熱に浮かされながら、彼女は静かに、記憶のさらに深い場所へと沈んでいく。
まだ『彼女』が現れる前の、ただ不純物だけが友であった、静かな、静かな六歳の記憶の中へ。
月の光が、彼女のネグリジェの裾を青白く照らし出し、追憶の海を漂う一艘の小舟のように見せていた。




