第1話『令嬢のルーツと、極上の不純物』 ~Section 9:老婆の死と、泣かない少女~
山内かえでが静かにその生涯を閉じたのは、月見坂市にその年初めての本格的な雪が舞い落ちた、ひどく冷え込んだ夜のことだった。
翌朝、旧市街の片隅にある彼女の古い家屋の周りには、新市街の整然とした除雪システムから見捨てられた、重たく湿った雪が膝の高さまで降り積もっていた。近所の住人たちが数人、凍える手で雪を掻き分け、慎ましやかな、しかし真心に満ちた葬儀の準備が始められた。
新市街であれば、如月グループが運営する壮麗なセレモニーホールで、AIが生成した完璧な追悼映像が流れ、数千人の参列者が空調の効いた室内で形式的な涙を流すだろう。だが、ここ旧市街の、隙間風の吹く寺院での葬儀は、安価な線香の濁った香りと、使い古された仏具が擦れる鈍い音、そして人々の低い、湿り気を帯びた話し声が混じり合う、どこまでも泥臭く、しかし確かな人間の体温が宿った『不純物』に満ちた場であった。
如月本邸の自室で、その訃報を黒田から聞かされた時、瑠璃は分厚い革装の哲学書を膝に乗せ、窓の外に積もりゆく雪をじっと見つめていた。
黒田は、自分がこの事実を伝えることで、五歳の少女がどれほど激しく泣き崩れ、子供らしい叫びを上げて取り乱すだろうかと、数日前から食事が一切喉を通らないほどに胃を痛めていた。彼にとって、瑠璃は守るべき主君であると同時に、あまりにも危うく、あまりにも聡明すぎる『一人の子供』であったからだ。
だが、瑠璃の反応は、黒田の予想を遥かに超える、異様なまでの静寂であった。
「……そう。おばあちゃん、旅に出たんだね」
瑠璃はただ一言そう呟くと、膝の上の本を、重厚な音を立ててパタンと閉じた。
椅子から立ち上がった彼女の瞳には、子供らしい動揺も、世界が崩壊する瞬間の怯えも見当たらない。あるのは、ただ静かに、雪のように積もっていく決意の気配だけだった。
彼女は、黒田に『最後の脱走』の手引きを命じた。如月コンツェルンの次女が、旧市街の身寄りのない老婆の葬儀に参列するなど、彰や菫が許すはずがない。それは「如月」という完璧な血統に、説明のつかない不純な履歴を刻む行為だからだ。だが、瑠璃の放つ、もはや五歳児のそれとは到底思えないような、峻烈で、かつ静謐なオーラに圧倒された黒田は、ただ「御意」とだけ答え、再び最愛のお嬢様のために、一族の監視網を掻い潜るための極秘ルートを確保しに走ったのである。
数時間後。瑠璃は、旧市街の小さな寺院の片隅に立っていた。
喪服代わりとして選んだのは、黒田に内密に用意させた、飾り気のない深い紺色のコートだった。如月家のお嬢様としてではなく、山内かえでの唯一の『弟子』として、彼女はその場に立っていた。
寺院内には、かえでと生前交流のあった商店街の馴染み客や、かつて彼女にガラクタを譲った老人たちが集まり、鼻をすすりながら、遺影に手を合わせていた。
白黒の遺影の中のかえでは、瑠璃が初めて出会った時と同じように、顔中に深いシワを刻んで穏やかに微笑んでいる。彼女の目は白く濁り、何も見えていなかったはずだが、その写真は不思議と、世界のあらゆる真実を優しく見守り、許しているかのように瑠璃の目には映った。
「ああ、かわいそうに。あんなにいいおばあちゃんだったのに……」
「一人で寂しく逝っちまって。もっと頻繁に顔を出してやればよかった……」
周囲の大人たちは、自分たちの後悔や慈悲の情を隠そうともせず、言葉にしては涙を流していた。彼らにとって、涙を流すことは、死者への礼儀であり、自分たちの善性を確認するための儀式でもある。
だが、その喧騒と嘆きの中、五歳の瑠璃だけは、一滴の涙も流さず、ただ真っ直ぐに、吸い込まれるようなアメジスト色の瞳で遺影を見つめ続けていた。
瑠璃の胸の奥は、今にも張り裂けそうなほどに熱く、それでいて凍りつくように痛かった。
喉の奥には、酸っぱい塊がせり上がってきて、呼吸をするたびに鋭い針で刺されるような感覚がある。五歳の子供にとって、自分という存在を丸ごと肯定してくれた唯一の理解者を失うことは、足元の大地が消滅するに等しい恐怖だ。
ここで声を上げて泣き、子供らしい無垢な悲しみをさらけ出せば、周囲の大人たちは『なんて可哀想な子だろう』と自分を抱きしめ、慰めてくれるだろう。それはひどく安直で、容易な、温かい自己救済だ。
しかし、瑠璃はその『子供としての特権』を、自らの意志で拒絶した。
もし、ここで『子供』として泣いてしまえば。
自分がかえでから教わった『ルーツ』や『不純物』という言葉の意味さえも、ただの『死別という悲劇』という退屈な物語に飲み込まれ、薄まってしまう気がしたのだ。
(おばあちゃんは……死んでいない。物語が終わっただけだ。……物語には、続きが必要なの)
瑠璃は遺影を見つめながら、必死に自分に言い聞かせた。
かつての姉、翡翠が流していた、他人を操るための安っぽい嘘泣き。あんな下等なものと一緒になりたくない。あんな形で、自分の中にあるかえでの記憶という極上の不純物を、単なる『悲しみ』として消費して、外へ垂れ流してしまいたくない。
瑠璃は、目を閉じて、かえでの話し方を心の中で再生した。
『ほっほっほ。瑠璃ちゃんは鋭いのう』
『年寄りなんて、みんなこんな話し方をするもんじゃよ』
あのアナログな、古い振り子時計の音のように温かく、しかし揺るぎない重みのある響き。新市街の洗練された人々が誰一人として使わない、まるで異世界の魔法使いが唱える呪文のような、あの言葉。
瑠璃は、自らの内に、あるひとつの『鑑定結果』を導き出した。
山内かえでという最高級の『ルーツ』を永遠に保存するためには、彼女の言葉を、彼女の魂の形を、自分という器に移し替えなければならない。
そうでなければ、おばあちゃんはこのまま、新市街の冷たい雪の下で、誰からも忘れられた『価値のないガラクタ』として葬り去られてしまう。
(わしは……泣かない。泣いてしまったら、おばあちゃんとの時間は終わってしまう。……おばあちゃんの言葉を、わしの言葉にする。……それが、わしができる唯一の『鑑定』なんだ)
焼香の順番が回ってきた。
瑠璃は一歩、一歩、雪に濡れた床を踏みしめるようにして、祭壇の前へと進み出た。
線香の、あの独特の煙たい香りが鼻腔を突く。
彼女は深々と頭を下げ、祭壇の前で唇を、誰にも見えないほどわずかに、しかし激しく震わせた。
「……さよなら。おばあちゃん」
まだ、その声は五歳の少女のままだった。
しかし、焼香を終え、寺院の外へ出て、降り頻る雪の中に一人で立った時。
あまりの喪失の大きさに、瑠璃の膝が微かに震え、心臓の奥が耐え難い冷気に包まれていくのを感じた時。
彼女は、自分の中に眠るかえでの記憶を、まるで古いオルゴールの錆びついたネジを無理やり巻くようにして、必死に、必死に呼び覚まそうとした。
悲しみが、涙として溢れそうになる。
その涙を、瑠璃は奥歯を噛み締めて押し戻した。その代わりに、喉の奥にある熱い塊を、かつて聞いたあの優しい老婆の響きへと変換しようと試みた。
それは、自分自身をかえでの「ルーツ」という強烈な不純物で染め上げるための、五歳の少女なりの、血の滲むような、痛々しいまでの抵抗だった。
「お嬢様……お加減は……。さあ、早く車へ。お体が冷えてしまいます」
門前で待機していた黒田が、震える声で尋ねた。
彼の瞳には、主人の娘への、いたたまれないほどの同情の色が浮かんでいる。
瑠璃は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、彼女の中で何かがカチリと、金属的な音を立ててはまった。
悲しみを『悲劇』として処理し、涙で流し去るのではない。悲しみを『歴史』として自らの血肉に変え、自らを再定義するための、不可逆な変容。
「……黒田」
口を開いた時、瑠璃は自分でも驚いた。
自分の声の中に、自分以外の誰かの、もっと深くて古い響きが混ざり合っている。
「……わしは、もう大丈夫じゃ」
その『わし』という一人称が、その『じゃ』という語尾が、彼女の喉を通った瞬間。
まるで、かえでのしわくちゃの手が自分の喉を優しく撫で、その魂の欠片を半分分け与えてくれたような、奇妙で、しかし絶対的な安心感が瑠璃の全身を包み込んだ。
黒田は、目を見開いて絶句した。
お嬢様が何を口走ったのか、一瞬、自分の耳を疑った。だが、その声の響きに含まれる、五歳児のそれとは到底思えないような、深淵で、どこか懐かしく、そして峻烈な『賢者の気配』に、彼は本能的な畏怖を感じて言葉を失った。
「わ、わし……? お嬢様、一体……何を……」
「……おばあちゃんが、言っておったんじゃよ。愛情というのは、時として泥臭くて、騒がしいもんじゃとな。……今の黒田の顔、まさにおばあちゃんの言った通りじゃ」
瑠璃は、自らの口から溢れ出したその言葉の感触を、ひとつひとつ慈しむように確かめながら続けた。
不自然だろうか。滑稽だろうか。
そんなことは、今の彼女にはどうでもよかった。この歪な、しかし強固な言葉遣いこそが、自分の中に山内かえでという人間を永遠に生き続けさせるための、たったひとつの『鑑定書』なのだから。
瑠璃は、真っ白な雪が降り積もり、すべてを隠蔽しようとする旧市街の路地を見つめた。
涙は、ついに一滴も出なかった。その代わりに、彼女の心は、かつてないほどに静かで、そして冷徹なまでの情熱に満たされていた。
自分はもう、如月コンツェルンの『次女』というだけの、守られるべき部品ではない。
不純物の中に愛しさを見出し、モノの沈黙の叫びを聴き取るための、世界でたった一人の正当なる後継者なのだ。
「帰るぞ、黒田。……パパたちの待つ、あの完璧で、清潔で、退屈な檻へな。……わしには、やらねばならんことが山ほどある。……これからは、わしがモノのルーツを裁定するのじゃ」
瑠璃は、黒塗りの最高級SUVのドアへと歩み出した。
その背中は、雪の降る暗闇の中で、誰よりも気高く、そして何よりも重厚な、一世紀分もの『ルーツ』を背負っているかのように見えた。
一滴の涙も流さなかったその少女の胸の奥では、かえでから受け継いだ『魔法の言葉』が、古い振り子時計のように、力強く、そして永遠の刻を刻み始めていた。
山内かえでの死。それは、単なる一人の老婆の終わりではなかった。
それは、月見坂市という巨大な管理社会の真っ只中で、不純物の真理を暴き続ける絶対的な鑑定士、如月瑠璃の『物語のルーツ』が、完璧なる完成を見た瞬間だったのである。




