プロローグ:穏やかな図書室と、美しき過去
放課後の旧校舎。
その最奥にひっそりと佇む図書室は、今日も微かなカビと古い紙の匂いに満たされていた。
傾きかけた西日が、埃を被った窓枠を切り取ってセピア色の光の帯を床に落としている。その光の中を、細かな塵がゆっくりとダンスするように舞っていた。開け放たれた窓からは、グラウンドで部活動に励む生徒たちの声が遠く小さく響いてくるだけで、この図書室の中だけが、まるで世界から完全に隔離されてしまったかのような静寂を保っている。
いつもなら、この年季の入った閲覧テーブルの上には、『ありえない場所で見つかった、ありえないモノ』が鎮座しているはずだった。
そして僕、朔光太郎は、目の前に座る絶対君主の理不尽極まりない命令によって、その不純物だらけのガラクタが一体どこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でそこにあったのか……その『ルーツ』を探るために、街中を必死に走り回らされているのがいつもの風景だ。
だが、今日は違った。
分厚い一枚板のテーブルの上には、黄ばんだ洋書が数冊と、どこから持ち込んだのか分からない高級なアンティークのティーカップが二つ、静かに置かれているだけだった。僕たちを厄介な非日常へと引きずり込む奇妙な落とし物は、今日に限ってはどこにも見当たらなかった。
珍しく、そして拍子抜けするほどに穏やかな放課後だった。
僕は指定された対面の席に背筋を伸ばして座りながら、淹れさせられた温かいダージリンティーをちびちびと飲んでいた。手持ち無沙汰になった僕は、カップをソーサーに戻し、ふと顔を上げて目の前で静かに洋書のページを捲っている少女の姿を観察した。
如月瑠璃。
漆黒の美しい髪、透き通るような白い肌、そして吸い込まれそうに深く、すべてを見透かすようなアメジスト色の瞳。一分の隙もなく制服を着こなし、ただ黙って座っているだけで、まるで名画から抜け出してきたかのような圧倒的な美貌を誇る、我が校の絶対君主。
最初こそ、そのあまりの美しさと威圧感に、女性への耐性が皆無な僕はまともに目を合わせることすらできなかった。少しでも近づかれれば心臓が早鐘を打ち、気の利いた言葉一つ返すこともできずに狼狽えるばかりだったのだ。
だが、こうして彼女の気まぐれに付き合わされているうちに、ほんの少しだけ、このヒリヒリとした緊張感にも慣れ始めている自分がいる。もちろん、不用意に近づいて身体的な接触を持とうなどという恐れ多い感情は一ミリも湧かないし、厳格な一定の距離は常に保っている。それでも、こうして向かい合って静かな時間を共有すること自体は、決して苦ではなくなっていた。
「……なんじゃ、サクタロウ。先ほどからわしの顔をジロジロと見て。お主のような凡人の脳髄でも、わしの美しさにようやく気がついたか?」
不意に、ページを捲る手が止まり、洋書の向こうから冷ややかな紫色の瞳が僕を射抜いた。
ビクッと肩が跳ねる。相変わらず、隙というものが全くない。
「い、いえ。そういうわけじゃありません。ただ……今日は本当に何もない、平和な放課後だなと思いまして」
「ふん。平和とは退屈の裏返しじゃ。極上の不純物が持ち込まれぬ毎日は、泥水をすするのと同じくらい反吐が出る」
瑠璃は心底つまらなそうにため息をつき、ティーカップの縁に白手袋をはめた指を添えた。
その仕草はどこまでも洗練されていて優雅なのに、口を開けば『~じゃ』『わし』といった、およそ現代の女子高生とは思えない老人のような言葉遣いが飛び出してくる。
僕は以前からずっと抱いていた、ある根源的な疑問を、この静かな図書室の空気に背中を押されるようにして、ゆっくりと口にしてみた。
「あの……如月さん。少し、お聞きしてもいいですか?」
「許可する。手短に申せ」
「如月さんは、どうしてそんな……昔の人のような、お年寄りのような話し方をするんですか?」
僕が恐る恐る尋ねると、瑠璃はティーカップを持ち上げようとした手をピタリと止めた。
僕は構わず、もう一つの疑問を言葉に乗せた。
「それに……如月さんは、どうして『モノのルーツ』を探ることに、あそこまで執着するようになったんですか?」
ただの好奇心というには、彼女の鑑定はあまりにも鋭く、そして時に苛烈だ。
まるで、モノが辿ってきた歴史や、そこに込められた真の価値を暴き出すこと自体が、彼女自身の存在理由であるかのように思える時がある。大富豪である如月コンツェルンの令嬢として、何不自由なく育てられたはずの彼女が、なぜありえない場所にあるモノに惹かれ、その泥臭いルーツを追い求めるようになったのか。
僕は今まで、色々なモノのルーツを探らされてきたけれど、目の前にいる『如月瑠璃』という少女自身のルーツについては、何一つ知らなかったのだ。
図書室の空気が、ピンと張り詰めた。
不用意な地雷を踏んでしまっただろうか。くだらないことを聞くなと、いつものように冷酷な声で一蹴されることを覚悟して、僕は思わず膝の上の拳を固く握りしめた。
しかし、瑠璃は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに目を細め、窓の外のセピア色の空を見つめた。
「……わしの話し方。そして、極上のルーツを求める理由、か」
ぽつりとこぼれ落ちたその声は、いつものような絶対零度の冷たさはなく、どこか遠い過去の記憶をそっとなぞるような、静かで、不思議な響きを帯びていた。
「サクタロウ。お主は、モノにはすべて、そこに行き着くまでの『血の通った歴史』があるということを知っておるな」
「……はい」
「人間も同じじゃ。このわしの話し方も、わしのこのモノを見る鑑定眼も……ある一人の人間から受け継いだ、決して消えることのない『ルーツ』そのものなのじゃよ」
瑠璃はそう言うと、窓の外から視線を戻し、僕の顔を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、僕が今まで一度も見たことのない、とても深く、そしてほんの少しだけノスタルジックな色が揺らいでいた。
「退屈しのぎじゃ。お主のその鈍感な耳に、わしのルーツという名の極上の不純物を、少しだけ注ぎ込んでやろう」
瑠璃は分厚い洋書をパタンと閉じ、両手の上で静かに指を組んだ。
「あれは、わしがまだ五歳だった頃の話じゃ……」
静かな旧校舎の図書室で、西日がゆっくりと沈んでいく中。
僕の目の前に座る絶対君主の、誰も知らない『始まりの記憶』が、静かに紐解かれようとしていた。




