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06.執事長は見た、公爵邸の真の支配者を



 ヘイリス公爵家の執事長であるセバスチャンは、長年この屋敷に仕えてきた。

 だからこそ、断言できる。

 かつて、この屋敷は「死地」だったと。


 主であるジークフリート・フォン・ヘイリス公爵は、過剰な魔力による不眠症に苦しんでいた。

 その神経は張り詰めた糸のように鋭敏で、わずかな物音すら許されない。

 使用人が皿をカチャリと鳴らせば、部屋ごと氷漬けにされかけたことも一度や二度ではない。

 屋敷の廊下を歩く際、使用人たちは呼吸音すら殺す「隠密歩行」を強いられてきた。

 いつ機嫌を損ね、首が飛ぶか分からない。

 ここは、絶対零度の暴君が支配する、恐怖の城だったのだ。


 ――そう、「かつて」は。


     ◇


 セバスチャンは、廊下の窓から差し込む暖かな陽光を見上げた。


「……平和だ」


 信じられないことに、最近の屋敷は穏やかだった。

 あのピリピリとした殺気は霧散し、使用人たちも笑顔を見せるようになっている。

 原因は明白だ。

 主であるジークフリートの変化である。

 最近の閣下は、肌艶が異常に良い。

 目の下の隈は消え、表情からは険しさが抜け落ちている。

 それどころか、昨日は廊下ですれ違った際、鼻歌交じりに挨拶を返された。

 メイドの一人があまりの衝撃に花瓶を落としたが、閣下は「怪我はないか?」と気遣う余裕すら見せたのだ。


「奇跡だ……」

「聖女様が現れたに違いない……」


 使用人たちの間で、そんな噂が飛び交っている。

 そして皆、その「聖女」の正体を察していた。

 先日、閣下と「白い結婚」をしたはずの奥様、リリアナだ。


 閣下は毎日、必要最低限の仕事をこなし、本宅に帰宅。

 そして定時になると、リリアナ様の住む「離れ」へと猛ダッシュしていく。

 そして翌朝まで帰ってこない。

 離れの中で何が行われているのか。

 どんな高度な魔術、あるいは献身的な愛が、あの暴君を骨抜きにしたのか。

 ……セバスチャンはずっと気になっていた。


 そして今日。

 ついにその「聖域」に足を踏み入れる機会が訪れた。


「……緊急の決裁書類です。こればかりは、今すぐサインを頂かねば」


 セバスチャンは分厚い書類を抱え、緊張した面持ちで離れの前に立った。

 本来なら近づくことすら憚られる場所だ。

 邪魔をすれば、今度こそ氷像にされるかもしれない。

 セバスチャンは喉の奥でごくりと唾を飲み込み、震える手でドアをノックした。


「……しつ、んんっ。失礼いたします、旦那様。緊急の案件にて参りました」


 声が裏返りそうになるのを必死に堪える。

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。

 殺されるかもしれない。

 そんな予感が脳裏をよぎる。


「入れ」


 中から聞こえたのは、リリアナ様の声ではなく、ジークフリート様の声だった。

 しかし、その声にはいつもの覇気がない。

 どこか甘えたような、腑抜けた響きだ。

 セバスチャンは恐る恐るドアを開けた。


「!」


 足を踏み入れた瞬間、セバスチャンは目を見開いた。

 そこは別世界だった。

 気温は春のように暖かく、ほのかに甘い花の香りが漂っている。

 外の騒音は一切遮断され、完全な静寂と平穏が支配していた。

 だが、何よりセバスチャンを驚愕させたのは、その光景だ。


 部屋の中央。

 最高級の布地で作られたであろうフカフカのソファーには、リリアナが優雅に腰掛け、紅茶を啜りながら本を読んでいる。

 そして、その足元。

 毛足の長いラグの上に、我が主であるジークフリートが、腹這いになって寝転がっていた。


「……え?」


 セバスチャンは我が目を疑った。

 国最強の騎士団長が、床に。

 まるで、飼い主に寄り添う大型犬のように。


「……リリー、ここが分からん。計算してくれ」


 ジークフリートは床に書類を広げ、情けない声を上げた。

 彼はリリアナのスカートの裾を握りしめ、上目遣いで妻を見上げている。


「自分でやってください」


 リリアナは本から視線を上げずに、冷たく言い放つ。

 その声には、夫への敬意など微塵もない。

 あるのは、出来の悪いペットを躾ける飼い主の響きだ。


「……すまない」


「あといい加減その体勢やめてください。はっきり言ってきしょいです」


「やだ。ここが一番落ち着く」


 ジークフリートはリリアナの足に頬を擦り付けた。

 完全に甘えきっている。

 あの冷徹無比な「氷の公爵」の姿はどこにもない。

 そこにいるのは、妻という「精神安定剤」に依存しきった、ただの駄目な男だった。


「あ、セバスチャン。ご苦労さまです」


 リリアナがセバスチャンに気づき、微笑んだ。

 その瞬間、ジークフリートがバッと顔を上げ、セバスチャンを睨みつけた。


「……チッ。邪魔が入った」


 一瞬で「氷の公爵」の殺気が戻る。

 だが、リリアナが彼の頭をポンと軽く叩くと、その殺気は霧散した。


「こら。お客様に失礼でしょう。『おすわり』」


「……はい」


 閣下が、縮こまった。

 セバスチャンは戦慄した。

 あの暴れ狂う魔力の化身を、この方は指先一つ、言葉一つで完全に制御している。

 魔法ではない。

 もっと根源的な、魂のレベルでの「支配」だ。


(聖女などという生温かいものではない……)


 セバスチャンは悟った。

 このリリアナという女性こそが、この屋敷における食物連鎖の頂点なのだと。

 猛獣使い。

 いや、猛獣の王を統べる「真の王」だ。


「サインですね。……おいジーク、さっさと書きなさい」


「リリーが書いてくれればいいのに……」


「公文書偽造になります。ほら、ペン」


「……あーん」


「は? 自分で持って」


 ジークフリートは文句を言いながらも、リリアナに渡されたペンで大人しくサインをした。

 セバスチャンは震える手で書類を受け取る。


「あ、ありがとう、ございます……」


「あ、そろそろ夕食の時間ですね。楽しみにしてますわ」


「セバス。私はここ(離れ)で食べるので、二人分運べ」


「か、畏まりました! 直ちに!」


 セバスチャンは九十度の最敬礼をして、逃げるように部屋を辞した。

 廊下に出た瞬間、彼は膝から崩れ落ちそうになった。


「恐ろしい……」


 だが、同時に安堵もした。

 あの方がいれば、もう閣下が暴走して屋敷が凍ることはないだろう。

 手綱は、あの方の手の中にある。

 セバスチャンは居住まいを正し、決意を固めた。

 彼はすぐに使用人たちの詰め所へ戻り、厳重な通達を出した。


「総員、傾聴せよ!

 今後、この屋敷の『真の主』はリリアナ奥様であると心得よ!

 閣下の命令よりも、奥様の言葉を優先せよ!

 奥様の機嫌を損ねれば、閣下の制御が外れ、我々は死ぬ!

 心して仕えるように!」


「「「は、はいっ!」」」


 使用人たちの間に、新たな掟が生まれた瞬間だった。


     ◇


 翌朝。

 リリアナが目覚めると、朝食のグレードが劇的に上がっていた。

 パンは焼き立ての最高級ブリオッシュになり、スープには金粉が浮いている。

 廊下を歩けば、すれ違う使用人たちが、地面に額を擦り付ける勢いで平伏してくるようになった。


「おはようございます! リリアナ様! 今日も素晴らしい朝ですね!」

「お足元にお気をつけください! リリアナ様!」


「? おはよう……?」


 リリアナは首を傾げた。

 なぜ急に待遇が良くなったのか分からない。


(またあのバカ犬が、私の機嫌を取るために、金に物を言わせて圧力をかけたのかしら?)


 まあ、実害はないし、ご飯が美味しいなら文句はない。

 リリアナは気にせず、今日も平和な引きこもりライフを満喫することにした。

 自分が屋敷の「裏ボス」として崇められていることなど、露知らずに。

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― 新着の感想 ―
犬を躾けるのは主人の義務なので頑張って…!! どんな駄犬でも犬ならば割と飼い主の愛を受けられるから頑張れ〜!!犬ならね。
めっちゃ面白い!!テンポも最高!続きがとっても楽しみ!先生!頑張ってください!
調教師リリアナ…旦那の愛が届くことはあるのか?!めちゃくちゃ気になります♡ ラブコメ大好きなので更新楽しみに読ませていただきますー!
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