36.その漢字(想い)は、誰がために
深夜の作業部屋。
リリアナは鬼気迫る表情で、机に向かっていた。
「……違う。『聴』だと、ただ音が大きくなるだけ……」
彼女の目の前には、無数の失敗作(紙くず)と、実験台のブローチが転がっている。
リリアナは魔導ペンを握り、ブローチの裏面に極小の文字を書き込んでいた。
「『解』と『精』を組み合わせる……? いや、これだと精霊を『解体』しかねない。危険すぎる」
彼女が挑んでいるのは、前人未到の『精霊言語翻訳機』の開発だ。
ルナやポチのような「種族特性」を持たない人間でも、精霊の声を聞き取れるようにする。
そのための最適な漢字の組み合わせを模索していた。
「『訳』……『波』……『通』……。くっ、言語野への接続パスが確立しない……!」
ブツブツと呪文のように呟きながら、リリアナはペンを走らせる。
ここ数日、寝る間も惜しんで没頭していた。
ふと、視界の端に茶色い影が差した。
コトッ。
机の上に、大きく分厚い「前足」が置かれた。
ポチだ。
「……ワフン(休め)」
彼はつぶらな瞳でリリアナを見上げ、その極上の肉球を差し出していた。
無言の差し入れだ。
「……ポチ」
リリアナの手が止まる。
彼女は吸い寄せられるように、そのプニプニとした弾力のある黒い肉球に顔を埋めた。
スーハー。
「……んぅ~。最高。あんた、分かってるわね……」
「ワン(せやろ?)」
ポチの肉球には、リリアナ限定の『癒やし効果』がある。
酷使した脳みそが、ふにゃふにゃと溶けていくようだ。
「バウ、ワフ?(しかしボス、なんでそんなに必死なんだ?)」
ポチが首を傾げて鳴いた。
リリアナは肉球の香ばしい匂いを嗅ぎながら、ぼんやりと答えた。
「んー? ……まあ、その、なんだ。そういうのがあれば便利かなって」
「ワンワン(便利? 誰にとって?)」
「そりゃあ……精霊の声が聞こえれば、領内の魔力分布も分かるし、これからの季節、異常気象も予知できるし」
彼女はペンを手に取り、空中に『守』という字を試し書きした。
「そうすれば……ジークが、楽になるかなって」
自然と。
息をするように、その名前が出た。
彼がまた、あの極寒の地で「見えない脅威」に苦労しないように。
少しでも彼の負担が減るように。
「……」
部屋に沈黙が落ちた。
リリアナは数秒後、ハッとして自分の口元を押さえた。
(……え? 私、今なんて……?)
「ワフーン(ヒューヒュー)」
ポチがニヤニヤしながら、からかうように遠吠えをした。
その瞬間、リリアナの顔が一気に沸騰した。
「ぐあー!! 違うー!!」
ガタッ!
彼女は椅子から転げ落ち、床の上をごろんごろんと転がった。
「違うの! 今のなし! これじゃ私が恋愛脳みたいじゃねーか! 健気な妻みたいじゃないのよー!」
頭を抱えて悶えるリリアナ。
漢字の組み合わせには論理的だが、自分の感情の整理は全くついていない。
彼女は自分が「夫のために尽くす妻」になっている事実を認めたくなかった。
「ビッグ・ラバー・ワフン(愛だねぇ、ご馳走さん)」
「うるせえ! どっか行けバカ犬!」
リリアナは真っ赤な顔で、書き損じの紙くずをポチに投げつけた。
ポチはそれを鼻先で器用にキャッチし、「ふふすん」と鼻を鳴らした。
そんな騒ぎの中。
部屋の隅で、静かな嗚咽が漏れていた。
「ぐすっ……おいたわしや……主様……」
ルナだった。
彼女はハンカチを噛み締め、滝のような涙を流していた。
「あのような男のために、そこまで身を粉にして……。主様の愛が深すぎて、私は……私は……」
「いや、だから違うってば! ルナも泣くな!」
「あの男……次会ったら、スネを蹴ってやる……」
「八つ当たりはやめてあげて!?」
深夜の作業部屋に、リリアナの悲痛な叫びが響き渡るのだった。




