31.心の声は、犬の鳴き声(アテレコ)に乗せて
カニ鍋を堪能した後、リリアナは至福のバスタイムを終え、寝室に戻った。
ふかふかのベッドにダイブする。
最高だ。お腹も満たされ、体も温まり、あとは泥のように眠るだけ。
ガチャリ。
ドアが開き、パジャマ姿のジークフリートが入ってきた。
「なーにやってんの」
リリアナは枕に顔を埋めたまま、ジト目で夫を見た。
「いや、寝ようと思ってね。おやすみ、リリー」
ジークフリートは迷いなく、ベッドの脇の床にゴロンと横になった。
薄い毛布を一枚被り、硬い床の上で丸くなる。
これが、この離れにおける彼の定位置だ。
初夜に彼が言い放った『君を愛することはない』という言葉。
リリアナはそれを深く、深く根に持っている。
だから同じベッドになど死んでも入れてやらないし、彼もそれを理解して床で寝ている。いつもの風景だ。
だが。
「…………」
リリアナの胸の中で、何かが「もにゃっ」とした。
北の極寒の地から帰ってきたばかりの夫を、硬くて冷たい床で寝かせる。
いつもなら「ざまぁみろ」で済む話だが、今日はあのカニ剥きのせいか、少しだけ調子が狂う。
(……風邪でも引かれたら、看病がめんどくさいし)
リリアナは盛大な溜息をつくと、のっそりとベッドから這い出した。
ジークフリートの元へ歩み寄る。
眠る夫をよそに、リリアナは無言で床を指差した。
『軟化』
『弾力』
魔法文字が床に吸い込まれる。
カチカチのフローリングが、瞬時に高級低反発マットレスのような質感へと変質した。
さらに、彼が被っている煎餅布団のような薄い毛布にも指を振る。
『保温』
『嵩増し』
ペラペラだった布地が、空気を含んだようにふっくらと膨らみ、極上の羽毛布団並みの温かさを帯びた。
「……あったか……」
ジークフリートは呆気にとられていたが、抗いがたい睡魔と温もりに襲われ、すぐに瞼を落とした。
「リリー……やさしい……むにゃ……」
「ふん」
リリアナは鼻を鳴らし、踵を返して自分のベッドに戻った。
優しくしたわけではない。生活環境の効率化だ。風邪を引かれて咳き込まれたら、うるさくて私が眠れない。それだけだ。
ふと視線を感じた。
ベッドの足元で、ポチがニヤリと笑っていた。
「……なんだよポチ。文句あんの」
「ワフン、ワフン(素直になっちゃえよ、You)」
ポチが鼻を鳴らす。
リリアナには、その鳴き声がなぜか流暢な共通語に聞こえた。
「むかつく犬は外に放り出すわよ」
「ワフフフ(いいじゃねえか、意地張ってないでさ。本当はベッドに入れてやりたいんだろ?)」
「はぁ? 違うし。絶対ないし」
リリアナは冷めた目で一蹴した。
「ワフン(愛してるって言っちゃいなよ。楽になるぜ?)」
「言わないわよ。一生言わない。寝ろ」
リリアナはポチに向かって枕を投げつけた。
ポチはひらりとそれを躱し、「やれやれ」と丸くなって目を閉じた。
(……って、違うわね)
リリアナは冷静に思考した。
ポチはただ「ワフン」と鳴いただけだ。
その意味を勝手に翻訳したのは、他ならぬリリアナ自身である。
(つまり今の言葉は……私の、心の声……?)
「……馬鹿馬鹿しい」
リリアナは布団を頭から被った。
自分の深層心理が「デレ」を求めているとしても、表層意識(理性)がそれを許さない。
私が彼に心を許すことなど、天地がひっくり返ってもありえないのだ。
「……うるさい、寝よ」
リリアナは思考を強制終了させ、数秒で深い眠りへと落ちていった。




