02.不眠症の彼が、私の作った安眠グッズを手放せなくなった
それから数日後の深夜。
ジークフリートは、屋敷の廊下を幽鬼のように彷徨っていた。
「うるさい……」
誰もいないはずの廊下で、彼はこめかみを押さえて呻く。
彼が不眠症である理由は、その膨大すぎる魔力にあった。
彼は、常人の数千倍もの魔力を持つ。
魔力には『身体を強化する』という性質があり、彼の場合は五感を過剰に強化してしまっていた。
鋭敏すぎる五感は、彼にとって呪いでしかなかった。
遠くで鳴く虫の声、風が葉を揺らす音、屋敷の使用人が寝返りを打つ音、そして屋敷を取り囲む結界の魔力ノイズ。
それら全てが、大音量の雑音となって脳内に響き渡り、神経をやすりで削られるような苦痛をもたらす。
加えて、彼の美貌と地位を狙う貴族令嬢たちが、毎日のように屋敷の周囲を徘徊し、熱っぽい視線(魔力)を送ってくる。
気が休まる暇など、一秒たりともなかった。
(眠りたい……静かな場所で、泥のように……)
限界に近い意識で歩いていると、ふと、奇妙な感覚に襲われた。
庭の奥にある「離れ」。
その周囲だけ、音が消えていたのだ。
まるでそこだけ世界から切り離されたような、完全な静寂。
「あそこは、彼女の」
数日前に追い払った妻、リリアナの住処だ。
ジークフリートは魔に魅入られたように、離れの窓へと近づいた。
鍵は掛かっていない。
彼は音もなく窓を開け、中へと滑り込んだ。
「ッ!?」
足を踏み入れた瞬間、ジークフリートは目を見開いた。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
脳を突き刺していたノイズが、嘘のように消え失せた。
空気は清浄で、ほのかに甘い香りがする。
(なんだ、この空間は。結界か? いや、もっと高位の……)
思考する余裕すらなく、強烈な睡魔が襲ってきた。
ふらつく足で、部屋の中央にあった一人掛けのソファーに倒れ込む。
「にゃあ」
幻聴だろうか。
背中を預けた瞬間、ソファーから猫の鳴き声が聞こえ、じんわりとした温かさが全身を包み込んだ。
さらに、微かな振動――ゴロゴロと喉を鳴らすようなリズムが、凝り固まった背中の筋肉を優しく解していく。
まるで陽だまりの中にいるような、絶対的な安心感。
ジークフリートの意識は、抵抗する間もなくプツリと途切れた。
◇
「あの、閣下? もしもし? 生きてます?」
翌朝。
リリアナは、自分の部屋のソファーで死体のように転がっている夫を発見した。
死んでいるのかと思ったが、規則正しい寝息が聞こえる。
試しに、湧き水が出るポット(付与:『氷』)からキンキンに冷えた水を汲み、コップの結露を彼の頬に垂らしてみた。
「ッ!?」
ジークフリートがガバッと跳ね起きた。
彼は目を白黒させ、周囲を見回し、そして自分の手を見た。
「朝……? 私が、朝まで一度も起きずに……?」
その顔を見て、リリアナは目を丸くした。
初対面の時にあった濃い隈が消え、肌はツヤツヤと輝いている。
氷の彫像のようだった表情が緩み、なんだか年相応の青年のように見えた。
「おはようございます、閣下。不法侵入ですよ」
「リリアナ、か」
ジークフリートは呆然とソファーを撫でた。
付与された『猫』の効果で、ソファーはゴロゴロと喉を鳴らしている。
「このソファーはなんだ。生きているのか」
「私のあー……実家の秘伝です」
リリアナは適当に嘘をついた。
漢字のことなど説明しても理解されないだろう。
「座ると猫が膝に乗っているような幸福感と温かさを提供します。癒やし効果抜群ですよ」
「素晴らしい。これを売ってくれ。金ならいくらでも出す」
ジークフリートが、縋るようにソファーにしがみついた。
その姿は、お気に入りの玩具を取り上げられそうになった子供のようだ。
「お断りします。私の安眠グッズです。閣下には最高級の寝室があるじゃないですか」
リリアナが即答すると、ジークフリートは絶望したような顔をした。
そして、潤んだ瞳でリリアナを見つめた。
「なら、今夜もここに来ていいか」
「は? 嫌ですよ。狭いですし」
「頼む。あっちの寝室じゃ、息ができないんだ。君のこの部屋だけが、私にとっての聖域なんだ……!」
「愛することはないって言ったの、誰でしたっけ?」
「言葉の綾だ。忘れてくれ」
国最強の騎士団長が、なりふり構わず懇願している。
リリアナは大きなため息をついた。
追い出してもいいが、また不眠症でピリピリされたら、安眠ライフに支障が出るかもしれない。
「ソファーなら、貸してあげます。ただし、私が寝る時間は静かにしてくださいね」
「感謝する……」




