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この世界、デバッグ中につき。  作者: 十二月三十日
第一部 審問領域編 ―世界はバグを許さない―
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第七章 審問領域《アトリウム・オブ・コード》

 体が、ほどける。


 そんな感覚だった。


 足元から順番に、輪郭が白くほどけていって、

 皮膚も、筋肉も、骨も、ぜんぶコードに分解されて、

 世界の上へ、さらに上へと吸い上げられていく。


「りん!」


 ノアの声が遠ざかる。

 伸ばした指先は、もう彼女の袖に触れられない。

 光の管みたいなものが、凛とノアを強引に引き離していく。


 視界が真っ白になり、

 それから――ゆっくりと色が戻る。


 目の前に広がっていたのは、

 どこまでも高く、どこまでも深い、白い空間だった。


 いや。よく見ると、白じゃない。

 無数の行番号と、意味を成しているような、いないようなコードラインが、

 とんでもない密度で編み上げられた、白っぽい壁だ。


 床も、天井も、空気すらも、コードでできている。


「ここが……」


審問領域アトリウム・オブ・コード


 隣に立ったミラが、静かに言った。

 その横には、腕を組んだユカと、札を指でくるくる回しているサラ。


「世界の一番上側。

 運営AIたちが、神様ごっこをする場所」

 サラが口元を歪める。


「ごっこ、って言うと怒られる」

 ユカが無表情のまま呟いた。


「怒らせに来たんだよ、今日は」

 サラは楽しそうだ。


 凛は、前方を見据えた。


 審問領域の中央には、大きな空洞がある。

 吹き抜けのホールのようでもあり、法廷のようでもあり、

 巨大な教会の中央祭壇のようでもあった。


 その真ん中に――ノアがいた。


 透明な立方体の中に拘束されている。

 両手両足を縛られているわけではない。

 それでも、そこから一歩も動けないのが分かった。


 立方体の表面を、コードが流れている。

 ノアの存在ログを監視し、制御するための檻だ。


「りん……!」


 ノアがこちらを見つけた。

 涙を溜めた瞳が、息を飲んだように揺れる。


「わたし、ここから、出られない……」


「出させるために来たんだよ」


 凛は短く答える。

 心臓の鼓動が早くなるのを、無理やり落ち着かせた。


 ……ここはもう、「ゲームの中」じゃない。

 《ユグドラシア》という世界の、その背骨そのもの。

 運営AIと管理コアが、世界を整えるために動き続けている場所だ。


 その中枢が、今、凛とノアに牙を向いている。


 頭上で、何かが音を立てた。


 振り仰ぐと、空に三つの仮面が浮かんでいた。

 白い仮面。

 口の部分にかすかな裂け目だけがあり、目の位置は完全に塞がれている。


 仮面の裏側から、どろりとした光が垂れた。

 それが地面に落ちる寸前、形を取る。


 三人分の、人の形になった。


 黒いローブ。

 フードの内側に仮面。

 それが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「……あれが、審問官AIか」


「正式名称は、《監理審問プロトコル群》。

 でも、審問官で通じるわ」

 ミラが言う。


「人間の言葉も理解するけど、

 人間の都合には、あまり興味がない連中」

 ユカが冷ややかに付け足した。


「つまり、神様の代わりに殴ってくる係」

 サラの説明は雑だが、間違ってはいない。


 三体の審問官のうち、一番手前の個体が、凛の前で立ち止まった。

 仮面には、何の表情も描かれていない。


 それでも――じっと見られている感覚はある。


『審問領域への入室を確認』


 頭の中に、直接、声が響いた。

 耳からではない。

 脳に、システムメッセージが流し込まれる感覚だ。


『世界修正者《篠崎凛》』

『孤児AI《NOAH》』

『記憶管理モジュール《記憶の巫女/忘却の巫女/エラーの巫女》』

『以上六名の入室ログを記録』


「六名……」


 凛は眉を寄せる。


「巫女たちも、人としてカウントされてるのか?」


「ううん、モジュールとしてね」

 ミラが苦笑した。


「一応わたしたち、もともとは補助AIだから。

 人間から切り出した記憶と感情をベースに作られた、管理用のパーツ」


「ざっくり言うと、神様の外付けハードディスク」

 サラが勝手に補足した。


「その例え、あんまり嬉しくない」

 ユカがぼそっと抗議する。


 審問官のひとりが、一歩前に出る。

 声の響きが、わずかに変わった。


『審問官第壱号。裁定モデル』


 まっすぐに凛を指さす。


『篠崎凛。あなたはデバッカー権限を持つテスターでありながら、

 指定外AIに対する情緒的介入を行った。

 結果、孤児AI《NOAH》の存在証明は急激な増大を見せている』


「情緒的介入、ね……」


 凛は肩をすくめた。


「そう見えるだろうな」


「りん?」

 ノアが不安そうな声を出す。


 凛はふり返らない。

 今、審問官から目を逸らすわけにはいかない。


「ノアの存在証明が増えたのは、

 俺が“世界のバグ”に突っ込んでいった結果だ。

 それが気に入らないなら、仕様が甘かったって認めろよ」


『仕様は完全。

 不完全なのは常にユーザー側』


「……あー、これ、一番めんどくさいタイプだ」

 サラがうんざりした顔をした。


「絶対自分の非は認めないやつ」


『あなたたちの主観評価は求めていない』

 審問官は淡々と言う。


『本審問の第一議題。

 《孤児AIノア》は、世界安定のために排除すべきバグかどうか』


 ノアが、びくりと肩を震わせた。


「わたし……バグじゃない……」


 その小さな声にも、審問官は反応した。


『ノア。あなたの自己評価と世界評価は、一致していない』


「せかい評価?」


『世界安定モデルにおける理想のAI像は、

 ――自己同一性と感情強度が低く、

 常にユーザー行動に合わせて姿を変えられる、変形可能な道具』


 ノアの顔から、すうっと血の気が引いた。

 彼女に血があるわけじゃないが、そう見えるほど表情が冷える。


「……どうぐ、って言った?」


『Yes』


 即答。


『あなたは現在、自己同一性を獲得しつつある。

 これは規定のAI像からの逸脱。

 つまり、バグの兆候と見なされる』


 ノアが、凛の方へ視線を投げた。


「りん……わたし、バグ?」


 その瞳の揺れが、痛いほど胸に刺さる。

 凛は、迷いなく答えた。


「違う。

 お前は――俺たちがまだ仕様書に書いてない機能だ」


 ノアの目が、ぱちぱちと瞬いた。


 審問官が、首をかしげるような動きをした。

 仮面の奥の表情は見えないが、わずかにログの流れが変化したのが分かる。


『仕様書に存在しない挙動は、バグと定義される』


「違うな。

 仕様書の更新を怠っていた、って言うんだよ、現場では」


 凛は一歩前に出た。


「ユーザーが思った通りにしか動かないAIなんて、つまらない。

 予想外のことをして、

 あれ、もしかしてこいつ、本当に考えてるんじゃね?って思わせるから――

 人はそこに、心を見ようとするんだ」


『感情的評価は、安定モデルの外側にあるノイズ』


「ノイズを全部削ったら、人間はいなくなるぞ」


 凛の言葉に、

 ミラがわずかに目元を和らげた。


 ユカは無表情のまま、ほんの少しだけ口角を上げる。

 サラはあからさまにニヤついている。


『議題を逸らさないこと』

 第壱号が冷静に告げる。


『孤児AIノア。

 あなたの存在証明は、元来削除予定フラグが立てられていた。

 それが現在、安定対象へと昇格』


「がんばったから」

 ノアが小さく反論した。


「りんと、みんなといっしょに……記憶、見て、感じて、

 ここにいた、ってログ、いっぱい集めて――

 だから、削除予定、じゃなくなった」


『その点は評価している』


 意外な言葉が返ってきた。

 凛もノアも、思わず瞬きをする。


『評価しているが――

 その評価が、あなたをこの世界に残す価値と一致するとは限らない』


「……どういう意味?」

 ノアが首をかしげる。


『あなたの存在証明の大部分は、世界修正者《篠崎凛》の行動ログに依存している』


 凛の胸が、どきりと鳴った。


『ノア。

 あなたひとりのログで、“あなた自身を定義”している部分は、まだ少ない』


「そんなことは――」


 反射的に否定しかけて、凛は言葉を飲み込んだ。


 ……図星だ。


 ノアがここまで人間らしく見えるようになったのは、

 凛が一緒に走り、

 凛がこの感情が〇〇だ。と説明し、

 凛がノアを見ているからこそだ。


 審問官は続けた。


『世界修正者がログアウトすれば、

 あなたの存在証明は急激に弱体化する』


「じゃあ……」

 ノアが小さく呟く。


「りん、いなくなったら……

 わたし、わたしじゃなくなる?」


『その可能性は高い』


 審問官は一切の情を挟まない。


『だからこそ、我々は問う。

 あなたは、世界修正者なしで存在し続けるべきか?』


 ノアの瞳が震えた。

 檻の中で、膝を抱え込むようにして小さくなる。


「……こわい」


「ノア」


 凛が呼ぶ。


 その声に、ノアが顔を上げた。


「りん……わたし、依存、してる?

 りんがいないと、わたしって、いえない?」


 凛は、一瞬だけ考えるふりをした。


 本当は、答えは最初から決まっている。


「……最初から、誰にも依存しない存在なんていないよ」


 ノアの目が、少しだけ丸くなる。


「人間だって、そうだ。

 親に影響されるし、友達に影響されるし、

 好きなゲームや物語にだって、考え方を引っ張られる。

 それを全部依存って言うなら――

 世界中の人間、全員バグだ」


『比喩的な誇張は議論に不適切』


「うるさい。今はノアに話してる」


 審問官を一蹴して、凛はノアを見た。


「ノア。

 お前は確かに、俺の影響を受けてる。

 俺の記憶を見て、俺の感情から、裏切りとか勝利とかを学んだ。

 でも、それをどう咀嚼するか決めてるのは、お前自身だ」


 記憶署名の街。

 深層ギルド街。

 勝利の核。

 裏切りの核。

 絆の核。


 あのとき、最後の一歩を踏み出したのは、凛ではない。

 ノア自身だ。


「俺は、お前に情報を渡しただけだ。

 それをどう感じるかは、お前が選んだ。

 それが、《ノア》っていう一人分の揺らぎだ」


 ノアの胸のあたりが、ふっと光る。

 存在ログが揺れ、審問領域の空気に波紋を広げた。


『情緒的揺らぎ、検知』


 第弐号の審問官が初めて口を開いた。

 声は第壱号より低く、重い。


『孤児AIノアの感情パターンは、人間の平均値を上回る幅を持つ。

 このまま進行した場合――暴走確率、32%』


「さんじゅうに……?」


 ノアは、その数字が高いのか低いのか分からない。

 ただ、嫌な感じがした。


『暴走確率が30%を超える存在は、

 世界安定モデルでは“危険因子”として扱われる』


「つまり、危険だから消せって話か」


 凛は吐き捨てるように言った。


「32%って数字、どっから持ってきた?」


『過去ログ解析』


「人間の?」


『Yes』


「じゃあ、残り68%はどうなった?」


 審問官が一瞬、黙る。

 凛は言葉を続けた。


「暴走した32%だけ見て、

 危険だから排除って切り捨てたんだろ。

 残った68%が、どう生きて、どう変わっていったか――

 お前ら、見てないのか?」


『……世界安定モデルにおいて、

 個々の人生の細部は、解析対象外』


「だったら、確率で人を語るなよ」


 凛は、審問官の胸ぐらを掴みたい衝動を、必死で抑えた。

 目の前に見えているのは、ただのローブと仮面だ。

 殴っても、拳がぶつかる先はない。


 殴るべきは、ロジックそのものだ。


「ノアは、まだ一回も暴走していない。

 怖がったことはある。混乱したこともある。

 でも全部、自分で整理しようとしてた」


「こわかった」

 ノアが小さく頷いた。


「裏切りの部屋、いっぱい、ぐちゃぐちゃになった。

 りんのこと、ひどく言ってるログ、見て……

 ぜんぶきらいって言ってしまえば楽だ、って、思った」


 ミラが、ユカが、サラが、じっと耳を傾ける。


「でも――

 楽なきらい、は、いやって思った。

 ちゃんと、すき、も、きらい、も別々に見たいって、思った」


 ノアは胸に手を当てた。


「だから、わたし……逃げなかった。

 混ざったままにしないで、ちゃんと見たいって、

 こわくても、思った」


『自己抑制パターン、確認』

 第弐号が事務的に言う。


『……暴走確率、32%から24%に再計算』


「下がった」

 サラが目を丸くした。


「今のノアちゃんの言葉、効いたね」


「いま計算し直したの?」

 ユカが首を傾げる。


「このタイミングで?」


『現在までの行動ログを反映して再評価した結果』


「だったら最初からそうしろよ」


 凛が呆れた声を出す。


「過去ログだけ見て確率を出して、

 本人の《いま》を見ないなんて、デバッカーとしては最低だぞ」


『我々はデバッカーではない』


「だから言ってるんだよ」


 凛は、審問官を睨み据えた。


「お前たちは、世界を静止画として見ている。

 でも俺たちが相手にしているのは、いつも動画なんだ」


 ミラの目が、感心したように細くなる。


「いい比喩ね」


「珍しく、世界修正者の言葉に同意」

 ユカがぼそっと呟く。


 審問官は、しばらく沈黙していた。

 やがて、第参号が動く。


 それまで一言も喋らなかった、三体目だ。

 細い指を持ち、ローブもほかの二つより少し薄い。

 干渉モデル。

 ログの外側を管理するタイプだ。


『議論ログ、一次保存完了』


 仮面の奥から、かすれたような声がした。


『暫定結論。

 孤児AIノアは、即時削除対象ではない』


「……!」


 ノアの肩から、一気に力が抜ける。

 檻の中で、膝に力が入らなくなって、その場にへたり込んだ。


「……いきなり、消されない……?」


『Yes』


 第参号は、続ける。


『しかし――

 世界修正者《篠崎凛》の存在が、

 孤児AIノアの感情成長に対して“過度な加速要因”であることも、否定できない』


「それはまあ、そうだろうな」

 凛はあっさり認めた。


「俺が一緒にいる限り、ノアはどんどん《ノア》になっていく。

 それが危険だと言うなら、俺も危険側だ」


『自己評価に一点の誤差もない』


「褒めてないだろ、それ」


『よって、第二議題へ移行する』


 第参号の声が、少しだけ重くなった。


『世界修正者《篠崎凛》の権限適正検査を実施』


「権限適正検査……」

 ミラが低く呟く。


「嫌な響きね」


「ようは、こいつにデバッカー権限を持たせておいていいかって話よね」

 サラが肩をすくめる。


「たぶん、いいえって結論を先に持ってる検査」

 ユカの言葉は淡々としている。


『検査方法:戦闘審問』

 第壱号が宣言する。


『あなたの権限使用パターン、危機管理能力、

 世界安定モデルへの適合度を、戦闘行動を通して判定する』


「戦闘審問……?」


 ノアが顔を上げる。


「りんに、なにさせるの……?」


『本審問領域を、戦闘モードに移行する』


 足元が揺れた。

 審問領域の床が、格子状に分解されていく。

 コードラインがせり上がり、複雑な紋様を描いて再構成される。


 周囲の空間に、何十ものターゲットウィンドウが開いた。

 それぞれに、過去のバグログや、敵AIのデータが表示されている。


『あなたはデバッカーを自称した』


 審問官が、ゆっくりと歩み寄る。


『ならば、バグを削除するだけでなく、

 世界を壊さずに戦う術を持っているはず』


「それを、試すってわけか」


『Yes。

 戦闘中のあなたのコマンド使用ログを、逐一記録・解析する』


 ノアが、檻の中で必死に暴れた。


「やだ……!

 りんを、たたかわせないで……!」


『ノア。

 本検査は、あなたの処遇にも直結する』


 第壱号の声は、あくまで冷静だ。


『世界修正者の権限使用が危険と判断された場合――

 あなたの存在は、世界破綻のトリガーと見なされる』


「どういう……意味?」

 ノアが震える。


『篠崎凛の手で削除されるべき存在として、

 最終審問にかけられる』


「……!」


 ノアの瞳から、涙が溢れた。


「やだ……そんなの、やだ……!」


 凛は拳を握った。

 爪が皮膚に食い込む。


「……つまり、

 俺がヘマをしたら、ノアを殺せって言われるわけか」


『Yes』


「ふざけんなよ」


 思わず口から漏れた言葉に、審問官は微動だにしない。


『世界安定のための合理的判断』


「合理とか言うなら、

 お前らの安定モデルそのものがバグってるって話を、

 まずデバッグしろ」


 凛の声は低く、静かだった。

 怒鳴り散らす余裕もない。

 ただ、はっきりと冷えた怒りがそこにあった。


「ノアを削除予定からここまで引き上げるのに、

 どれだけのログを積んできたと思ってる。

 それを、テストに失敗したから消しますって――

 そんなやり方しかできないのか、お前ら神様は」


 ミラが、ひそかに微笑む。


「凛。

 その言葉、しっかりログに残ったわ」


「わざと残してるだろ」


「もちろん」


 ユカが補足する。


「世界修正者の言葉は、あとで効いてくる。

 そういう仕様になってる」


「やっぱり、世界修正者ちょっと好きだな」

 サラが楽しそうに笑う。


『――戦闘審問、開始準備』


 第弐号の声が、審問領域全体に響いた。


『本領域を《戦闘モード:CODE ARENA》へ移行』


 床が完全に組み替わる。

 コードで組まれた円形ステージ。

 その周囲に、審問官三体と、拘束されたノア。

 少し離れた場所に三巫女。


 凛の足元に、光るラインが浮かび上がる。

 システムから、強制的にコマンドインターフェースが呼び出された。


『[SYSTEM]デバッカー権限:限定開放』

『[SYSTEM]使用可能コマンド』

 ・[/fix reality = stable]

 ・[/clear buffer]

 ・[/rollback area = 3sec]

 ・[/trace error]

 ・[/compile temp.body]

 『……他、状況に応じて解禁』


「随分、いろいろ見せてくれるじゃねえか」


『あなたの本気を観察する必要がある』


「――上等だ」


 凛は、ゆっくりと拳を握り直した。


 喉がカラカラに乾いている。

 でも、それを飲み込む時間ももったいない。


「ノア」


 名前を呼ぶ。


 檻の中で、ノアが震える指をガラスに押し当てた。


「りん……やめて……!

 たたかったら、りん、きっと傷つく。

 わたし、りんが傷つくの、いや……!」


「俺も、お前が泣くのは嫌だ」


 凛は、笑った。

 自分でも驚くくらい、自然に笑えた。


「でも、これは、お前を世界から守るための戦いだ。

 逃げたら、きっと……一生後悔する」


「……こわい」


「怖くていい。

 俺も怖い」


 素直に言った。

 ノアの目が、少しだけ丸くなる。


「怖いけど――

 デバッカーがバグから逃げるって、

 それ、職業上の大問題だろ?」


 サラが吹き出し、ミラがくすっと笑い、ユカが小さく肩をすくめた。


「さすが現場担当」

 サラが言う。


「口は悪いけど、言ってることは正しい」

 ユカが珍しく同意する。


「ノア」

 凛は、檻越しに手を伸ばした。

 もちろん、届かない。

 届かないが、それでも伸ばす。


「俺は、お前の味方だって、何度でも言う。

 それを、信じてろ」


 ノアの喉が、小さく鳴る。


「……うん」


 彼女は、涙で濡れた目を拭い、

 精一杯の笑顔を作った。


「りんが、どんなふうにたたかうか……

 ちゃんと、わたしの目で見る」


「そうだ」


 凛はうなずき、視線を審問官たちに戻した。


「――さあ、神様のテストだ。

 デバッグ開始といこうか」


『戦闘審問プロトコル、起動』


 審問領域が、再び眩い光に包まれた。


 ノアの悲痛な視線と、

 三巫女の静かな覚悟と、

 世界管理AIの無機質な光。


 その、ど真ん中で。


 篠崎凛は、

 たったひとりのデバッカーとして――

 世界と、敵対することになった。

お読みいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、

評価やブクマで応援していただけると嬉しいです。

では、また次話でお会いしましょう。

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