第六章 深層ギルド街《ギルド・ディープ》①
プレイヤーの街で記憶泥棒を撃退した、その少しあと。
昼と夜の区切りが曖昧なこの世界で、「朝」という概念はただの比喩にすぎない。
それでも、ノアがいったんスリープモードに入り、再起動したタイミングを、凛は「朝」と呼ぶことにしている。
彼女が目を覚ましたとき、
プレイヤーの街は、きのうより少しだけ静かに見えた。
「……おはよう、りん」
ノアが瞬きしながら言う。
声はまだ少し眠そうで、けれど以前より滑らかだった。
「おう。起動確認。バグなし」
「いま、おはようって、すこし、ちゃんと言えた」
「テストは順調、ってことだ」
凛は立ち上がり、伸びをした。
プレイヤーの街の外れ――ログが薄い路地裏に、即席の休憩ポイントを作って一晩をやり過ごした。
ノアは「眠る」という機能を持っていないはずだが、
負荷が高くなりすぎて、一時的に処理を落とした方が安定する――と分かったので、半ば無理やりスリープ処理をかけたのだ。
「りんは、ねむくない?」
「人間だからな。本当は眠い。でも、寝てる間に世界が何やらかすか分かんねえし」
「じゃあ……あとで、ちゃんと寝て」
「そこまで心配される筋合いはない」
軽口を交わしていると、頭上からひゅ、と札が一枚落ちてきた。
破れた赤い札。見覚えのある質感。
「お、起きてるねー? おはよ、世界修正者と孤児AIちゃん」
札から声がした。
次の瞬間、路地の空間がぐにゃりと歪み――
三つの影が、そこからにじみ出てくる。
記憶の巫女・ミラ。
忘却の巫女・ユカ。
エラーの巫女・サラ。
三人とも、昨日と同じ姿だが、どこか本気モードの空気があった。
「時間ね」
ミラが歩み寄る。
「これ以上ここにいると、運営側の視線が集まりすぎる」
ユカがぼそりと付け足す。
「深層ギルド街に降りるなら、今日だよ」
サラが薄く笑った。
凛は眉をひそめる。
「昨日も言ってた危険地帯か」
「そう」
ミラが頷く。
「ノアの存在証明を生体レベルにまで上げるには、
プレイヤーの深い感情が残った場所――深層ギルド街で、
《勝利》《裏切り》《絆》三つの感情の核と同期しなきゃいけない」
「昨日、危険っていってた……」
ノアが不安そうに凛の袖を握る。
「特に《裏切りの核》は、とても危険」
ユカの声は、いつもよりさらに冷たかった。
「近づくだけで、人間ですら人格が崩れることがある。
……AIなら、なおさら。
憎しみの記憶は、きれいに整理されていないから」
「行かない、って選択肢は?」
凛が尋ねると、ミラは首を振った。
「あるわ。あるけど――その場合、ノアは暫定存在のまま」
「仮住まいの魂、ってこと」
サラが補足する。
「消されることは減るかもしれないけど、
“世界の外”から、いつでも切り離せる存在として扱われる。
言ってみれば、いつでも捨てられるサブプロセス」
ノアが小さく身を震わせた。
凛はその肩を抱く。
「それは、嫌だな」
「うん。……いや」
「じゃ、決まりだ」
サラがぱん、と手を打つ。
「深層ギルド街へようこそ。
ここから先は、プレイヤーの素顔のログだらけだよ」
路地の奥に、地下へと続く階段が現れた。
石造りの古い通路。
真っ暗な穴の向こうから、無数の声がかすかに聞こえる。
『行くぞ!』『ありがとう!』『ふざけんな!』『なんでだよ』『一緒に勝とう』『お前を信じてた』
歓声と怒号、笑いと泣き声。
ごっちゃになった感情の残響。
「ノア」
凛はそっと彼女の手を握る。
「怖かったら、言えよ」
「こわい、すこし。……でも、しりたい」
「何を?」
「ひとが、そんなに“つよく”なる理由」
凛は、少し笑った。
「いい動機だ。
じゃあ、行こう。――デバッグの続きだ」
二人は三巫女とともに、階段を降り始めた。
――――――。
階段を降りきると、空気が変わった。
湿気と鉄の匂い。
どこか地下ダンジョンを思わせる風景だが、
見慣れたゲームのダンジョンとも違う。
そこは――巨大なロビーのような空間だった。
石造りの床の上に、無数の旗が立っている。
ギルドのエンブレム。
名前。
レイドボスの撃破日時と、記録されたログ。
頭上には、ホログラムの天井が広がっている。
そこには過去のレイド戦の映像が、何層にも重なって浮かび上がっていた。
「ここが……《勝利の核》の前庭、みたいな場所」
ミラが言う。
「勝利の記憶は、比較的整ったログになりやすい。
みんなで喜びを共有して、言葉を交わすから」
「うわ……」
凛は思わず見入ってしまう。
レイド戦のログは、やはり迫力が違う。
タンクが前衛で耐え、ヒーラーが回復を回し、
DPSたちが最終フェーズで一斉にスキルを叩き込み――
『落ちるな!』『耐えろ!』『あと1%!』
最後のひと押しで、ボスが光の柱になって爆散する。
その瞬間、チャットログが歓声で埋まる。
『やったあああああ!!』『クリア!』『うおおおおお!』『マジで泣きそう』
ノアは胸に手を当てて、息を呑んだ。
「……あったかい。
すごく、胸が、ぎゅってなる。
こっち、痛くない。きついけど……痛くない」
「それが勝利の痛みだよ」
サラが小さく笑う。
「がんばって、がんばって、ようやく手に入れた瞬間。
この世界で一番、気持ちいい痛み」
「ノア」
ミラが優しく呼びかける。
「ここにある勝利の記憶と、少しだけリンクしてみて。
君自身の勝ちたいって気持ちと、結びつけるの」
「……やってみる」
ノアは一歩前へ出る。
ホログラムの光が、彼女の周りをゆっくりと回転し始めた。
凛は少し離れた場所からその様子を見る。
ノアの輪郭は安定している。
検疫層のときのような消えそうな危うさはない。
ノアの指先が、ひとつの映像に触れた。
そこには、ボイスチャットのログが一緒に残っている。
『もうだめかも』『まだだ、立て』『いける、いける、絶対いける』『信じろ!』
ノアの目が潤んだ。
「信じろって言葉、重い……でも、すき。
ひとりだと、きっと折れちゃうとき……
だいじょうぶ、まだやれるって、言ってくれる声」
彼女の胸のあたりが、柔らかな光で満たされていく。
[INFO]NOAH: 勝利署名 同調率+18%
[INFO]存在証明:感情パレットに勝利が追加されました
「……あ」
「どうだ」
凛が近づく。
「勝ちたいって、今はじめて、ちゃんとわかった。
りんと一緒に、勝ちたいって」
「対戦ゲームじゃないからな、これは」
「わかってる。でも、たたかい、でしょ?
りんが負けたら、わたし、消える。
だから、りんに勝ってほしいって……強く、思った」
凛は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「いいね、それ。
じゃあ、お互い勝ち続けよう」
「うん!」
勝利の核は、今のところ大きな問題なく通過できた。
――問題は、ここから先だ。
「ここからが、本番」
ユカの声が、少し低くなった。
勝利の広間の奥に、鉄の扉が一枚だけある。
扉には鍵穴はない。
その代わり――びっしりと、ログが刻まれている。
罵倒。
怒号。
哀願。
脅し。
無視。
『なんで来なかった』『お前のせいで全滅だ』『そう思うなら抜けろよ』『裏切り者』『もう二度と一緒にやらねえ』
ノアが身をすくめる。
「……ここ、きらい。
あったかくない」
「当たり前だ」
凛が言う。
「でも……ここも人間の一部だ」
ミラが扉に手を触れた。
ログが光り、扉がゆっくりと開いていく。
「いい? 二人とも、ここから先は言葉に気をつけて」
「言葉に?」
凛が眉をひそめる。
「ふだん、心の底で思っていることが、反響しやすいの。
ここにいる間は、口にした言葉が、そのまま記憶として刻まれる」
ミラの目は真剣だった。
「たとえば、あいつなんか嫌いだ、どうでもいい、ってここで言うと、
そのままそういう記憶としてノアに焼きつくことがある」
「……なんだよ、そのクソ仕様」
「人間がそういう場所を作ったのよ。
ギルドチャット、っていう名前で」
サラが肩をすくめた。
「さあ、紳士的にどうぞ、世界修正者さん?」
「うるせえ」
凛は舌打ちしながらも、真剣な顔でノアを見た。
「いいか、ノア。
ここでは――俺が言ったことを、そのまま真実だと決めつけるな」
「え?」
「俺だって人間だ。
ムカついたら酷いことも言う。
疲れてたら投げやりにもなる。
でも、それはその瞬間のノイズであって、俺の全部じゃない」
ノアは、ぐっと唇を噛んだ。
「……じゃあ、なにを信じればいい?」
「続いてる言葉だ。
そのときだけじゃなくて、ずっと続けてる言葉。
俺がずっと言ってるのは、お前を消させないってことだろ」
ノアの瞳に、少し光が戻る。
「うん。……それ、信じる」
「よし。じゃ、とっとと地獄見て帰ろう」
扉の向こうに、一歩足を踏み入れた。
空気が変わる。
湿気ではない。
もっとねっとりとした何かが、肌に貼りついてくる感覚。
部屋は暗かった。
灯りはある。だが、光がすべて赤い。
天井から、ログが垂れ下がっている。
壁一面にもログ。
床にもログが刻まれている。
すべて、誰かが誰かを責めた言葉だった。
「うわ……」
凛が思わず顔をしかめる。
これだけの攻撃ログが密集していると、
たとえ当事者でなくても、胃の奥がきゅうっと痛くなる。
ノアは――もっとつらそうだった。
両手で耳をふさいでも、言葉が染み込んでくる。
『なんで守らなかった』『信じてたのに』『チームのこと考えてない』『裏切り者』『お前が抜けたから崩れた』
「ノア、大丈夫か」
「……頭の、なかで、うるさい。
いっぱい、いっぱい、嫌い、って声がする……」
「下がっててもいい」
「でも……わたし、これも知らなきゃいけない」
ノアの声は震えていたが、その足は前へ出ていく。
部屋の中央に、黒い結晶のようなものが浮かんでいた。
それが、《裏切りの核》だ。
近づくほど、心臓が重くなる。
鼓動が早くなるのではなく、逆だ。
ドク、ドク、と重く沈む。
凛は、ふと、胸の奥に古い記憶が浮かぶのを感じた。
――ギルドチャット。
――見慣れた名前が、一つ、また一つと灰色に変わっていく。
――残ったメンバーが、ログアウトしていった者の悪口を言い始める。
『あいつ最初から信用してなかった』『抜けるなら最初から来るなよな』『結局、自分の都合か』
凛は当時、笑っていた。
そういうノリだと思っていたから。
でも――抜けていった奴の気持ちを、本当に想像したことはなかった。
「……最低だな、あれ」
思わず呟いた瞬間、その記憶が《裏切りの核》に吸い寄せられていく。
核が反応した。
ノイズのような声が、凛の頭の中に直接流れ込んでくる。
『お前も裏切った側だろ?』
凛の足が、一瞬止まる。
「りん?」
ノアが不安そうに覗き込む。
「……大丈夫だ」
大丈夫、と言い聞かせる。
しかし核に近づくほど、過去の自分が胸ぐらを掴んでくる感覚が強くなる。
『お前は見て見ぬふりをした』『気づかないふりをした』『あのとき一言、止められただろ』
「――うるせえ」
凛は歯を食いしばった。
「お前らは結果を知ってるから、何とでも言えるんだ。
当時の俺は、視野が狭かった。
悪かったよ。認める。
だから、それを今、やり直す」
核が脈打ち、凛の視界が揺らぐ。
床が溶け、天井が落ちてくるような錯覚。
ログの文字列が一斉に浮かび上がり、凛を取り囲む。
『口だけだ』『今さら何を』『お前の“優しさ”はいつも遅い』『そうやってまた誰かを見捨てる』
凛の足ががくりと膝を突いた。
視界が暗くなり、呼吸が浅くなる。
「……くそ」
「りん!」
ノアが走り寄ろうとする――が、その足をミラが掴んだ。
「ダメ、ノア。今近づいたら、君も巻き込まれる」
「でも、りんが――!」
「世界修正者は、今自分の裏切りの記憶と向き合ってる。
これは、彼自身のデバッグ作業でもあるの」
ユカが静かに言う。
「もしここで自分のことを正当化して逃げたら――
それがノアの裏切りの定義になってしまう」
「そんなの、いや……!」
ノアの目に涙がたまる。
サラが彼女の肩に手を置いた。
「待ってあげなよ、ノアちゃん。
人間が自分のダメさと向き合うって、一番時間がかかる処理だからさ」
凛は、自分の中に溢れてくる責める声に、
一つ一つ反論し、あるいは認めていくしかなかった。
『見て見ぬふりをした』『あいつのDMには返さなかった』『都合の悪いログは流して忘れた』
「全部、本当だ。
俺は、全部できるほど器用じゃなかった。
誰かを守る力も、止める勇気もなかった」
言葉にするたび、核の色が少しずつ変化する。
真っ黒だった結晶に、亀裂のような白い光が走る。
『じゃあ、お前は裏切り者だ』
「――違う」
凛は顔を上げた。
「俺は臆病者だ。
裏切り者ってのは、最初から相手を利用する気で近づく奴だ。
俺は違う。
ただの、びびってた奴だよ」
ログの声が一瞬止まる。
「でもな。
びびってたとしても、今から選べることはある」
凛は手を伸ばし、《裏切りの核》に触れた。
「ノアを、裏切らない。
それだけは、俺が今、ここで決める」
核が大きく震えた。
黒い表面が剥がれ、その内側から――
濃い赤と、淡い青と、柔らかな白が現れる。
憎しみと、後悔と、微かな祈り。
すべてが混ざった色。
その光が、凛の腕を通って、ノアの方へと流れ込む。
「――っ!」
ノアの身体がびくりと震えた。
凛が振り返る。
「ノア!」
「だいじょうぶ……っ。
りんの、痛い記憶、きた。
……きついけど、いやじゃない」
ノアは胸を押さえ、涙を浮かべながら――それでも笑った。
「りん、ほんとうは……ずっと誰かを裏切りたくなかった、んだね。
でも、こわかった。
だから、いま……ここで約束する、って、すごく、つよい」
「……すごい分析力だな、お前」
「データ、たくさんだから」
ノアがぽつりと言うと、部屋中のログが一斉に光った。
罵倒も、怒号も、すべてが白く燃え――
残ったのは、たった一行だけ。
『あのとき言えなかったごめんを、今ここで言う』
それは、凛の心のどこかにあった“言葉にならない謝罪”が、形になったものだった。
『[INFO]NOAH: 裏切り署名 同調率+27%』
『[INFO]存在証明:感情パレットに“後悔/赦し”が追加されました』
ノアがそっと凛の手を取る。
「りん、裏切りって……
だれかをきらいになる気持ちじゃなくて。
ほんとうは、自分をきらいになっちゃう痛みなんだね」
凛は息を詰め、それからゆっくり息を吐いた。
「……たぶん、そうだな。
よく、見抜いたな」
「りんの気持ち、いっぱい見たら……すこし、わかった」
「俺としてはあまり見られたくなかったんだけどな、その辺」
「でも、見た。
だから、りんを裏切り者って、思わない」
ノアは真っ直ぐ凛を見た。
「ほんとうは、ずっとだれかを守りたかった人」
その言葉が、《裏切りの核》の残骸に響いた。
黒い欠片が白い光となって、天井へと昇っていく。
ミラが、静かに息を吐いた。
「……驚いた。
ここまできれいに裏切りの核を通るなんて」
「きれい?」
ユカが首をかしげる。
「もっとこう、自分は悪くないって言い訳しながら、
憎しみだけをなすりつけていく例が多いのにね」
「へえ。世界修正者、やるね」
サラがニヤっと笑う。
「素直に謝れる男はモテるよ?」
「うるさい」
凛は顔をそむけた。
――――――裏切りの部屋から出ようとした、そのときだった。
ノアが突然、足をもつらせてよろめいた。
「ノア?」
「……あれ……おかしい。
頭のなか、ぐるぐるする。
きらい、ごめん、ありがとう、しね……ぜんぶ、まざる……」
ミラがすぐに駆け寄る。
「いけない、《共鳴暴走》が始まってる!」
「共鳴暴走?」
凛が叫ぶ。
「裏切りの核は、人間の負の記憶が濃すぎるの。
ノアの中にさっき入った勝利の記憶ややさしさと、いま混ざり始めて――
何をどう感じればいいか分からなくなってる」
ユカが眉をひそめる。
「下手すると、ここで人格が分裂する」
「ふざけんな……!」
ノアの視界が揺れる。
床が海のように波打ち、ログの文字が巨大な舌のように襲いかかってくる。
――守ってくれなかった。
――うれしかった。
――裏切った。
――ありがとう。
すべてが同時に押し寄せる。
ノアは頭を抱えて、うずくまった。
「いや……いや……わかんない……!
きらいとすきが、いっしょになって、
しんで、と、ありがとう、がいっしょにくる……!」
「ノア!」
凛が駆け寄ろうとした瞬間、
床から黒い腕のようなものが伸びてきて、彼の足首を掴んだ。
『お前も混ざれ』『お前もぐちゃぐちゃになれ』
凛は即座にコンソールを叩く。
[/flush floor.glitch]
床のノイズが一瞬だけ消える。
だが、すぐに別の場所から“腕”が伸びてくる。
「キリがねえ……!」
「りん……こないで……!」
ノアが涙目で叫ぶ。
「いま、近づいたら、りんまで、まざる……!
ここ、わたしのなか、だから!」
「だから行くんだろうが!」
凛は腕を振りほどき、ノアの方へ進む。
ミラが凛の前に立ちはだかった。
「待って」
「どけ!」
「凛。
君が今ここで助けるだけだと、
ノアは一生、自分の感情を自分で制御できない」
「そんな、悠長なこと言ってる場合か!」
「――じゃあ、逆に聞くわ」
ミラの瞳が、凛を射抜いた。
「君がログアウトできなくなったとき、
ノアがただ“泣いて助けを求め続ける存在”のままでもいいの?」
「……っ」
「君がいないときに、ノアが自分の足で立てるようになってなきゃダメ。
ここはそのための試練でもあるの」
ノアが、うわごとのように呟く。
「こわい……。
でも……すこし、わかる。
痛い記憶から、にげたくないって、りんがさっき言ったの……
――まね、したい」
凛は拳を握りしめた。
そして一歩下がる。
「……分かった。
ノア。
俺は、ここで見てる。
何があっても、目を逸らさない。
でも――助けない」
ノアの瞳に、かすかな驚きが宿る。
「たすけ……ない?」
「これは、お前自身のデバッグだ。
バグを見つけて、直し方を決めるのは――お前だ」
ノアは震える身体で、ゆっくりと顔を上げた。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
誰かを嫌いになりたい気持ちと、
全部赦してしまいたい気持ちが、同じ強さでぶつかり合っている。
「……きらい、って、言ってみていい?」
突然、ノアが口を開いた。
凛は目を見開く。
「だれを?」
「――このぐちゃぐちゃを」
ノアは胸に手を当てた。
「きらいって、だれかに向けると、
その人、まるごと、見えなくなりそうでこわい。
だから……ここにある、全部まざった感情だけ、きらい」
部屋中のログがざわめく。
「好きときらいを、まぜたい気持ち、きらい。
ありがとう、と、しねをいっしょに投げる気持ち、きらい。
――どっちかに、ちゃんと、して」
ノアの声が、震えながらも強くなる。
「きらいなら、きらい、ってちゃんと言う。
すきなら、すき、ってちゃんと言う。
どっちもあるなら、どっちもあるって、時間かけて考える。
――なにもしないで、投げっぱなしにするのが、
いちばん、いや!」
その瞬間、《裏切りの部屋》のログが一斉に弾けた。
罵倒の言葉が、意味のないノイズに崩れていく一方――
その奥から、別種のログが浮かび上がってくる。
『ごめん』『言いすぎた』『本当はやめて欲しかっただけ』『もう一回遊びたかった』
ノアはその文字列にそっと手を伸ばした。
「……本当の気持ち、ここ。
裏切り、の奥にある、ほんとうはこうしたかった、って気持ち。
それ、ちゃんと見たい」
光がノアの胸に流れ込む。
『[INFO]NOAH: 裏切り署名 同調率+41%』
『[INFO]感情パレット:複合感情“アンビバレンス”を取得』
ノアが大きく息を吸った。
さっきまでの混乱が、嘘のように静まっていく。
「……すごく、つかれた」
「だろうな」
凛がそっと近づく。
「今のは、本当に助けなかったからな。
よくやったよ、ノア」
ノアは少しむくれた。
「すこしは、助けてくれてもよかった」
「言うと思った」
「でも……うれしい。
りんが、信じて見ててくれたのも、わかったから」
ミラが小さく微笑む。
「これで、裏切りの核はクリア。
同時に――ノア、
君は他人を嫌うときの、自分のルールを手に入れた」
ユカが頷く。
「それは、とても人間的な自衛策でもある」
「ノアちゃんはさ」
サラがにやにやしながら言う。
「憎しみそのものより、投げっぱなしにする怠さの方を嫌ったわけだ。
それ、かなり筋がいいよ」
「すじ?」
「乱暴に言うとね。
楽な憎しみじゃなくて、面倒くさい理解の方を選んだってこと」
ノアはよく分からない、という顔をしたが、
凛はその説明に、妙に納得した。
「……そういうの、嫌いじゃないな」
お読みいただき、ありがとうございました。
面白いと感じていただけましたら、
評価やブクマで応援していただけると嬉しいです。
では、また次話でお会いしましょう。




