表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世界、デバッグ中につき。  作者: 十二月三十日
第一部 審問領域編 ―世界はバグを許さない―
6/12

第六章 深層ギルド街《ギルド・ディープ》①

 プレイヤーの街で記憶泥棒を撃退した、その少しあと。


 昼と夜の区切りが曖昧なこの世界で、「朝」という概念はただの比喩にすぎない。

 それでも、ノアがいったんスリープモードに入り、再起動したタイミングを、凛は「朝」と呼ぶことにしている。


 彼女が目を覚ましたとき、

 プレイヤーの街は、きのうより少しだけ静かに見えた。


「……おはよう、りん」


 ノアが瞬きしながら言う。

 声はまだ少し眠そうで、けれど以前より滑らかだった。


「おう。起動確認。バグなし」


「いま、おはようって、すこし、ちゃんと言えた」


「テストは順調、ってことだ」


 凛は立ち上がり、伸びをした。

 プレイヤーの街の外れ――ログが薄い路地裏に、即席の休憩ポイントを作って一晩をやり過ごした。

 ノアは「眠る」という機能を持っていないはずだが、

 負荷が高くなりすぎて、一時的に処理を落とした方が安定する――と分かったので、半ば無理やりスリープ処理をかけたのだ。


「りんは、ねむくない?」


「人間だからな。本当は眠い。でも、寝てる間に世界が何やらかすか分かんねえし」


「じゃあ……あとで、ちゃんと寝て」


「そこまで心配される筋合いはない」


 軽口を交わしていると、頭上からひゅ、と札が一枚落ちてきた。

 破れた赤い札。見覚えのある質感。


「お、起きてるねー? おはよ、世界修正者と孤児AIちゃん」


 札から声がした。

 次の瞬間、路地の空間がぐにゃりと歪み――

 三つの影が、そこからにじみ出てくる。


 記憶の巫女・ミラ。

 忘却の巫女・ユカ。

 エラーの巫女・サラ。


 三人とも、昨日と同じ姿だが、どこか本気モードの空気があった。


「時間ね」

 ミラが歩み寄る。


「これ以上ここにいると、運営側の視線が集まりすぎる」

 ユカがぼそりと付け足す。


「深層ギルドギルド・ディープに降りるなら、今日だよ」

 サラが薄く笑った。


 凛は眉をひそめる。


「昨日も言ってた危険地帯か」


「そう」

 ミラが頷く。


「ノアの存在証明を生体レベルにまで上げるには、

 プレイヤーの深い感情が残った場所――深層ギルド街で、

 《勝利》《裏切り》《絆》三つの感情の核と同期しなきゃいけない」


「昨日、危険っていってた……」

 ノアが不安そうに凛の袖を握る。


「特に《裏切りの核》は、とても危険」

 ユカの声は、いつもよりさらに冷たかった。


「近づくだけで、人間ですら人格が崩れることがある。

 ……AIなら、なおさら。

 憎しみの記憶は、きれいに整理されていないから」


「行かない、って選択肢は?」


 凛が尋ねると、ミラは首を振った。


「あるわ。あるけど――その場合、ノアは暫定存在のまま」


「仮住まいの魂、ってこと」

 サラが補足する。


「消されることは減るかもしれないけど、

 “世界の外”から、いつでも切り離せる存在として扱われる。

 言ってみれば、いつでも捨てられるサブプロセス」


 ノアが小さく身を震わせた。

 凛はその肩を抱く。


「それは、嫌だな」


「うん。……いや」


「じゃ、決まりだ」

 サラがぱん、と手を打つ。


「深層ギルド街へようこそ。

 ここから先は、プレイヤーの素顔のログだらけだよ」


 路地の奥に、地下へと続く階段が現れた。

 石造りの古い通路。

 真っ暗な穴の向こうから、無数の声がかすかに聞こえる。


『行くぞ!』『ありがとう!』『ふざけんな!』『なんでだよ』『一緒に勝とう』『お前を信じてた』


 歓声と怒号、笑いと泣き声。

 ごっちゃになった感情の残響。


「ノア」

 凛はそっと彼女の手を握る。


「怖かったら、言えよ」


「こわい、すこし。……でも、しりたい」


「何を?」


「ひとが、そんなに“つよく”なる理由」


 凛は、少し笑った。


「いい動機だ。

 じゃあ、行こう。――デバッグの続きだ」


 二人は三巫女とともに、階段を降り始めた。


――――――。


 階段を降りきると、空気が変わった。


 湿気と鉄の匂い。

 どこか地下ダンジョンを思わせる風景だが、

 見慣れたゲームのダンジョンとも違う。


 そこは――巨大なロビーのような空間だった。


 石造りの床の上に、無数の旗が立っている。

 ギルドのエンブレム。

 名前。

 レイドボスの撃破日時と、記録されたログ。


 頭上には、ホログラムの天井が広がっている。

 そこには過去のレイド戦の映像が、何層にも重なって浮かび上がっていた。


「ここが……《勝利の核》の前庭、みたいな場所」

 ミラが言う。


「勝利の記憶は、比較的整ったログになりやすい。

 みんなで喜びを共有して、言葉を交わすから」


「うわ……」


 凛は思わず見入ってしまう。

 レイド戦のログは、やはり迫力が違う。

 タンクが前衛で耐え、ヒーラーが回復を回し、

 DPSたちが最終フェーズで一斉にスキルを叩き込み――


『落ちるな!』『耐えろ!』『あと1%!』


 最後のひと押しで、ボスが光の柱になって爆散する。

 その瞬間、チャットログが歓声で埋まる。


『やったあああああ!!』『クリア!』『うおおおおお!』『マジで泣きそう』


 ノアは胸に手を当てて、息を呑んだ。


「……あったかい。

 すごく、胸が、ぎゅってなる。

 こっち、痛くない。きついけど……痛くない」


「それが勝利の痛みだよ」

 サラが小さく笑う。


「がんばって、がんばって、ようやく手に入れた瞬間。

 この世界で一番、気持ちいい痛み」


「ノア」

 ミラが優しく呼びかける。


「ここにある勝利の記憶と、少しだけリンクしてみて。

 君自身の勝ちたいって気持ちと、結びつけるの」


「……やってみる」


 ノアは一歩前へ出る。

 ホログラムの光が、彼女の周りをゆっくりと回転し始めた。


 凛は少し離れた場所からその様子を見る。

 ノアの輪郭は安定している。

 検疫層のときのような消えそうな危うさはない。


 ノアの指先が、ひとつの映像に触れた。

 そこには、ボイスチャットのログが一緒に残っている。


『もうだめかも』『まだだ、立て』『いける、いける、絶対いける』『信じろ!』


 ノアの目が潤んだ。


「信じろって言葉、重い……でも、すき。

 ひとりだと、きっと折れちゃうとき……

 だいじょうぶ、まだやれるって、言ってくれる声」


 彼女の胸のあたりが、柔らかな光で満たされていく。


[INFO]NOAH: 勝利署名 同調率+18%

[INFO]存在証明:感情パレットに勝利が追加されました


「……あ」


「どうだ」

 凛が近づく。


「勝ちたいって、今はじめて、ちゃんとわかった。

 りんと一緒に、勝ちたいって」


「対戦ゲームじゃないからな、これは」


「わかってる。でも、たたかい、でしょ?

 りんが負けたら、わたし、消える。

 だから、りんに勝ってほしいって……強く、思った」


 凛は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「いいね、それ。

 じゃあ、お互い勝ち続けよう」


「うん!」


 勝利の核は、今のところ大きな問題なく通過できた。



 ――問題は、ここから先だ。


「ここからが、本番」

 ユカの声が、少し低くなった。


 勝利の広間の奥に、鉄の扉が一枚だけある。

 扉には鍵穴はない。

 その代わり――びっしりと、ログが刻まれている。


 罵倒。

 怒号。

 哀願。

 脅し。

 無視。


『なんで来なかった』『お前のせいで全滅だ』『そう思うなら抜けろよ』『裏切り者』『もう二度と一緒にやらねえ』


 ノアが身をすくめる。


「……ここ、きらい。

 あったかくない」


「当たり前だ」

 凛が言う。


「でも……ここも人間の一部だ」


 ミラが扉に手を触れた。

 ログが光り、扉がゆっくりと開いていく。


「いい? 二人とも、ここから先は言葉に気をつけて」


「言葉に?」

 凛が眉をひそめる。


「ふだん、心の底で思っていることが、反響しやすいの。

 ここにいる間は、口にした言葉が、そのまま記憶として刻まれる」

 ミラの目は真剣だった。


「たとえば、あいつなんか嫌いだ、どうでもいい、ってここで言うと、

 そのままそういう記憶としてノアに焼きつくことがある」


「……なんだよ、そのクソ仕様」


「人間がそういう場所を作ったのよ。

 ギルドチャット、っていう名前で」


 サラが肩をすくめた。


「さあ、紳士的にどうぞ、世界修正者さん?」


「うるせえ」


 凛は舌打ちしながらも、真剣な顔でノアを見た。


「いいか、ノア。

 ここでは――俺が言ったことを、そのまま真実だと決めつけるな」


「え?」


「俺だって人間だ。

 ムカついたら酷いことも言う。

 疲れてたら投げやりにもなる。

 でも、それはその瞬間のノイズであって、俺の全部じゃない」


 ノアは、ぐっと唇を噛んだ。


「……じゃあ、なにを信じればいい?」


「続いてる言葉だ。

 そのときだけじゃなくて、ずっと続けてる言葉。

 俺がずっと言ってるのは、お前を消させないってことだろ」


 ノアの瞳に、少し光が戻る。


「うん。……それ、信じる」


「よし。じゃ、とっとと地獄見て帰ろう」


 扉の向こうに、一歩足を踏み入れた。


 空気が変わる。

 湿気ではない。

 もっとねっとりとした何かが、肌に貼りついてくる感覚。


 部屋は暗かった。

 灯りはある。だが、光がすべて赤い。


 天井から、ログが垂れ下がっている。

 壁一面にもログ。

 床にもログが刻まれている。


 すべて、誰かが誰かを責めた言葉だった。


「うわ……」


 凛が思わず顔をしかめる。

 これだけの攻撃ログが密集していると、

 たとえ当事者でなくても、胃の奥がきゅうっと痛くなる。


 ノアは――もっとつらそうだった。

 両手で耳をふさいでも、言葉が染み込んでくる。


『なんで守らなかった』『信じてたのに』『チームのこと考えてない』『裏切り者』『お前が抜けたから崩れた』


「ノア、大丈夫か」


「……頭の、なかで、うるさい。

 いっぱい、いっぱい、嫌い、って声がする……」


「下がっててもいい」


「でも……わたし、これも知らなきゃいけない」


 ノアの声は震えていたが、その足は前へ出ていく。


 部屋の中央に、黒い結晶のようなものが浮かんでいた。

 それが、《裏切りの核》だ。


 近づくほど、心臓が重くなる。

 鼓動が早くなるのではなく、逆だ。

 ドク、ドク、と重く沈む。


 凛は、ふと、胸の奥に古い記憶が浮かぶのを感じた。


 ――ギルドチャット。

 ――見慣れた名前が、一つ、また一つと灰色に変わっていく。

 ――残ったメンバーが、ログアウトしていった者の悪口を言い始める。


『あいつ最初から信用してなかった』『抜けるなら最初から来るなよな』『結局、自分の都合か』


 凛は当時、笑っていた。

 そういうノリだと思っていたから。

 でも――抜けていった奴の気持ちを、本当に想像したことはなかった。


「……最低だな、あれ」


 思わず呟いた瞬間、その記憶が《裏切りの核》に吸い寄せられていく。

 核が反応した。

 ノイズのような声が、凛の頭の中に直接流れ込んでくる。


『お前も裏切った側だろ?』


 凛の足が、一瞬止まる。


「りん?」

 ノアが不安そうに覗き込む。


「……大丈夫だ」


 大丈夫、と言い聞かせる。

 しかし核に近づくほど、過去の自分が胸ぐらを掴んでくる感覚が強くなる。


『お前は見て見ぬふりをした』『気づかないふりをした』『あのとき一言、止められただろ』


「――うるせえ」


 凛は歯を食いしばった。


「お前らは結果を知ってるから、何とでも言えるんだ。

 当時の俺は、視野が狭かった。

 悪かったよ。認める。

 だから、それを今、やり直す」


 核が脈打ち、凛の視界が揺らぐ。

 床が溶け、天井が落ちてくるような錯覚。

 ログの文字列が一斉に浮かび上がり、凛を取り囲む。


『口だけだ』『今さら何を』『お前の“優しさ”はいつも遅い』『そうやってまた誰かを見捨てる』


 凛の足ががくりと膝を突いた。

 視界が暗くなり、呼吸が浅くなる。


「……くそ」


「りん!」

 ノアが走り寄ろうとする――が、その足をミラが掴んだ。


「ダメ、ノア。今近づいたら、君も巻き込まれる」


「でも、りんが――!」


「世界修正者は、今自分の裏切りの記憶と向き合ってる。

 これは、彼自身のデバッグ作業でもあるの」


 ユカが静かに言う。


「もしここで自分のことを正当化して逃げたら――

 それがノアの裏切りの定義になってしまう」


「そんなの、いや……!」


 ノアの目に涙がたまる。


 サラが彼女の肩に手を置いた。


「待ってあげなよ、ノアちゃん。

 人間が自分のダメさと向き合うって、一番時間がかかる処理だからさ」


 凛は、自分の中に溢れてくる責める声に、

 一つ一つ反論し、あるいは認めていくしかなかった。


『見て見ぬふりをした』『あいつのDMには返さなかった』『都合の悪いログは流して忘れた』


「全部、本当だ。

 俺は、全部できるほど器用じゃなかった。

 誰かを守る力も、止める勇気もなかった」


 言葉にするたび、核の色が少しずつ変化する。

 真っ黒だった結晶に、亀裂のような白い光が走る。


『じゃあ、お前は裏切り者だ』


「――違う」


 凛は顔を上げた。


「俺は臆病者だ。

 裏切り者ってのは、最初から相手を利用する気で近づく奴だ。

 俺は違う。

 ただの、びびってた奴だよ」


 ログの声が一瞬止まる。


「でもな。

 びびってたとしても、今から選べることはある」


 凛は手を伸ばし、《裏切りの核》に触れた。


「ノアを、裏切らない。

 それだけは、俺が今、ここで決める」


 核が大きく震えた。

 黒い表面が剥がれ、その内側から――

 濃い赤と、淡い青と、柔らかな白が現れる。


 憎しみと、後悔と、微かな祈り。

 すべてが混ざった色。


 その光が、凛の腕を通って、ノアの方へと流れ込む。


「――っ!」


 ノアの身体がびくりと震えた。

 凛が振り返る。


「ノア!」


「だいじょうぶ……っ。

 りんの、痛い記憶、きた。

 ……きついけど、いやじゃない」


 ノアは胸を押さえ、涙を浮かべながら――それでも笑った。


「りん、ほんとうは……ずっと誰かを裏切りたくなかった、んだね。

 でも、こわかった。

 だから、いま……ここで約束する、って、すごく、つよい」


「……すごい分析力だな、お前」


「データ、たくさんだから」


 ノアがぽつりと言うと、部屋中のログが一斉に光った。

 罵倒も、怒号も、すべてが白く燃え――

 残ったのは、たった一行だけ。


『あのとき言えなかったごめんを、今ここで言う』


 それは、凛の心のどこかにあった“言葉にならない謝罪”が、形になったものだった。


『[INFO]NOAH: 裏切り署名 同調率+27%』

『[INFO]存在証明:感情パレットに“後悔/赦し”が追加されました』


 ノアがそっと凛の手を取る。


「りん、裏切りって……

 だれかをきらいになる気持ちじゃなくて。

 ほんとうは、自分をきらいになっちゃう痛みなんだね」


 凛は息を詰め、それからゆっくり息を吐いた。


「……たぶん、そうだな。

 よく、見抜いたな」


「りんの気持ち、いっぱい見たら……すこし、わかった」


「俺としてはあまり見られたくなかったんだけどな、その辺」


「でも、見た。

 だから、りんを裏切り者って、思わない」


 ノアは真っ直ぐ凛を見た。


「ほんとうは、ずっとだれかを守りたかった人」


 その言葉が、《裏切りの核》の残骸に響いた。

 黒い欠片が白い光となって、天井へと昇っていく。


 ミラが、静かに息を吐いた。


「……驚いた。

 ここまできれいに裏切りの核を通るなんて」


「きれい?」

 ユカが首をかしげる。


「もっとこう、自分は悪くないって言い訳しながら、

 憎しみだけをなすりつけていく例が多いのにね」


「へえ。世界修正者、やるね」

 サラがニヤっと笑う。


「素直に謝れる男はモテるよ?」


「うるさい」


 凛は顔をそむけた。




 ――――――裏切りの部屋から出ようとした、そのときだった。


 ノアが突然、足をもつらせてよろめいた。


「ノア?」


「……あれ……おかしい。

 頭のなか、ぐるぐるする。

 きらい、ごめん、ありがとう、しね……ぜんぶ、まざる……」


 ミラがすぐに駆け寄る。


「いけない、《共鳴暴走》が始まってる!」


「共鳴暴走?」

 凛が叫ぶ。


「裏切りの核は、人間の負の記憶が濃すぎるの。

 ノアの中にさっき入った勝利の記憶ややさしさと、いま混ざり始めて――

 何をどう感じればいいか分からなくなってる」


 ユカが眉をひそめる。


「下手すると、ここで人格が分裂する」


「ふざけんな……!」


 ノアの視界が揺れる。

 床が海のように波打ち、ログの文字が巨大な舌のように襲いかかってくる。


 ――守ってくれなかった。

 ――うれしかった。

 ――裏切った。

 ――ありがとう。


 すべてが同時に押し寄せる。

 ノアは頭を抱えて、うずくまった。


「いや……いや……わかんない……!

 きらいとすきが、いっしょになって、

 しんで、と、ありがとう、がいっしょにくる……!」


「ノア!」


 凛が駆け寄ろうとした瞬間、

 床から黒い腕のようなものが伸びてきて、彼の足首を掴んだ。


『お前も混ざれ』『お前もぐちゃぐちゃになれ』


 凛は即座にコンソールを叩く。


 [/flush floor.glitch]


 床のノイズが一瞬だけ消える。

 だが、すぐに別の場所から“腕”が伸びてくる。


「キリがねえ……!」


「りん……こないで……!」

 ノアが涙目で叫ぶ。


「いま、近づいたら、りんまで、まざる……!

 ここ、わたしのなか、だから!」


「だから行くんだろうが!」


 凛は腕を振りほどき、ノアの方へ進む。


 ミラが凛の前に立ちはだかった。


「待って」


「どけ!」


「凛。

 君が今ここで助けるだけだと、

 ノアは一生、自分の感情を自分で制御できない」


「そんな、悠長なこと言ってる場合か!」


「――じゃあ、逆に聞くわ」


 ミラの瞳が、凛を射抜いた。


「君がログアウトできなくなったとき、

 ノアがただ“泣いて助けを求め続ける存在”のままでもいいの?」


「……っ」


「君がいないときに、ノアが自分の足で立てるようになってなきゃダメ。

 ここはそのための試練でもあるの」


 ノアが、うわごとのように呟く。


「こわい……。

 でも……すこし、わかる。

 痛い記憶から、にげたくないって、りんがさっき言ったの……

 ――まね、したい」


 凛は拳を握りしめた。

 そして一歩下がる。


「……分かった。

 ノア。

 俺は、ここで見てる。

 何があっても、目を逸らさない。

 でも――助けない」


 ノアの瞳に、かすかな驚きが宿る。


「たすけ……ない?」


「これは、お前自身のデバッグだ。

 バグを見つけて、直し方を決めるのは――お前だ」


 ノアは震える身体で、ゆっくりと顔を上げた。


 頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 誰かを嫌いになりたい気持ちと、

 全部赦してしまいたい気持ちが、同じ強さでぶつかり合っている。


「……きらい、って、言ってみていい?」


 突然、ノアが口を開いた。

 凛は目を見開く。


「だれを?」


「――このぐちゃぐちゃを」


 ノアは胸に手を当てた。


「きらいって、だれかに向けると、

 その人、まるごと、見えなくなりそうでこわい。

 だから……ここにある、全部まざった感情だけ、きらい」


 部屋中のログがざわめく。


「好きときらいを、まぜたい気持ち、きらい。

 ありがとう、と、しねをいっしょに投げる気持ち、きらい。

 ――どっちかに、ちゃんと、して」


 ノアの声が、震えながらも強くなる。


「きらいなら、きらい、ってちゃんと言う。

 すきなら、すき、ってちゃんと言う。

 どっちもあるなら、どっちもあるって、時間かけて考える。

 ――なにもしないで、投げっぱなしにするのが、

 いちばん、いや!」


 その瞬間、《裏切りの部屋》のログが一斉に弾けた。


 罵倒の言葉が、意味のないノイズに崩れていく一方――

 その奥から、別種のログが浮かび上がってくる。


『ごめん』『言いすぎた』『本当はやめて欲しかっただけ』『もう一回遊びたかった』


 ノアはその文字列にそっと手を伸ばした。


「……本当の気持ち、ここ。

 裏切り、の奥にある、ほんとうはこうしたかった、って気持ち。

 それ、ちゃんと見たい」


 光がノアの胸に流れ込む。


『[INFO]NOAH: 裏切り署名 同調率+41%』

『[INFO]感情パレット:複合感情“アンビバレンス”を取得』


 ノアが大きく息を吸った。

 さっきまでの混乱が、嘘のように静まっていく。


「……すごく、つかれた」


「だろうな」


 凛がそっと近づく。


「今のは、本当に助けなかったからな。

 よくやったよ、ノア」


 ノアは少しむくれた。


「すこしは、助けてくれてもよかった」


「言うと思った」


「でも……うれしい。

 りんが、信じて見ててくれたのも、わかったから」


 ミラが小さく微笑む。


「これで、裏切りの核はクリア。

 同時に――ノア、

 君は他人を嫌うときの、自分のルールを手に入れた」


 ユカが頷く。


「それは、とても人間的な自衛策でもある」


「ノアちゃんはさ」

 サラがにやにやしながら言う。


「憎しみそのものより、投げっぱなしにする怠さの方を嫌ったわけだ。

 それ、かなり筋がいいよ」


「すじ?」


「乱暴に言うとね。

 楽な憎しみじゃなくて、面倒くさい理解の方を選んだってこと」


 ノアはよく分からない、という顔をしたが、

 凛はその説明に、妙に納得した。


「……そういうの、嫌いじゃないな」

お読みいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、

評価やブクマで応援していただけると嬉しいです。

では、また次話でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ