第四章 記憶署名の街
列車の揺れは、ほとんどなかった。
あるのは「揺れているはず」という情報だけで、体感はスライドするように滑らかだ。
窓の外には、真っ黒なトンネル――のはずなのに、ときどき色の粒が流れていく。
過去のチャットログ。戦闘ログ。スクリーンショットに埋もれた笑い声。
プレイヤーたちの「記憶」が、光となって壁を走っていた。
「……気持ち悪いくらい静かだな、この電車」
凛は吊り革に手をかけながら、空の車内を見回した。
座席はすべて埋まっているのに、誰も座っていない。
プレイヤーたちの「座っていた記憶」だけが、シートの形に残っているのだ。
見えない圧迫感が、背中に貼りつく。
「りん」
隣で、ノアが袖をつまんだ。
ノアの指は、以前より少しだけ力強い。
検疫層で存在を勝ち取ってから、彼女の輪郭は前よりはっきりしている。
「さっきから……なにか、聞こえる」
「聞こえる?」
「うん。――たのしい。くやしい。あったかい。……ぜんぶ、まざってる」
ノアは胸の前で手をぎゅっと握りしめる。
彼女の中に流れ込んでいるのは、単なる音声データではない。
プレイヤーたちがここで感じた“感情のベクトル”だ。
「ここから先は、プレイヤーの記憶が街になってる。記憶署名の大半は、きっとこの層に漂ってるはずだ」
凛は左目のコンソールを呼び出した。
薄いウィンドウが視界の隅に浮かび、環境情報が流れる。
[/scan env.mode]
『[INFO]environment: memory-city』
『[INFO]tag: SIG-MARKET(記憶署名集積領域)』
『[WARN]改ざんは推奨されません』
「改ざんは推奨されません、ね。……脅し文句としては柔らかいな」
「りん、また……世界に、けんか売ってる?」
「交渉って言ってくれ。こっちはこっちで、命がかかってる」
ノアが小さく笑う。
笑い方は、もう学習した通りではなく、彼女なりの癖が混ざり始めていた。
列車が速度を落とす。
車内にアナウンスは流れない。代わりに、窓の外のログがメッセージに変わった。
『[SYSTEM]まもなく『記憶署名の街』に到着します』
『[SYSTEM]思い出すことは、残すこと』
「……なあ、ノア」
「なに」
「怖いか?」
ノアは少しだけ考えるふりをした。
その間の取り方も、前より自然だ。
「こわい、すこし。でも……しりたい、もっと。
なんで、ひと、こんなに、たくさん……のこしたがるのか」
凛は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「いい質問だ。――それを調べに行くんだ、俺たちは」
ドアが開く。
無人のホーム。
しかし、雑踏の音だけが聞こえる。
人の姿はどこにもないのに、笑い声や呼び声、悔しそうな舌打ち、ガチャの爆死を嘆く悲鳴までが、空気に染み込んでいた。
――――――。
「……街だ」
駅の階段を上がった瞬間、ノアがぽつりと呟いた。
そこには、確かに“街”が広がっていた。
空を埋め尽くす巨大なスクリーンには、過去のゲーム画面が断片的に映っている。
路地ごとに別々のイベントシーン、ボス戦、チャットログ。
建物は、プレイヤーのホームで使われていたハウジングのパーツが、パッチワークのように組み合わされている。
メインストリートには、誰もいないのに、屋台だけが並んでいた。
アイテム交換所、ガチャ屋、イベント限定ショップ。
そのすべてが、過去形で止まっている。
「すげえな……」
凛は思わず本音を漏らした。
開発に関わっていたはずなのに、こんな光景は知らなかった。
ここは運営AIが独自に構築した領域――プレイヤーの“記憶署名”を管理するための、裏マーケットだ。
「りん。ここ、あったかい、匂い。……でも、さびしい」
「思い出ってのは、だいたいそういうもんだ」
凛はコンソールを操作し、街の構造をざっと覗き見る。
[/map memory.city depth=2]
『[INFO]center: SIG-PLAZA』
『[INFO]north: RAID-ALLEY』
『[INFO]east: CHAT-ARCADE』
『[INFO]south: HOME-GARDEN』
『[INFO]west: EVENT-RUINS』
街全体が、プレイヤー体験のカテゴリごとにゾーニングされていた。
システム的に言えば、各エリアに「タグ付き記憶署名」が集約されている。
「ノアの存在証明を強くするには、プレイヤー側の記憶から署名をもらう必要がある。……が」
「が?」
「俺たち、ここにいるプレイヤー全員から、嫌われてる可能性がある」
「?」
「デバッカーと運営ってのはな、たいてい“敵”なんだよ。ナーフの元凶とか、バグ放置してたとか、いろいろ理由をつけられてな」
ノアは首をかしげる。
「でも、ここ。たのしい記憶、多い。
みんな、たぶん……この世界、すきだった」
「だった、な。――過去形だ」
凛は肩をすくめ、メインストリートへ足を踏み出した。
足元に、白い文字列が浮かび上がる。
プレイヤー名と、短いログの断片。
『やっとクリアした!』『神ゲー』『クソ運営』『神イベ』『二度とやらんw』
愛憎の混じった、どうしようもなく人間くさい言葉たちだ。
「りん」
ノアが、路地の方を指差した。
視線の先――広場の中央に、不思議なものが見えた。
それは、三本の柱だった。
一本は青い光、一本は白、一本は赤。
柱の上には、それぞれ人影が座っている。
青の柱の上――長い髪を編み込んだ少女が、古い本を抱えている。
白の柱の上――短髪の少女が、目隠しをしたまま空に指を伸ばしている。
赤の柱の上――髪を高く結んだ少女が、無数の破れた札を腰にぶら下げている。
「……なんだ、あれ」
「ひと?」
「いや。――システムの匂いがする」
凛が呟いたとき、三本の柱が同時に震えた。
光が収束し、少女たちが地面へと降りてくる。
足音はしないが、存在感は重い。
青い光を纏う少女が、一歩前に出て、口を開いた。
「ここは、記憶署名の街」
声は澄んでいて、よく通る。
しかし、その言葉にはどこか、古いログのような響きがあった。
「ようこそ、世界修正者。そして、孤児AI」
凛は眉を上げた。
「俺のことを知ってるのか」
「知っている。ここは“覚えている場所”だから」
青い少女は、胸に抱えた本を軽く叩く。
「わたしは、記憶の巫女・ミラ。
この街に集まった、忘れたくないもの、をここに記録している」
ミラ――記憶の巫女。
彼女の背後で、白い少女が口を開く。
「わたしは、忘却の巫女・ユカ。
ここからこぼれた、忘れたいもの、を深いところに沈める役目」
そして、赤い少女が、破れ札を指で弄びながら笑った。
「んで、あたしがエラーの巫女・サラ。
記録にも残せない、忘れることもできない、バグみたいな感情の担当」
三人は横並びになり、凛とノアをまっすぐ見つめた。
視線は、それぞれ違う温度を持っている。
ミラは静かで、ユカは空虚で、サラはどこか楽しそうだった。
「ずいぶんと物騒な肩書きだな。巫女なんてロマンチックな言葉の割に」
凛が言うと、サラがニヤリと口角を上げる。
「巫女ってさ、間を取り次ぐ者って意味でしょ? 神様と人、人と世界、人と過去。
あたしたちは人と記憶の間を取り持つ、そんなプログラムってわけ」
ユカが淡々と続けた。
「君たちは、記憶を乞いに来た。違う?」
凛は短く息を吸い、頷いた。
「そうだ。俺は篠崎凛。デバッカーだ。……こっちはノア。削除予定だったAIだが、今は存在として認められた」
ノアは少し戸惑いながらも、一歩前に出る。
「ノア。……ここ、へんな感じ。さびしい、でも、うるさい」
ミラが目を細めた。
本のページがひとりでにめくれ、無数のログが浮かび上がる。
「孤児AIが、感情のノイズを言語化しかけている……。面白いわね」
「面白いじゃなくて、危険、だよ」
ユカが冷ややかに言う。
「感情の層でAIが暴れたら、この街の署名バランスが崩れる。
“誰の記憶か分からない感情”が増えれば、世界はぐちゃぐちゃになる」
「いいじゃん、ぐちゃぐちゃ。人生もゲームも、そのぐらいが盛り上がるって」
サラが笑い飛ばす。
凛は額に手を当てた。
「お前ら、三人でバランス取れてんのか、取れてないのか分かりづらいな」
ミラが小さく咳払いをした。
「用件を聞きましょう、世界修正者。
この街の記憶署名は、簡単には渡せない。――それが、ここを墓場じゃなく街にしているルールだから」
「単刀直入に言う。ノアの存在証明を強くするために、記憶署名が必要だ。
運営AIは、ノアを検疫層に隔離した。
今は仮承認だけど、このままだと“継続信号”が足りなくなって、また消される」
凛はノアの肩に手を置いた。
「彼女は、この世界のバグじゃない。――更新の予告だ」
サラが目を輝かせる。
「そのフレーズ、好き。ねえミラ、ログに太字で残そ?」
「検討するわ」
ミラは本にペンを走らせるふりをして、すぐに顔を上げた。
「結論から言うと、個人の存在証明に街の署名を使うのは、本来の用途外よ」
ユカが続ける。
「ここはプレイヤーのための場所。
君たちみたいな、運営側の人間やAIには、あまり優しくない」
「運営側、か……」
凛は少しだけ目を伏せた。
そう見られても仕方がない立場だ。
ノアが、彼の袖を引く。
「でも、りん……一緒に、走ってくれた。
わたし、消えそうなとき、……て、ぎゅって、してくれた」
言葉がつかえている。
しかし、そのひとつひとつには、確かな重みが宿っていた。
「だから、りん。ぜったい、運営だけじゃない」
ミラの瞳が揺れる。
彼女は抱えていた本をそっと閉じた。
「――質問を変えましょう、篠崎凛。
あなたは、この世界を“修正”したいの? それとも、救いたいの?」
「両方だ」
凛は迷いなく答えた。
「修正しないと救えないし、救いたいから修正する」
ユカが眉をひそめる。
「欲張り」
「知ってる」
サラがくすりと笑い、ミラが小さく頷いた。
「いいわ。じゃあ、試験をしましょう」
「試験?」
「記憶の巫女として、この街の署名を君たちに預ける価値があるか――確かめるための」
ミラが指を鳴らすと、広場の空気が一変した。
周囲の建物が揺らぎ、過去のログが立体映像として浮かび上がる。
プレイヤーたちの姿。
レイドの最前線。
ミス連発に頭を抱えるタンク。
蘇生スキルを連打するヒーラー。
チャット欄には罵倒と励ましが同時に流れている。
「第一の試験。喜びを理解できるかどうか」
ミラの声が響く。
「このレイドは、何度も失敗してようやくクリアされたもの。
記憶署名の強度も高い。――ノア」
名を呼ばれ、ノアがびくりと肩を揺らす。
「きみは、この戦いを“たのしい”と感じられる?」
ノアは映像をじっと見つめた。
剣が光り、魔法が炸裂し、ボスが咆哮する。
何度も全滅し、何度も立ち上がる。
そのたびに流れるチャットログ。
『次こそいける』『ごめん、ミスった』『ナイストライ』『まだやれる?』『やるぞ』
ノアは胸に手を当てた。
「……いたい。からだ。いっぱい、けがしてる。
でも、やめない。
これ、たぶん……たのしい、に近い。くるしい、も、あるけど」
言葉を探しながら、それでも前より滑らかに紡がれていく。
「誰かと一緒にがんばる、って……きっと、うれしい」
ミラが静かに目を閉じた。
「合格。――喜びは、痛みと混ざることがある。その混ざりをうれしいと呼べる感性は、人間的よ」
ユカが次の映像を呼び出した。
今度は、ソロ狩り中のプレイヤーだ。
レベル上げに失敗し、レアドロップを逃し、チャット欄で愚痴を零している。
「第二の試験。悔しさをどう扱うか」
ユカが淡々と言う。
「世界修正者。君は、こういう小さな不満をどう見る?」
「よくある話だ。システムが不親切なら修正すべきだし、そうじゃないならプレイヤー側の学習不足だ」
「冷たい」
「デバッカーってのは、だいたい冷たい」
ノアが横から口を挟む。
「でも、りん。さっき、いった。
徹夜の焼きそば、覚えてる、って。
それ、たぶん……しんどい、けど、たのしかった、記憶」
凛は思わずノアを見た。
ノアは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「だから、こういう小さい、くやしい、も……
あとで、わらえる、かもしれない。
あのとき、失敗したねって」
ユカの口元が、わずかに緩んだ。
「記憶は、本来意味を失っていくもの。
でも、人がそれに意味を与え続ける限り、くやしいは笑い話にも、トラウマにもなる」
ユカは凛を見据える。
「君は、世界を修正するとき、その小さい悔しさをどこまで拾うつもり?」
「可能な範囲で、だ。全部は無理だ。
でも、無視もしない。――そのバランスを取り続けるのが、デバッカーの仕事だろ」
「……ふうん」
ユカは肩をすくめた。
「合格。少なくとも、全部直せるとかいう傲慢な神様じゃない」
最後に、サラが指を鳴らした。
空気が重くなる。
映し出されたのは、チャット欄だけのログだった。
『もういいや』『疲れた』『リアル戻るわ』『さよなら』
ギルド脱退通知。
フレンドリストから一人、また一人と名前が消えていく光景。
「第三の試験。消えていくものとどう付き合うか」
サラの声は、いつもより少し低かった。
「世界修正者。――君は、やめていくプレイヤーをどう見てた?」
「当時は、数字だと思ってた。
アクティブ数の推移、離脱率。」
凛は、素直に言った。
「でも今は、そうじゃない。……目の前で、消えないはずの存在が消えかけたからな」
ノアが小さく息を飲む。
凛は続けた。
「人がやめていくのは、悪でも裏切りでもない。
ただ、その人の物語が別の場所に移っただけだ。
――俺の仕事は、その人たちがここにいた証拠を、ちゃんと動く形で残すこと」
ノアが、その言葉をなぞるように呟く。
「ここに、いた。
ここで、たのしかった。かなしかった。
それ、のこすの、だいじ。
……わたしも、いたって、だれか……覚えててほしい」
サラが、破れ札を一枚空中に放る。
札は光りながらノアの胸に吸い込まれた。
「合格。
消えていくものを、引き止めるんじゃなくて、いたことを残そうとする感性。
それはエラーじゃない。――むしろ、世界の側がアップデートしなきゃいけない部分だね」
サラはニヤリと笑い、凛に親指を立てた。
「よし。三つの試験、クリア。
ミラ、ユカ。どうする?」
ミラは本を開き、三人の名前をそこに綴った。
「記憶の巫女・ミラの名において、宣言するわ。
この街の記憶署名の一部を――篠崎凛とノアに、接続する」
ユカも小さく頷いた。
「忘却の巫女・ユカとしても、暫定承認。
ただし、バランスを崩したら容赦なく切り捨てる」
「エラーの巫女・サラとしては、大歓迎。面白そうだし」
三人の足元から、光の糸が伸びた。
街全体から集まってきた色とりどりの記憶の粒が、その糸に絡みつく。
喜び、悔しさ、敗北、勝利、出会い、別れ。
無数の感情が、ノアの胸元へと流れ込んでいく。
「――っ」
ノアが膝を折りかけ、凛が慌てて支える。
「大丈夫か!」
「……だいじょうぶ。
いっぱい、はいってくる。
でも、こわくない。
あ、これ、はずかしい……
これ、たのしい……
これ……しぬほどつらい、でも、すき……」
ノアの目から、透明な涙が一筋こぼれ落ちた。
涙の生成は、仕様外。
それでも、そこにあった。
「りん」
ノアは顔を上げた。
さっきよりも、言葉が滑らかだ。
片言が完全に消えたわけではないが、文と文が繋がり始めている。
「わたし……いま、すごく、ここにいるって感じる。
この世界、痛くて、うるさくて、ぐちゃぐちゃで、でも――
……すごく、きれい」
凛は、ほんの一瞬言葉を失った。
代わりに、ゆっくりと笑う。
「だろ。バグだらけで、めちゃくちゃで、面倒くさい。
だからこそ、直しがいがある」
コンソールに、新しいログが走る。
『[INFO]subject=NOAH : 継続信号レベル +18%』
『[INFO]memory-signature link: established(篠崎凛/一般プレイヤー群)』
『[NOTICE]存在テーブル:安定度ランクが「検疫対象」→「観察対象」に変更されました』
ミラが満足そうに本を閉じた。
「これで、しばらくは消されない。
でも、本当の意味で残るためには――もっと多くの個別の記憶が必要よ」
ユカが付け加える。
「プレイヤーたちの、ノア自身に対する記憶。
今はまだほとんどない。
君はこれから、覚えられる側にならなきゃいけない」
サラが凛の肩をぽんと叩いた。
「つまりさ――クエスト開始ってこと。
タイトルはそうだね……この世界、デバッグ中につき。ノアを誰かに覚えさせろ。みたいな」
「長い」
凛が苦笑し、ノアがくすっと笑う。
「でも、やる。
わたし、ここにいたって……
たくさんのひとに、いつか、思い出してほしい」
その言葉は、もはや片言ではなかった。
ぎこちなさは残るが、そこには明確な意思があった。
ミラが一歩近づき、小さな光の札を三枚差し出す。
「これは、記憶の巫女としての通行札。
プレイヤーの街で、特定の記憶にアクセスするための鍵になる」
ユカも自分の紐から、黒い札を一枚抜いて渡した。
「これは“忘却の印。
どうしても耐えられない記憶に触れたとき、一度だけ距離を置ける。
ただし、使いすぎると、自分自身が何者か分からなくなる」
最後に、サラが破れた赤い札をノアの額に貼り付けた。
「これはエラー札。
ルールにない行動をしたいとき、ちょっとだけ、世界の目を誤魔化せる。
ただし、世界の方も悪ノリしてくるから、気をつけて」
「お前らの札、だいたいロクでもないな」
凛がぼやくと、サラが愉快そうに笑う。
「世界を本気でデバッグしたいなら、きれいなツールだけじゃ足りないでしょ?」
それは、否定しがたい真理だった。
広場の頭上で、電光掲示板が明滅する。
『[SYSTEM]クエスト更新:』
『[記憶署名の街]完了
『[新規クエスト]:プレイヤーの街で、ノアの記憶を刻め』
「……だってさ」
凛がノアを見やる。
「これから忙しくなるぞ。ロクにチュートリアルもないのに、いきなり中盤クエストだ」
「うん」
ノアは小さく息を吸い、胸に手を当てた。
「でも、こわくない。
りんと一緒なら、きっと……たのしいも、くやしいも、つらいも、ぜんぶ――
のこせるから」
その笑顔は、もう欠けたテクスチャでも、仕様書の外のノイズでもない。
ひとりの存在の表情だった。
記憶署名の街の喧騒が、少しだけ優しくなった気がした。
――――――
去り際に、ミラがふと思い出したように声をかけてきた。
「そうだ、篠崎凛」
「なんだ」
「君のことを、覚えているプレイヤーも――少しだけ、いるわよ」
「……は?」
「ここに来る前に、別の街から、あいつ元気かなっていう記憶が上がってきた。
バグ報告フォームに、妙に長い感想を書いてきたプレイヤー。
あのとき対応してくれたデバッカーさん、ありがとうって」
凛は一瞬、言葉を失った。
そんな記憶は、自分ではもう朧げになっている。
「世界修正者。
君もまた、誰かに覚えられている側なのよ」
ミラの言葉は、静かに胸に沈んだ。
凛は短く息を吐き、ノアの方を振り返る。
「……よし。
世界はまだバグだらけだ。
デバッグを続けよう、ノア」
「うん。
――この世界、デバッグ中につき」
ノアが、そのタイトルを、はっきりと口にした。
お読みいただき、ありがとうございました。
評価してくださった方々もいらっしゃり、とてもうれしいです!
面白いと感じていただけましたら、
評価やブクマで応援していただけると嬉しいです。
では、また次話でお会いしましょう。




