第九章 現実世界:凛の目覚めと喪失の朝
凛がユグドラシルから強制ログアウトになり、現実世界に戻ってきました。
第二部の開幕です。
――真っ白だった。
視界の端から端まで、まるでホワイトアウトしたテスト画面みたいに、情報が何もない。
コードも、ログも、コマンドも浮かんでこない。
ただ、耳鳴りだけが、機械音のように続いていた。
次の瞬間、肺が勝手に空気を吸い込んだ。
「――ノアっ!!」
叫んだ声が、自分の喉を焼いた。
同時に、胸がきしりと痛む。
そこは、審問領域でも、バグに満ちた街でもなかった。
白い天井。
淡く揺れるカーテン。
ツンとした消毒液の匂い。
「ピッ、ピッ」と一定のリズムで鳴る心電図モニターの音。
病室だった。
凛はしばらく、状況を理解できなかった。
システムログを呼び出そうとして――それができないことに気づく。
(……コンソールが、ない)
視界の隅にいつも浮かんでいた半透明のウィンドウが、どこにもない。
足元にコードラインも、天井にログツリーもない。
代わりにあるのは、点滴スタンドと、白いカーテンレールと、心電図のモニターだけだった。
「目、覚めましたか?」
静かな声がして、凛はそちらを向いた。
白衣の女性が、ベッドの横に立っていた。
肩までの黒髪をひとつにまとめ、眼鏡の奥の目が、こちらを落ち着いて観察している。
いかにも、という感じの病院医師だ。
「ここ……」
「市内の総合病院です。覚えていませんか?」
覚えているわけがなかった。
凛の最後の記憶は、ノアの泣き顔と、自分の身体がノイズになってほどけていく感覚で途切れている。
「あなたは、VR機器使用中に意識を失って倒れていました。救急搬送されています」
医師は淡々と説明する。
「強制切断に近い状態だったようで、神経系に負荷がかかっていました。今は安定していますが、しばらくは無理をしないでください」
強制切断。
その単語に、背筋が冷たくなった。
審問官たちの声が、耳の奥で蘇る。
『緊急ログアウト・プロトコル――実行』
ノアの叫び。
伸ばした手。
届かなかった距離。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「……どれくらい、俺は……」
「三日間、意識が戻りませんでした」
三日。
ゲーム世界での時間が、現実にどれだけ流れているのかはわからない。
でも、少なくともこの三日間、自分は何もできなかった。
ノアのことも。
巫女たちのことも。
世界安定モデルのバグのことも。
何一つ。
「頭痛や吐き気はありますか?」
「……少し、頭が重いくらいです」
嘘ではなかった。
ただ、それ以上に心の方が重かった。
「そうですか。では、簡単に幾つか質問しますね」
医師はモニターをちらりと見てから、凛に視線を戻した。
「ここが病院だと分かりますか?」
「はい」
「お名前は?」
「篠崎凛」
「今日の日付は分かりますか?」
凛は答え、医師は一つ一つ頷いていく。
よくある意識レベルの確認だ。
最後に、医師は少しだけ表情を緩めた。
「……ここ三日間、ずっとうなされていました」
「……そう、ですか」
「何か、夢は見ていましたか?」
夢。
あれが夢なら、どれだけ楽だっただろうか。
ノアの声。
審問官の仮面。
世界がひっくり返る瞬間。
Ob■■■■の、、、
?
なんだ?ノイズ、か?
まぁいいか。今は。
それよりも、全てがあまりにも鮮明すぎた。
「……夢、って感じじゃないですね」
凛は視線を天井に戻す。
「どちらかというと……、現実を剥がされたって感じです」
医師は少しだけ目を細めた。
意味を尋ねることはしない。
「……精神的なショックも強そうです。退院を急がせるつもりはありませんが、身体的には一日か二日で帰宅できます。どうしますか?」
凛は、ほんの少しだけ考えてから答えた。
「……帰ります。ここにいても、落ち着かないので」
「分かりました。では、明日退院できるよう手配しますね」
医師は淡々と告げ、カルテに何かを書き込んだ。
そのペンの動きが、やけに規則正しく見える。
世界安定モデルの、無機質な数式みたいに。
凛は、その音を聞きながら、目を閉じた。
(……ノア)
暗闇の奥で、泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
――――――
退院の日。
天気は、やけにいい。
病院の玄関を出ると、冷たい風と、眩しい光が同時に体を撫でていった。
三日寝ていたのだから、久しぶりの外気のはずなのに、懐かしさより異物感の方が強い。
街は普通だった。
通りを歩く人たち。
信号待ちで足を止める自転車。
コンビニの前でしゃがみ込む学生。
スマホを見ながら笑う社会人。
どれもこれもが、凛にとって別世界の風景みたいに見える。
タクシーに乗り、自宅に向かう。
運転手の何気ないラジオの音が耳に残った。
『――例のVR事故の件ですが、詳細はまだ公式から……』
凛は無意識に窓の外を見る。
街路樹の影が、午後の陽射しに伸びていた。
その影の一つが、ふわりと膨らんで、白い球のような形になった気がした。
(……Ob■■■-00……?)
瞬きした瞬間、それはただの影に戻っていた。
気のせいかもしれない。
けれど、VR世界で見た観測者のログのイメージが、頭から離れなかった。
――――――
自宅の扉を開けた瞬間、鼻に入ってきたのは、少し冷えた空気と、微妙に乾いたカーテンの匂いだった。
「……ただいま」
口をついて出た言葉は、自分で思っていたよりも小さかった。
返事は、当然ない。
当たり前だ。
ここは現実で、そこにはノアも、巫女たちもいない。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
カーテンを開けると、差し込んだ光が、机の上のものを照らした。
モニター。
キーボード。
ヘッドセット。
コントローラー。
中身の減ったペットボトル。
どれも三日前のままだ。
ゲームの中では、世界をひっくり返すようなことをしたのに、現実の時間は、何も変わらず続いている。
椅子に座り、凛はヘッドセットに手を伸ばしかけて――途中で止めた。
まだだ。
少なくとも、医師から止められている間は、素直に従っておくべきだろう。
また倒れて、今度こそ本当に戻れなくなったら、それこそノアに顔向けできない。
代わりに、凛は深く息を吐き出した。
シャワーを浴びる。
湯気で曇った鏡に、やつれた自分の顔が映っていた。
目の下には薄いクマ。
頬は少しこけている。
「……ひでえ顔」
自分で呟いて、苦笑する。
湯船に浸かると、体から少しずつ力が抜けていく。
タイルの冷たさと、お湯の温度が現実を強調する。
(ノア……)
湯の中で、名前を呼んでみる。
返ってくる声は、ない。
湯の表面に浮かぶ、自分の顔の輪郭が揺れた。
あの審問領域で、自分の輪郭がノイズになっていった感覚を思い出す。
「絶対、戻るからな」
誰に聞かせるでもなく、そう宣言した。
――――――
翌日の午前。
簡単な食事を胃に入れたあと、凛は近所のコンビニに出かけた。
外に出る用事は特にない。
ただ、部屋に一人でいると、どうしても思考があっち側に寄っていってしまう。
コンビニの自動ドアが開く。
中の空気は、冷蔵ケースと揚げ物の匂いが混ざっていて、不思議と落ち着く。
おにぎりを二つと、温かい缶コーヒーを手に取る。
レジのお姉さんがいつも通りの笑顔で「ありがとうございます」と言った。
その一言が、やけに胸に刺さった。
(あっちの世界で、ありがとうって言葉……どれくらい使ったっけな)
ノアはよく言ってくれた。
巫女たちも、ときどき妙に真面目な顔で口にした。
現実の「ありがとう」と、あっちの「ありがとう」。
意味は同じはずなのに、どこか違う。
店を出て、缶コーヒーのプルタブを引く。
湯気ほどではないが、微かな香りが鼻をくすぐった。
「っ……にが」
思わず顔をしかめる。
普段あまり缶コーヒーを飲まないせいか、甘さの奥の苦味がやけに強く感じられた。
スマホがポケットの中で震えた。
画面を見て、凛は眉をひそめる。
見慣れない通知が、一瞬だけ表示された。
[ob■■■■-00:user_rin/signal_check]
読んだ瞬間、文字はスッと消えた。
履歴にも残っていない。
「……気のせい、か?」
誰にともなく呟く。
そうじゃない気がしているからこそ、口に出して誤魔化した。
そのときだった。
「あの……すみません!」
少し控えめな、けれどはっきり通る声が、背後から聞こえた。
凛は振り向く。
そこに立っていたのは、二十代半ばくらいの女性だった。
セミロングの髪を後ろでざっくり結んでいて、グレーのパーカーにジーンズというラフな格好。
大きな目が、驚いたように凛を見つめている。
――見覚えは、ない。
けれど、どこかで見たような気がしないでもない。
「……はい?」
警戒を隠さずに答えると、彼女は慌てて両手を振った。
「あ、ごめん、変な意味じゃなくて! あの、その……もしかして、篠崎……凛くん、だよね?」
「……え?」
名前を呼ばれて、全身が強張った。
ゲームのフレンドや、巫女たちに本名を呼ばれるのとは、全く違う。
ここは現実で、目の前の女性は、少なくともこの世界の人間だ。
「高校の時……隣のクラスにいた、篠崎くん、だよね? 違ったら本当にごめん」
「……高校……」
凛は、彼女の顔をじっと見つめた。
記憶を手繰り寄せる。
制服姿。
廊下。
教室。
朧げなイメージの中で、似たような輪郭の横顔が、ちらりと浮かぶ。
しかし、確信には至らない。
「覚えてない、よね。ごめん、変なこと言って」
彼女は苦笑した。
「でも、名前呼んで振り返ったときの顔が、その……あの頃と同じだったから」
高校。
隣のクラス。
そこまで聞いて、ようやく凛の中の警戒が少しだけ緩む。
知らない人間ではない、かもしれない。
少なくとも、「いきなりフルネームで呼んできた謎のストーカー」よりは、だいぶマシだ。
「……えっと」
とりあえず、缶コーヒーを持っていない方の手を上げる。
「ごめん。顔覚えるの苦手でさ。誰だっけ?」
彼女は、少しだけ肩を落としたような顔をしてから、すぐに笑った。
「だよねー。まあそうだろうなって思ってた。
倉島。倉島ほのか。二年の時、隣のC組だった」
「……倉島、ほのか」
口に出してみる。
記憶の奥で、何かがカチリと音を立てた。
教室移動のときに見かけた横顔。
廊下でクラスメイトと笑っていた姿。
体育祭で同じ色のハチマキを巻いていた集団の中の一人。
――確かに、そんな名前が、そこにいた気がする。
「なんとなく、わかってきた?」
「……まあ、なんとなく」
凛がそう答えると、ほのかはほっとしたように胸に手を当てた。
「よかった……。マジで人違いだったら、すぐ謝って全力で逃げようと思ってたから」
「いや、逃げんなよ」
思わずツッコむ。
そのやり取りだけで、少しだけ空気が柔らかくなった。
ほのかは、少し顔を上げて、コンビニの袋をちらりと見せる。
「今、時間ある? 久しぶりだし、ちょっとだけしゃべらない? あそこのカフェ、まだあったはず」
指さした先には、駅前からずっとある、小さなチェーンのコーヒーショップが見えた。
正直、あまり人と話したい気分ではなかった。
でも、自分の頭の中が、ノアのことでいっぱいになっているのも自覚している。
少しだけ、現実の空気を肺に入れた方がいいのかもしれない。
「……一杯くらいなら」
「やった。じゃ、行こ」
ほのかはぱっと笑って、先に歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、凛は小さく息を吐いた。
(……本当に、偶然、なんだよな?)
そう思いつつも、さっきスマホに一瞬だけ映った不可解なログのことを思い出す。
[ob■■■■-00:user_rin/signal_check]
本当に偶然なのか。
それとも、また誰かが、上から糸を引いているのか。
答えはまだ出ない。
カフェは、昼前の時間帯のせいか、そこまで混んでいなかった。
窓際の二人掛けテーブルに座り、それぞれドリンクを注文する。
ほのかはカフェラテ。
凛はホットコーヒー。
「ブラックいけるんだ?」
「いけない。さっきコンビニで買って、撃沈したとこ」
「学習しよう?」
「今してるとこだよ」
そんなくだらないやり取りをしながら、凛はカップに口をつけた。
コンビニの缶よりはまろやかだが、それでも苦味が舌に残る。
ほのかはカップを両手で持ちながら、じっと凛を見ていた。
「……ほんとに、篠崎くんなんだね」
「本人だよ。一応」
「変わんないなあ。あんまり喋らないとこ」
「お前が喋りすぎなんだよ」
「それは否定しない」
くす、と笑う声に、少しだけ懐かしさを感じた。
高校時代、教室の隅から聞こえてきた笑い声が、こんな感じだった気がする。
「卒業してから、どうしてたの?」
「適当に、働きながらゲームして、寝て起きて、またゲームして、みたいな」
「それ、だいぶ省略されてない?」
「詳細に語るような人生でもないし」
「そんなことないと思うけどな」
ほのかはストローを指でくるくる回しながら、窓の外に視線を向けた。
「私もさ、社会人なってから、わりとゲームばっかやってた」
「見た目はちゃんとしてそうなのに」
「見た目だけだよ。中身はだいぶ廃れてる」
「自分で言うな」
言葉のキャッチボールをしているうちに、少しずつ緊張が解けていく。
凛も、ほのかも、ごく普通の再会を演じていた。
ただ、凛の胸の奥では、別の何かがずっと渦を巻いている。
(ノア……)
笑いながら喋っていても、ふとした瞬間に、あの泣き顔がフラッシュバックする。
それを誰にも悟られないようにするのは、思っていた以上に消耗する作業だった。
「ねえ、篠崎くん」
ふいに、ほのかが真面目な声で呼んだ。
「ん?」
「倒れたって聞いたよ。VRゲーム中に、だって」
凛は僅かに息を呑んだ。
「……誰から?」
「同じ高校の子。たまに連絡取ってて。
ニュースに名前出てたよな?って」
「あー……」
ニュースになっていたのか。
当たり前といえば当たり前だが、本人からすると勘弁してほしい。
「大丈夫なの?」
「まあ、一応。死んではない」
「死んではないって言い方やめよ?」
ほのかは少し眉を寄せて笑った。
「……正直、ビビったんだよね。
ああ、VRで倒れるなんて本当にあるんだって」
「交通事故とそんな変わんないだろ。運が悪かっただけだ」
「それで済ませられるならいいんだけどさ」
ほのかはカップに視線を落とした。
少しだけ迷ってから、言葉を続ける。
「私もさ、ちょっと前までVRMMOやりまくってたんだ」
「……前まで?」
「今はちょっと、ログインしてない。
なんか、怖くなっちゃって」
なるほど、と凛は思う。
自分の倒れたニュースを見て、VRから距離を置いた、ということか。
「……どんなゲームやってた?」
「《GODSLAY-R》って知ってる?」
その名前を聞いた瞬間、心臓が一拍飛んだ。
現実世界のカフェの空気が、一瞬だけ遠のいた気がした。
「あー……まあ」
「まあ、じゃないでしょ。
あれ、たぶん私の人生の黒歴史トップ3には入ってる」
「そんなに?」
「廃人並みにやってたからね。
大会配信とか、ランカーの動画とか、ずっと見てた」
ほのかは苦笑した。
「Rin_404ってプレイヤー知ってる?」
「…………」
「知ってるよね、そりゃ。トップランカーだったし」
心臓の音が、さっきより明確に聞こえてくる気がした。
ほのかは、カップの縁を指でなぞりながら続ける。
「うちのギルド、何回か一緒にレイド行ったんだよ。
こっちは勝手に有名人と遊んだー!ってテンション上がってたけど」
凛は視線を少し横に逸らした。
(……確かに、ホノカ☆って奴がいた。まさかそんなありきたりな……って俺も人のこと言いえねぇか)
「私はホノカ☆って名前でやってた。覚えてないだろうけど」
「いや……」
言いかけて、凛は口を閉じた。
(覚えている。
突撃癖はないくせに、変な道を見つけては迷子になる。
回復職なのに、敵の動きを妙に観察していた。
そんなプレイヤーだ。)
でも、ここで即座に頷くと、それはそれで不自然だ。
ほのかは、こちらの葛藤に気づかないふりをしつつ、話を続けた。
「でね。さっきから見てて思ってたんだけどさ」
そう言って、彼女はじっと凛の手元を見た。
「その、カップの持ち方。
前に配信で見たRin_404の手元映像と、すごく似てて」
「……手元映像」
「ほら、大会の時、上位者の操作カメラあったじゃん。
マウスの持ち方とか、薬指の置き方とか、ちょっと変わってたでしょ」
凛は、無意識にカップを持つ手を見た。
癖は、簡単には抜けない。
「それに、そのキーホルダー」
ほのかは、凛のカバンの端を指さした。
そこには、《GODSLAY-R》の初期イベントでもらった、今では手に入らないノベルティがぶら下がっている。
「その組み合わせ、完全にあの頃のままでさ」
ほのかは、少しだけ息を吸い込んだ。
「……もし違ったら、本当に笑い話にしてほしいんだけど」
「…………」
「Rin_404って、篠崎くん、だよね?」
その問いは、とても静かな声だった。
責めるでもなく、期待しすぎるでもなく、ただ事実を確かめるための音。
凛は、しばらく黙っていた。
喉が渇く。
コーヒーはまだ半分以上残っているのに、飲む気にはなれない。
(言わなくてもいい。
ここで笑ってごまかして、そんなわけないだろって押し切ることもできる。
でも、それをしたところで、何になる。
現実でも、ゲームでも、嘘を重ねた先に待っているのは、たいていロクなものじゃなかった。)
凛は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだよ」
カップをテーブルに置き、ほのかの方を見る。
「俺がRin_404だ」
一拍間があって――ほのかの表情が、一気にほどけた。
「やっぱり……!」
声が少し震えている。
驚きと、嬉しさと、少しの安堵が混ざった顔だ。
「よかった……。ずっと、聞いてみたかったんだ。
間違ってたらどうしようって思って」
「そんなに聞きたかったのかよ」
「聞きたかったよ。
だって……」
ほのかは、少しだけ視線を落とした。
「私、VRゲームやめようって思ったきっかけが、Rin_404なの」
「……俺?」
「うん。
あの人ですら倒れるなら、私みたいなのが続けてたら、本当にやばいかもって」
冗談めかして言うが、その言葉の奥に、本物の恐怖が滲んでいた。
「ニュース見てさ。
トッププレイヤーが接続中に意識不明って見出し。
心臓止まるかと思った」
「心臓止まったのは俺の方だと思うが」
「そういうとこだよ」
ほのかは、呆れたように笑いながらも、目元は少し赤かった。
「……生きててくれて、よかった」
その言葉は、やけに真っ直ぐ凛の胸に入ってきた。
ノア以外の誰かに、そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「……まあ、なんとか」
照れ隠しのようにカップを持ち上げる。
「でも、俺としては、向こうに置いてきたもんが多すぎてな」
「向こう?」
「……あっちの世界の話だよ」
軽く笑って誤魔化した。
本当の意味では、笑えない話だ。
ほのかは、しばらく黙って凛の顔を見ていた。
「……ねえ、篠崎くん」
「なんだ」
「もし、また ユグドラシル に戻るつもりがあるならさ」
ほのかは、カップをそっとテーブルに置いた。
「私も、一緒に行っていい?」
その言葉に、凛は目を瞬いた。
「……なんで」
「だって、置いてきたものが多すぎるって……」
ほのかは、真剣だった。
「一人で行ったら、多分また倒れる。
でも、二人なら、もしかしたら、ちょっとはマシかもって思った」
「医者はそんなこと言ってなかったけどな」
「医者じゃないし、専門知識もないけどさ」
ほのかは、胸に手を当てる。
「でも、GODSLAY-Rの時、何回も一緒に死にかけたでしょ。
あの時みたいに、回復役がいた方が絶対マシなんだよ」
その理屈は、馬鹿みたいにゲーム的で、同時にやけに説得力があった。
凛の胸の奥で、あの瞬間の記憶がざわつく。
審問領域で泣きそうに手を伸ばしてきたノア。
ログアウトの直前、途切れそうな声で呼ばれた名前。
『りん……すき……』
ただその記憶が胸の奥で痛んだ。
ほのかの言葉とは関係なく、思い出が勝手によみがえるだけだった。
「……お前、本当に物好きだな」
凛は、ゆっくりと息を吐いた。
「危険な目に遭ってまで、またあの世界に行きたいって言う奴は、そうそういないぞ」
「危険な目に遭ったのは、篠崎くんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「それにさ」
ほのかは、少しだけ笑った。
「私、前から一回言ってみたかったんだよね。
もう一回、一緒に組んでくれませんか、Rin_404さんって」
「ゲーム内と口調違いすぎだろ」
「こっちが素なんだよ」
凛は、ふっと吹き出した。
笑えるとは思っていなかった。
でも、口元が緩んでしまったものは仕方がない。
「……考えとく」
「考えるんだ?」
「簡単にいいよって言ったら、それはそれで軽すぎるだろ」
「たしかに。
じゃあ、真剣に検討しておきますってことで」
ほのかはカップを飲み干し、席を立った。
「とりあえず今日はここまで。
また連絡してもいい?」
「……ああ」
「LINE、変わってない?」
「たぶん変わってない」
高校時代のグループに埋もれていたはずのアカウントが、
まさかこんな形で掘り起こされるとは思わなかった。
店を出ると、外の空気は少しだけ暖かくなっていた。
「じゃあ、またね、篠崎くん」
手を振って去っていくほのかの後ろ姿を見送りながら、凛はスマホの画面をちらりと見た。
そこに、ほんの一瞬だけ文字が滲む。
[ob■■■■-00:link_established]
すぐに消えたそのログを、凛は目を細めて見つめた。
(……やっぱり、偶然なんかじゃねえよな)
胸の奥で、何かが静かに燃え始めていた。
ノアの声。
巫女たちの視線。
名前の読めない観測者の、無言の視線。
そして、倉島ほのかという存在が、現実のほうで静かに揺れ続けていた。
仲間になるかどうかはまだわからない。
けれど、あの言葉は――確かに凛の心を動かしていた。
「……待ってろよ、ノア」
凛は小さく呟いた。
「今は……まだ戻れないけどさ。
必ず、お前をバグ扱いしない世界を取り戻す方法を見つけてみせる」
現実世界の歩道を、一歩踏み出す。
まだユグドラシルには戻れない。
それでも、その足音は確かに前へ進んでいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
面白いと感じていただけましたら、
評価やブクマで応援していただけると嬉しいです。
第二部もよろしくお願いします。




