お前の名は?
レウルェの言葉を鵜呑みにした訳では無いが、夜が来る度に胸がザワついた。まあ、当然、男は姿を現すこともなく、心拍数の無駄遣いに終わった。
そんなある日、街で祭りがあると聞きつけてやって来た。
普段から賑わっているが更に賑わいを増していて、賑わっているレベルを通り越して人の海だ。その波にのまれたら最後、出口を見失うパターン。
リディアは街の入り口で茫然と立ち竦んでしまい、足が前に出ない。しかし、年に一度しかない祭り。ここで怖気づいて帰ったら絶対に後悔する。
「よしッ」
拳を握りしめ、意を決して人の波の中へ。
中に入ってしまえば多少の動きにくさはあるが、方向を見失うほどもない。それ以上に、色んな食べ物良い匂いが鼻をくすぐり、目が忙しい。
「どれから食べようかなぁ~」
二コルに『食べ過ぎは禁物ですよ!!』と釘を打たれたが、今が良ければそれでいい。いざとなったら、笑って誤魔化せばいい。
そんな事を考えながら、人の波に揺られていたらドンッと肩がぶつかった。
「おっと、ごめんよ!!」
「いえ、こちらこそごめんなさ……あッ!!」
振り返ってみればそこにいたのは、先日の黒ずくめの不審者。串焼きを手にしていて、口に頬張っている。もう一方の手にも食べ物が入っているであろう袋を手にしていた。流石に装いは街に溶け込むようにしているが、黒髪と琥珀色の瞳は隠せない。それに、目を引く大振りなピアス。見間違えるはずない、間違いなくあの時の男だ。
「あ、あああああなた!!」
「ん?……ああ、あの時のお嬢さんか。身体は大丈夫かい?」
男はリディアに気が付いたようで、ニヤッと不敵な笑みを浮かべながら耳元で呟いた。リディアは一瞬にして顔が真っ赤に染まった。言いたいことは沢山あったのに、いざ顔を見ると脳裏に先日の事が走馬灯のように流れてきて、うまく言葉にできない。
その様子に男はクスッと微笑みながら「誘ってるの?」とポツリ。
その瞬間、ブワッ全身の血が沸騰するように熱くなった。それと同時に、文句の一つも言えない自分に腹が立って涙が滲んできた。
男は俯いて涙を堪えるリディアを見て、言い過ぎたと頭を掻きながら困惑していた。
「そうだ。ちょっとおいで」
何かを思い出したかのようにリディアの手を取り、人混みを掻き分けて進んで行く。
「ほら、俺の奢りだ。好きなの選びな」
「うわぁ……!!」
付いたところには、沢山の人だかりができていて中を覗き込むと、そこには動物を模った飴が売られていた。ウサギやオオカミ、リスやクマまで細かな所まで再現されていて、見ているだけでも楽しい。
「可愛らしいお嬢さんには、特別におまけ付けてあげる」
目を輝かせて見ていると、露店の店主が声をかけてきた。その手に可愛らしいリボンを付けたウサギの飴が握られていた。
「じゃあ、これにします」
「まいど」
店主から飴を貰い天にかざしてみると、太陽が反射してキラキラと光っている。
とても飴には見えない…食べるのが勿体ないぐらいの代物。
「機嫌は直ったか?」
ポンッと優しく頭に手を置かれた。
子供じゃないんだから…という思いがあったが、正直な所、満足している自分がいる。
「お嬢さん、名前は?」
「え?」
食べずに、うっとりと眺めていたところに声をかけられた。
「名前だよ。お嬢さんの。なんて言うの?」
「………」
「あからさまに嫌な顔しないでよ」
いくら助けられたとはいえ、不審者に教える名はない。リディアは無視して、男から離れようとした。
「あ、俺の名はティルっての。……俺の名を聞いといて、名乗らないなんてことしないよねぇ?仮にもご令嬢様だもんねぇ?」
脅し文句としては効果的で、リディアはピタッと足を止めた。相手の名前を聞いたら応えるのが礼儀。こんな事なら祭りに来るんじゃなかったとすら思えてきた。
「はぁ」
リディアは仕方ないと、小さく息を吐いた。
「リディアよ」
渋々名を口にすると、ティルは満足気に口元を吊り上げた。
「リディアか。いい名だ」
まあ、その名を口にすることは二度とないと思うけど。呆れるように思いつつ、再び踵を返した。
すると、背後から「リディア」と呼ばれた。
「またな」
そう微笑んだティルの姿は、人の波によって消えていった…