4 領地と領地
我が領地、ドロテ男爵領は広くはありません。
土産物通りを案内するくらいしか見どころがないような田舎です。まぁ、お客様にお部屋を用意する間を設けられるほど時間を潰せるような庭のない家なので、領地内をお見せしている方が時間稼ぎにはなりましょう。
とは言え、久しぶりに領地に戻った私を歓迎する領民のみなさんにより時間を大幅に取られてしまいます。
「おかえりなさいませ、フィアネルお嬢様」と声をかけられれば「ただいま。お顔を見られて嬉しいですわ」と返すしかありません。
その間、ずっと隣にいる男は誰だ、の視線に晒されるマクサージー様には申し訳ないと謝り続けています。
情けない領主の娘です。
「ランドル侯爵家にも所有する領地はありますが、ここまで領主の家族と近い位置にいる領民はいません。フィアネル様が慕われている姿を見て安心いたしました」
「そう言っていただけると助かります……」
ドロテ男爵領の土産物通りはほとんど毎日出店があります。
領地内で狩った農作物を荒らす動物の串焼きや栽培しているフルーツを使った果実水もあります。
果実水だけでなく、しぼりたてミルクとフルーツを合わせた飲み物もあるので観光客が並んでいる光景も目にできます。
久しぶりにじっくり見る領地が賑わっているのはとても嬉しいですね。
お姉さまと義兄さまが作る領地を支えたいという気持ちが強まります。
きっと、平穏で平和な世界になります。
「……覚えておられますか? あなたもランドル侯爵領の視察に一度だけ行かれたことがあるのを」
隣に並ぶマクサージー様に言われて思い出します。
領主館でジョアンニ様の誕生日パーティが開かれるからと連れて行かれたのです。パーティの同伴者として、見世物として、エスコートをされるためだけに。
「視察とは名ばかりでしたわ。だって私、侯爵領は行きと帰りの馬車の中からほんの少ししか見ていませんもの。あとはパーティだの夜会だののためにお屋敷から一歩も出てません」
「……そう、でしたね。ですが、その馬車の中であなたが言った「人々の笑顔が多いのは良いことだと思います」という一言が忘れられませんでした」
言いましたっけ、そんなこと? と首を傾げますが、言いはしません。マクサージー様が忘れられないと言っておられるので、私は言ったのでしょう。
正直、侯爵領での日々を思い出せはしますが思い出したい記憶ではございません。
私は着せ替え人形だと言い聞かせて何とか乗り切った日々だったのですから。
ただの着せ替え人形であればまだ良かったのかもしれません。侯爵令息に見初められた男爵令嬢なんて、ほとんど奴隷に近い見世物でしかなかったのです。
そして、捨てられた哀れな奴隷なのです。
今は元の男爵令嬢に戻れたので、呼吸もしやすいですよ。
一人で生きていくのだと決めたからでしょうか。世界が明るく見えます。
「侯爵家の中に笑顔なんてありません。笑顔はランドル侯爵一家だけのもので、その他の労働者階級に笑顔は許されない。そんな空気です」
そう言えばそんな感じだった気もします。
まだ解放されてから一週間も経っていないのに、すでに遠い過去のような気がしていました。
ですが、まだその笑顔のない世界にマクサージー様は生き続けていかなくてはならないのですね。
私もマクサージー様の前ではまだ笑顔を見せない方がいいのでしょうか。
そんなことを考えている頭の中を見られたのでしょうか、マクサージー様はおっしゃいます。
「あなたの笑顔を見られて安心しました。フィアネル様の笑顔が見られただけでも来た甲斐があったというものです」
「マクサージー様……あの、私はジョアンニ様……いえ、婚約者ではなくなったのでランドル様とお呼びすべきでしたね。彼の方から捨てられた私にそのようなことをおっしゃらないでください」
「本当のことですよ? あの方の言葉にすべて従うべきではないと思い知りました」
苦笑する横顔に何も言えません。
もしかするとお姉さまもお父さまも、マクサージー様の境遇を見抜いて我が家での一泊を提案したのかもしれません。
私は私のことしか考えられていませんでした。
反省します。
「ところで……不躾な質問をしても構いませんか?」
下がっていた顔を上げると、マクサージー様がこちらを見て瞳を揺らします。
不躾な質問をマクサージー様がするとは思えませんが、質疑応答ならばどこかで腰を下ろした方がいいかもしれません。私は近くにあるお茶屋さんに案内をして、他のお客様に会話が聞こえないようなテーブル席に座ります。
このお茶屋さんは王都のお母さまの研究所直営なのです。
お母さまは新しい茶葉の研究もしておられますので、その試作品が卸されます。
「質問とは何でしょうか?」
頭のすっきりする新作の紅茶を注文して、届くのを待つ間に尋ねます。
「あなたの姉君は、あなたがこちらに戻られてからしばらく塞ぎ込んでいたと言っていました。それはその……ジョアンニ様に婚約を破棄されたからではありませんか? そして回復されたのは……新しい婚約者を見つけられたから、とか」
「婚約を破棄してすぐに新しい婚約者なんて見つけられませんわ」
せっかく前を向いているのに、また目の奥に涙が集まるのを感じます。
「ジョアンニ様からの婚約破棄にあなたは「婚約関係の解消は大変嬉しく思う」と言っていました。それは偏に、以前から慕う誰かがいたのだと推察します。もしかして、その方と新たに婚約を」
「していませんわっ! 勝手なことを言わないで!」
その大声が自分から発されたものであると認識したのは、店内の壁を跳ね返った声を聞いてからでした。喉の痛みを覚えたのもあって口を両手で押さえます。
なんということをしてしまったのでしょう。
お店の中なのに、大きな声を出してしまいました。それに侯爵家に仕えるマクサージー様に向かって、いくらそれ以上失恋の傷を抉ってほしくなかったからといっても、淑女にあるまじき失態です。
「申し訳ありませんっ! 大きな声を、私……」
「い、いえ、こちらこそすみませんでした。あまりにも酷いことを言いました……。焦っていたのだと、今更ながらに自覚しております」
「焦って……?」
「こちらの話です」
情けなさのあまり手を顔から離せない私に代わって様子を見に来た店員さんたちを下がらせてくれるマクサージー様も、顔を背けておられます。
お互いに何も言えないまま紅茶が運ばれます。
湯気の上がる紅茶と、緑の蔦が描かれたカップに動揺していた心が落ち着いてきました。
「……このお茶は、お母さまの研究で生まれたものなのです。気持ちをすっきりとさせてくれるのですが、王都で寂しい気持ちになっていた私の一言で生まれました」
カップを持ち上げて香りを楽しみます。
すっと鼻を通り抜ける爽やかな香り。
王都に行くことになった経緯。見初められて突如として始まった数々の教育に音を上げそうになったことなど、話さなくてもいいことのはずなのに、自然と話してしまいます。
マクサージー様は嫌がらずに、時には相槌を打って私の話を聞いてくださいました。
そして、話は領地に戻ってきてからのものになります。
「私、小さな頃からずっとお慕いしていた方がおりました。すぐ隣の領地の方で、家族ぐるみで仲良くしていた子爵家の嫡男です。王都に行く前までは将来の結婚相手はお互いだと言い合っていたのですが、私が王都に行っている間に別のお相手と出会い、そして……求婚に成功したと言われました」
「そ、れは……」
「私が塞ぎ込んでいた理由とは、まさにこれのことです」
他人に――元婚約者の側近に話す内容ではありませんが、最後まで話してしまえば気持ちがさらに軽くなりました。
失恋して、泣き続けて、将来に悲観して、希望を見つけて、誰かに話したことできっぱりとアダムス様への気持ちが消えました。
「つまらない話を最後までお聞きいただいてありがとうございました。……そろそろ、戻りましょう。お部屋の用意も整ったかと思います」
「そうしましょう。帰りが遅くなっては心配もされるでしょうし。ただ……」
「なんでしょう?」
「つまらない話では、ありません。あなたの心を知れてよかった」
「マクサージー様……」
本当に優しい方です。
きっとマクサージー様が提案して行動してくださらなければ、謝罪や慰謝料の送付もされなかっただけではなく、侯爵家に置いたままにしていたお姉さまを想った花も、その種も私の手元には戻りませんでした。
心遣いのできる、立派な方です。
帰りの馬車の中は静かなものでした。
会話はなく、窓の外に見える男爵領の景色を眺める横顔につい目が向いてしまいます。この方の目に我が男爵領はどのように映っているのかが、気になりました。
「マクサージー様は、このままランドル侯爵家で側近を続けていかれるのですよね?」
「……どうでしょうね」
なんとなく聞いてみた問いかけに、優しい笑顔で曖昧な返事をされました。
侯爵家の中に笑顔はないと言ったり、主に代わって謝罪に訪れたりと忙しいマクサージー様の将来を私ごときが不安に思っても仕方ないのですが、自分勝手な不安は私の心に残ります。
関係のなくなった私が詳しいことを聞いたところで、どうにもできません。
馬車が到着して、マクサージー様が使用人に部屋を案内される後ろ姿を見送ることしかできません。
私が彼にできることなんて、何もありはしないのです。
私も部屋に戻って着替えます。
慣れない派手なドレスというのは意識の外にあっても疲れるみたいです。ウエストも解放されて呼吸も楽になります。
ふと部屋の中にはなかったはずの香りがして探します。
「お嬢様、いただいたお花を姉妹で半分に分けて飾るようにとファルネル様が言われましたのでそのようにしていますよ」
「そうなのですね。……香りはもう少し改良の余地がありそうです」
「まぁ、お嬢様ったら」
もっとふんわり香るようなものにした方がいいかも、なんて考える私を使用人が笑います。コリンナさんではない女性です。私が王都に行った後に入った方のようですが、挨拶をしたような、していないような。……後でお姉さまに聞きましょう。
晩餐の準備が整ったとの知らせを受けて部屋を出ると、なんとマクサージー様がおられました。
「姉君からキリアン殿にエスコートしてもらうから私にフィアネル嬢をエスコートしてほしい、と言われたのですが……」
「お、お客様になんてお願いをしているのですかお姉さまは……!」
私が婚約破棄されたことを怒っているのかもしれませんが、マクサージー様は関係者であって関係のない方なのに。
「フィアネル嬢さえよければ、エスコートをさせていただけますか? ジョアンニ様より丁寧だとお約束しますよ」
「……そう言えば、マナーの練習にお付き合いいただいていたことがありましたね」
「覚えてくださっていましたか」
「ええ。マクサージー様とのダンスレッスンはとても楽しい時間でした」
正しくは、差し出された手を見て思い出したのです。
男爵と侯爵では使うマナーなど違うことが多く、エスコートの受け方やダンスなど、相手が必要なレッスンでは度々マクサージー様が務めてくださっていました。
年齢も近く、主従ということもあってジョアンニ様の癖なども教えてくださいました。
差し出された手に指を置いて、エスコートを受けます。
「マクサージー様、身長が随分と伸びたように思うのですが?」
「はい、成長期が長くありましたので」
「まぁ、そうだったのですか?」
マクサージー様は確か私の三つ年上でしたか。
あら、今年で二十歳。
婚約者がいてもおかしくないのですが、一度も聞いたことがありませんね。
馬車の中で今後も侯爵家の側近として働き続けるのかを尋ねた際に微妙なお返事があったのは、もしかするとご結婚の予定が関係しているのでしょうか。
結婚を諦めた私が言えたことではありませんが、お優しいマクサージー様がお優しいご令嬢と幸せになるように願いましょう。
もう一話、更新あります。