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2 姉妹と紅茶

 一体、どうやって家に帰ってきたのか覚えていません。


 アダムス様の言葉に強いショックを受けて、どうにか「おめでとう」と言ったことまでは覚えています。

 そして領地に帰ってきた私に「辛かっただろう。またそちらの家に顔を出すから、休めるなら休んでくれ」と顔色が悪かったであろう私を気遣う言葉をくれました。

 そんなに優しくするのに、どうして他の女性に求婚したのかと、聞いたのか聞いていないのか、そこからが分かりません。

 いいえ、きっと聞けてはいないはず。私はそういう人間なのですから。

 言葉を失って、休めと言われたから帰った。きっとそれだけのはずです。

 久しぶりの家に帰って、綺麗に保たれていた自分の部屋に入ってからは、私はずっとベッドに伏していました。


 体調を崩したわけではありません。

 ただただショックだったのです。


 家族に、使用人たちに、「おかえりなさい」と言われて歩く廊下の時点でも危なかったのですが、部屋に入ってしまったらもうダメでした。

 涙が止まらなくて、どうしようもなくなりました。

 ジョアンニ様に婚約を破棄され、初恋のアダムス様に失恋して、私の心はもう限界でした。

 これまでの私を作り上げてきた感情が、まるで根幹から崩れたかのような気持ちでした。

 涙は三日三晩流れ続けました。

 部屋からは出られず、食事もまともに摂れません。

 代わる代わるやって来る家族や使用人たちに情けなく助けられながら、ギリギリのところで生きていました。

 きっと今の私は周囲が言うような綺麗とは程遠いでしょう。

 扉の向こうからお父さまがジョアンニ様に怒っている声が聞こえますが、どちらかと言えばこの涙はアダムス様が原因だとは言えません。

 大切に抱えていた恋心は、伝える間もなく砕け散ったのです。

 いえ、厳密には砕けた欠片は残っているのか、アダムス様を想う気持ちが消えていないので余計に苦しんでいる最中ですね。

 あとはまぁ、勝手に惚れて求婚して教育まで施していたくせに破棄したジョアンニ様も悪いとは思います。否定はしませんし、お父さまのお怒りはごもっともなので止めるつもりもありません。

 三日三晩流れ続けた涙もとうとう尽きてしまったようで、流れなくなりました。

 涙も枯れることがあるのか、それとも泣くことに疲れたのか分かりませんが、ともかく泣きすぎて頭が痛くなったのは事実です。

 私は普通に体調不良により寝込むことになりました。

 ただの泣きすぎての頭痛なので心配されても困るのですが、使用人のみなさんは甲斐甲斐しくお世話をしてくれます。

 男爵家なので使用人はたくさんはいません。領地に住んでいる誰かの奥様たちが時間を決めて働きに来てくれています。お給金は出ますし、厳しいルールなども特にはありませんので空いた時間に入れる人が入るような感じです。

 ドロテ男爵家は領地のみなさんと近い距離にいるので、使用人に入る人たちとも顔見知りです。


「大丈夫ですよ、お嬢様。お嬢様の味方はたくさんいます。なので、たくさん甘えてくださいね?」


 そう言って額に乗せた濡れ布巾の位置を正してくれるのは、収穫した農作物をまとめている家の奥様。

 メイラおばさんと呼ばせていただいています。

 ふくよかな体型と丸みを帯びた手の平は安心感を与えてくれるのです。


「私、結婚なんてできないかもしれないわ」

「まぁ、大胆な発言ですこと」

「ううん。結婚できないかもじゃなくて、怖いのよ。結婚とか婚約とか。悲しいだけだわ」

「フィアネルお嬢様……!」


 尽きたと思っていた涙がまた溢れます。

 メイラおばさんが抱きしめてくれて、さらに溢れます。


 私、もう恋なんてしたくない。

 結婚もしたくない。

 婚約ももうたくさん。


 この家はお姉さまが継いでくれるし、義兄さまもいるので、家の将来は安心です。私はこの領地で、いえ、王都のお母さまの研究をお手伝いして生きていきます。

 ああ、そう言えば、大事なものをランドル侯爵家から持ち帰るのを忘れていました……。

 けれど、あまりにも多すぎるので持ち帰るのは無理ですね。諦めるしかありません。

 また新しいことに挑戦すればいいのです。お母さまもそう言って新しい研究を始めることもありますから。

 メイラおばさんの胸を借りて十分に泣いたからなのか、将来の私の身の振り方の案が浮かんでからなのか、とにかく頭の中がすっきりすると、お腹がようやく空いてきました。

 実家に戻ってから初めての食欲です。

 三日三晩部屋から出なかった私が扉を開けたのですから、家中がお祭り騒ぎになってしまいました。


「フィーネ! 心配したのよ!」


 真っ先に飛んできてくれたのはお姉さまでした。フィーネは私の愛称です。家族が主に呼ぶ名です。

 声が聞こえたのでそちらを向いたのですが、その時にはすでにお姉さまは宙を浮いておられて、そのまま私に飛び込んできました。


「ごしんぱ……げほっ!」


 泣いてばかりで水分すらまともに摂っていなかった私の声はカスカスです。


「いいのよ! とりあえず飲み物を飲まないとね! 新しく開発されたお母さまの紅茶があるわ! それを飲みましょう!」


 私に喋らせまいとお姉さまの声が張って、指示を出さなくても使用人たちが動くのが分かります。


 新作の紅茶。

 それは王都にお母さまのお手伝いに行った年に私がぽつりと言った「飲んだだけで気持ちがすっきりするような紅茶ってありませんかしら?」から始まったあれでしょうか。

 領地から離れてお姉さまやアダムス様に会えない寂しさから出てしまったのですが、どうやらお母さまは完成させてくれたようです。

 一度だけ試作と言われて飲ませていただいたものは、とてつもなく辛くてお母さまに強くダメ出しをしてしまいました。

「どこが気持ちがすっきりですか! これでは眠りそうな頭がすっきりです!」

 あまりにも辛くてそう叫んでしまったのですが、どうやら辛い紅茶も使いようがあったらしく、製品化してしまいました。

 お母さまのような研究者たちに売り出していました。今でも売られているのでしょうか?

 話が逸れてしまいましたが、いきなりたくさんを食べるのは危険だからとティータイムが始まりました。

 お母さまのお作りになった紅茶と、ジンジャークッキー。フルーツを使ったマフィンも用意されています。

 どれもじんわりと優しい甘さに包まれて大変美味しいです。

 胃の中もほどよく満たされ、荒んでいた気持ちがすっきりと流れていくようです。


「やっとフィーネの笑顔が見られたわ」

「ご心配をおかけしました」

「いいのよ。悪いのはあの侯爵家の坊ちゃんだわ。フィアネルの人生を何だと思っているのかしら」


 ファルネルお姉さまが腕を組んで怒っているのを見ると、私こそ怒るべきだったのだと分かります。

 婚約破棄を言い渡された瞬間は怒りや悲しみよりも喜びが勝っていましたので、忘れてしまっていたようですね。

 最後の言葉も「ごきげんよう」でしたし。


「お姉さま、実はジョアンニ様のことはどうでもいいのです。結婚をしてしまう前で助かりました。それに……」


 流れるように出た「それに」に小さく驚いてしまいました。


「そうよね! 結婚をしてしまったら離縁なんて簡単にはできなくなってしまうもの」


 そうだわ、と紅茶を飲み干すお姉さまには私の「それに」に気付いていない様子でしたので、少しだけ言おうとした言葉を思い浮かべてみましょうか。


 ――それに、婚約が破棄されるような行動をしたのは私ですもの。


 そうです。いつの間にか忘れていました。

 私はアダムス様の元へ帰りたいと強く願い、そういう行動をジョアンニ様の前でしていたのでした。

 具体的にはお母さまの研究所でお手伝いしていた研究の雑多なメモ書きを侯爵家に用意されていた私の部屋でまとめたり、侯爵家のお庭の一部をお借りして私なりの研究をしたりなどです。


 ジョアンニ・ランドル侯爵令息というお方は体を動かして働く人物のことを蔑む傾向にありました。

 上に立つものは下々が持ってくる報告書や決裁書に目を通して判を押すことだと信じておられます。なので、せっせと働く私のことをずっと下に見ておられました。男爵令嬢なので侯爵令息が下に見るのも当たり前と言えばそうかもしれませんが。

 朝からお昼を過ぎた頃まで花嫁修業や高位貴族教育に励み、空いた時間に研究の真似事をして、夕方以降はジョアンニ様が出席される夜会などの準備をするのが日課でした。

 顔で選んだ婚約者を見せびらかすことは俺の趣味であり仕事と言えるだろう、と私本人に恥ずかしげもなく言い放っておりましたし、それに嫌な顔も反論することも私には許されておりませんでした。

 私という存在が消えていく感覚を覚え始めた頃、誰かに言われたのです。


「あの方はあなたの顔が好みなだけですので、飽きたり嫌気が差したら解消もあり得るのでは?」


 誰に言われたのか覚えていません。

 気のせいだったかもしれません。

 私の願望が幻聴を呼び寄せた可能性も否定できません。


 しかし、その言葉があったからこそ私は睡眠を削ってでも研究に時間を割くようになったのです。

 お母さまの研究所に通う頻度を少し増やしただけでジョアンニ様の雰囲気に怒りが滲んだのを覚えています。

 そうして三年半の婚約期間を終えたのです。


「そうです……。やっとアダムス様に想いを打ち明けられると、思っていたのに……」


 ぽつりと呟いた私の声に、お姉さまは目を丸くした後に口元を手で隠しました。丸かった目は驚きでさらに見開かれています。


「フィーネ……」

「お姉さまはご存じでしたか? アダムス様、求婚に成功したのだそうですよ」

「二日前に、アダムス様があなたの様子を見にいらしていて、その時にお聞きしたわ……。まさか、フィーネ、あなた、その涙の理由って……」


 いまだに目の周りが赤い私のことを気遣ってくれていたようです。それに二日前にアダムス様が来られていたなんて知りませんでしたし、きっと泣き止まない私に全員が配慮をしてくれたのでしょう。優しい人たちなのです。


「お姉さまもアダムス様もお幸せそうで……私、何より、です……。私だけ、ダメだったのですが」

「フィーネ! いいの! いいのよ! きっとあなたのことを誰よりも、私よりも、アダムス様よりも幸せにしてくれる素敵な方が現れるわ!」

「お姉さまったら……義兄さまにもアダムス様のお相手の方にも失礼だわ」

「だって、だって……!」


 ガタンと派手な音を立てて椅子から立ち上がったお姉さまは強く私を抱きしめてくれました。

 椅子が倒れてしまって、その音で使用人たちが何事かとやって来ます。やがて、誰かが呼んだのでしょう、お父さままでやって来て、私はお姉さまとお父さまの二人からぎゅうぎゅうと抱きしめられました。

 正直、とても苦しいですわ。


 涙はもう出ません。

 出す必要はなくなりましたから。

 私はもう、一人で十分。

 領地に住む人たちの笑顔があれば、生きていけそうですもの。


 まだ満足のいく笑顔はできませんが、笑うことはできます。なので笑って二人を引き離します。


「しばらくここで休んで、元気になったらまたお母さまのお手伝いに行こうと思います。結婚なんてしなくてもお母さまの研究で領地のみなさまの暮らしが豊かになれば、それが私の幸せになると思います」

「あんなことをされたのに、また王都に行ったら同じことの繰り返しになってしまうかもしれないのだぞ?」


 アダムス様のことを知らないお父さまに心配そうに覗き込まれますが、王都に戻ったところで同じようにはならないと思うのです。


「恐らくジョアンニ様は私と婚約破棄したことを言い広めているでしょうし、そうでなくとも夜会に私の姿がなければ噂はすぐに広まります。そんな私に声をかけてくる殿方も家もないと思います」

「そうかもしれんが……」


 すぐに否定をしないお父さまは、私の立ち位置を冷静に理解してくれているようです。

 お母さまと一緒に行動していれば、私も不安にはならないでしょう。そう言うとお父さまは言いにくそうな顔をなさいます。


「お父さま? どうなさいまして?」


 お姉さまが促します。


「実はな……ランドル侯爵家から慰謝料と謝罪の手紙が届いているんだ。明日、屋敷に来られる。ああいや、来るのは側近の男のみらしいんだが、あの家の名がフィアネルの耳に入るかもしれんと思うと今言っておくべきかと……」

「側近の方って……」

「本人や侯爵と奥方が来られるよりはマシかと考えて受けたのだ。賠償金なぞ貰えるものは貰っておこうとも思うし」

「お父さまったら……」


 呆れたお姉さまの声にお父さまの方が少し縮まります。


「それにだな、お前に渡すものと返すものがあるとあったのだ。内容までは書かれておらんかったが。……できることなら直接会って渡したいと書いてあった」

「分かりました、お会いします。渡すものが何か分かりませんが、返していただけるものには心当たりがあります」

「大丈夫なの、フィーネ……?」

「はい、お姉さま。きっとジョアンニ様の側近の方ですし、その方には婚約破棄の書類のすべてをお任せしてしまったので、そのお礼を言わなければ」


 ジョアンニ様に言い残すことはなかったけれど、そう言えば側近の方には何度か助けてもらったことがある。そのお礼を言わずに侯爵家を出てしまっていた。

 唯一良くしてくれたのは側近の方だけ。将来の侯爵夫人だから優しくしていただけだとしても、お礼は言うべきでしょう。人として。

 お世話になりました、と言う相手を蔑ろにしていい理由はありません。


「分かったわ。その場には私もキリアンも同席します。拒否は聞きませんわよ、お父さま?」

「いいだろう。その方が私も安心だ」


 そうして、明日の面会が決まりました。

 さあ、急いで目元の赤みをどうにかしなければいけませんね。


もう一話更新分あります。

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