心許せる友との会話は心が満たされる
これに関しては私が悪いのか。事件だろうに。
もしかしてイケメンなら推定無罪になる法律が、この学校にはあるのか。私の知るところではない。ないはずだ。あってはならないと思う。
机の上に腰かけて、脚と腕を組んで、宙ぶらりんになった脚が、苛立ちのメーターが上がるにつれて揺れが激しくなる。
私が回想を挟んでいる間にも、納得のいく返答と、態度が示されない事に、徐々に怒りが顕著に表れている。
何にせよ、私は土下座を強要されている原因が分からない。
これは決して私の感受性が低い訳ではない。蝶番井稟慈の地雷が分かりにくいのが悪いのだ。
蝶番井稟慈はクラス代表で、真面目で、勤勉で、クラスの中心人物で、カリスマ性があり、宗家の次女、つまりはお嬢様。
そしてこの学校に出資しているパトロン一家でもある。そんな人物の地雷を知らぬところで、私は踏み抜いてしまっているのである。
肩書だけで人を判断するならば、怒らせてはならない人物だ。
今後の学校生活が苦になるばかりか、この地域でさえ生きていけなくなるし、今後就職するならば、不利にもなる。それくらい影響力の強い一家の庇護を受ける人間。
このままでは私の学校生活が危ういので、頭を捻って原因を探る。
昼休憩。あれは昼休憩の出来事だった。
「今回のお話は無かった事に」
自分の居所である、家庭科準備室で自家製のパンを咀嚼しながら、窓の外で飛んでいる鳥を見つめる。
「ではまたのご機会に。失礼するよ」
自家製のパンは、表面はパリッと香ばしく出来上がったが、中はモチッととはならず、ネチャっとしていた。焼き過ぎに気を付けて作ってみたが、どうやら熱を通すのが甘かったか、水分過多だったか。どちらにせよ、美味いパンとは言えなかった。
「ふぅ。嘘でもいいから、見積もりを出してくれたら、こちらが何とかしてあげるのにね。商談をしようとする気はないのかね」
最近、小麦も割高である。こうしてパン製作の趣味が失敗する度に、懐が悲鳴を上げている。高利貸しにお金を借りる余裕も、度胸もない。そもそも趣味の為に、貸しを作るのは、その趣味が身の丈に合っていないという証拠だろう。何かお金のかからない、アウトドアな趣味にするべきか。
「おーい。聞いているかい?」
アウトドアな趣味とは何か。ハイキング、ツーリング、ウォーキングとかだろうか。これらには遊びの要素が少なく感じるが、球技等の趣味に走ると、道具にお金がかかってしまうのも事実。ウォーキングが一番安牌なのだろうが、正直な話、運動をメインとするならば趣味にするのは憚れる。
「上の空、雲と団欒、かくれんぼ。どうだい?」
だとすればインドアの趣味へと返ってくるのだけど、正直、第一生産系の趣味がコストパフォーマンスは良い。趣味をコスパで考えているのは、どうかと思うが、まぁこれはお金のない苦学生の最低限の心の安寧の為なのだ。
「ふむ。相当だな。よし、今から君に接吻をする」
接吻。その単語を聞いた瞬間に、我ここにあらずだった身体が躍動したかのように思えた。反射的に目の前にあった顔面の下顎を右手が捉えようとしたが、ぬるりと避けられてしまった。
「おっと、君が手を安易に出すなんて、今日は相当ご機嫌が言い様だね。もしかして、その右手の傷と関係があるのかな?」
本日二度目の平手打ちが炸裂することは無かった。彼女は二乗院教諭と同じように、勘が良く、人の先を行くのが得意だ。
そんな彼女の名前は物部虞上品なあみおろしの黒髪に、スクエア眼鏡と、その奥に輝く青い瞳。私と話す時はいつも口角が上がっていて楽しそうだ。常に糊が効いた制服を着て、スカートを折るなんて行為を知らないお上品を地で行く、会社を経営する社長であり、私が腹を割って話せる数少ない友人だ。
先程の電話も、取引先との電話だったのであろうが、契約不成立となっていた。
物部の会社は万事屋である。この万事屋は商店であるのと、何でも屋の二つを兼ね備えた万事屋である。今朝、朝ご飯を買いに立ち寄ったコンビニも、物部が経営しているコンビニだ。
商店経営は順調だし、何でも屋の方は、物部自身は人材派遣の選定くらいしかしていないが、選んだ人材が割と優秀で、そちらも順風満帆らしい。
お嬢様のような気品を持っているが、蝶番井稟慈のような、生まれながらのお嬢様ではなく、ただの会社経営者だ。お嬢様のように見えるのは、物部がそれに近しい雰囲気を持っているだけなのだ。
そんな雰囲気も、性格も違う私と物部が友達なのは理由がある。
幼少期の夏。
気が合った。
それだけだ。
「いいことなんてない。最悪の日だよ」
呆ける事で、現実から逃避して、過剰にかかったストレスを和らげたかったのに、物部のおかげで戻って来てしまった。
「そうかい? 男子に手の甲にキスをしてもうなんて、滅多にないだろう?」
「知ってて聞いてたの!? あー許せない」
「そう不貞腐れてくれるな。風の噂で耳にしただけだよ。しかし、外からの転校生に、いきなり平手打ちとは、波風を立たせないのが得意な君にしては、随分と下手を打ったね」
「いやいや、私もそんな事したくなかったんだって。そもそも手の甲にキスじゃなくて、この傷口を舐められたんだよ。理性では我慢してたのに、突発的に感情で動きたくなっちゃったの」
嫌悪感が勝ったのだから仕方のない事だし、なぜ私が悪者だという流れが出来上がっているのかが不思議でならない。
もしかして、アルカードが叩かれた腹いせにあることないことを吹聴しているのかもしれない。だとすれば、とんだ顔だけがイケメンな奴だ。
「それもまた珍しいことだね。まぁ、何にせよ噂は悪い方へと流れているようだよ」
「うわー、やだなぁ、もう明日から不登校になっちゃうかも」
「無遅刻無欠席無問題な君が、無駄な冗談を言えるなら、まだ平気だね」
「平気じゃない。何とかしてよ虞ちゃん」
「何とかしてあげたいのは山々だが、人の手から離れた物事はどうにもできないね。七十五日後になら何とかしてあげよう」
「もうそれはほとぼりも冷めてるし、皆が私を見る目も冷めてるよ」
大きくため息をつきながら、準備室の机に身体を預ける。ひんやりした感触が右頬全体に伝わってくる。もう今日はこのままここで寝てしまおうかと思いたい。
やり手の物部が何もできないなら、私はお手上げである。
自ら身の潔白を証明しようにも、校内放送を使って大々的に弁明くらいしか思いつかないので、思考能力も限界なのだろう。
いっそ。
「いっそ、怪異のせいにならないかな。なんて不謹慎な事を想ってはいけないよ」
左側頭部に優しく細長い物部の手が優しく置かれて、そう言われた。ほら、すぐ心の中を読んで、先を突いてくる。
「ほんの些細な事で回りの環境が変わろうとも、私は君の友だよ。だから元気をだしな。私は君の笑顔が好きなんだ。笑顔ベスト3も言えるくらいにね」
物部は私の頭を撫でながら、そんな垂らしめたことを言う。傷心中の人間が一番欲している言葉を、ここぞと言う時に言ってくる人たらしだ。だから人の上に立てるのだろう。
「ベスト3全部言って」
「趣味の話をしている時の無邪気な笑顔。美味しいものを食べた時の至福の笑顔。揶揄った時の悪戯な笑顔の三本だ」
「来週には変わってそう」
「君の笑顔のランキングは随時更新中さ」
慈母のような笑顔で言われた。
因みに校内には物部ファンクラブなるものがある。男子からはおろか、女子からの人気も多く、学内での人気はトップ3内にいるのは確実だと言えよう。
そんな影響力がある物部が、何とも出来ないのだから、この噂はどうにも覆らないのだ。だからこそ、現実逃避をしていたのだ。
「でも実際どうすればいいと思う? 午前中からクラスの視線を独り占めだったよ」
あれから噂が広がるのはあっと言う間だったのだろう、三限目にはクラスの全員が知っており、ひそひそと遠目で話したりして、腫れ物扱いであった。不幸中の幸いなのは事実かどうか訊ねられなかった事だろう。
「難しい質問だね。先に手を出したのはアルカード氏だったとしても、暴力を振るってしまったのは君だからね。それに、アルカード氏が事実を正そうとしていないのだから、余計にどうしようもない」
「そうだよ。あいつが訂正すればいいじゃん。虞ちゃん同じクラスだったよね」
アルカードが私のクラスに来ることは無かった。来ていたら今朝のおもしれー女じゃんみたいなノリが発動していたであろう。
アルカードは物部と同じ特進クラスであるD組へと編入した。
「同じクラスだが、いつも通りだよ。彼には近寄れない」
「あぁ、駄目なのか」
「駄目なのだよ」
落胆している理由は、特進クラスは特別なクラスで、授業中の私語は禁止。
そりゃあそうだが、授業外での交流、私語も禁止なのだ。
だから物部はアルカードと会話ができないのだ。外からの人間だから、規律の適用外だと思ったが、どうやら駄目らしい。
「じゃあお手上げだ」
「うまい事を言うじゃないか」
「別にそんなつもりじゃない」
「そうかい・・・君がアルカード氏と話をつけるのは駄目なのかい?」
「・・・柄じゃない」
「まぁ・・・それもそうか」
「もうちょっと食い下がってよ」
「面倒臭い奴だな、君って奴は。・・・仕方ない」
物部は渋々そう言ってから、私の頭を撫でるのを止めて、机の上に置いていた携帯電話を手に取って、カチカチと電話のボタンを押して、何やら文字を打っているようだった。
「ふむ。こんなものでいいだろうか」
暫くして、納得のいく内容が出来たようで、ようやく机から起き上がった私と目が合った。
「何をしてくれたの?」
「助け舟を出しただけさ。放課後を楽しみにしてくれたまえ」