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記憶以外の症状は良くなり、心も大分落ち着きを取り戻した彼は、いよいよ退院する事になった。
本人は大変嫌そうだったが、ずっとここにいる訳にもいかないので退院後はうちの屋敷に帰ってくる。
ずっと病衣だった彼の久しぶりの普段着の姿を見ると、いつもの彼に戻った気がした。けれど。
「先生、ありがとうございました」
「いえ、私は何も」
「………」
わざわざ見送って下さる医師に私は頭を下げる。
しかし彼は何も言わずにそっぽを向いているので、思わず小さく声を掛けると、渋々といった感じで彼も頭を下げた。
精神年齢が違うとはいえ、本当に同じ人間だろうか。
あのいつもの低姿勢だった彼とは似ても似つかなくて、一体いつからあんな丁寧な人になったのだろうと疑問を抱く。
無愛想だし、礼儀もないし、復職なんてまだまだ無理だろう。
これからの事が不安でしかない気持ちのまま馬車に乗り込み、私達の屋敷へと向かった。
「…何か、思い出した事はありますか」
何も言わずに屋敷を見上げる彼にそっと話しかけてみる。
けれど彼は何も、とだけ答えた。
「ゼスト様、お帰りなさいませ」
この屋敷の使用人達には、彼の事情はもちろん説明してある。
ベイはいつもの優しい笑みを讃えながら、彼を労った。
「…誰」
「執事のベイでございます」
「執事…?」
ベイは彼と同世代だ。
大体執事長を務める者は長年仕える者が殆どなので、一般的な執事に比べたら随分と若い。彼が驚くのも無理なかった。
「ベイは初めて屋敷を所有するあなたの為に、私の父に紹介してもらった人です。
大変優秀で、あなたも大変助かるとよく褒めていましたよ」
「ありがたきお言葉です。
さ、お二人ともお疲れでしょう。お食事を用意しておりますのでどうぞ」
彼は案内されるまま大人しく従う。
というより、何だかされるがままといった感じだ。まるで抜け殻の様な彼に、私はまた一つ心配になるのだった。
「お口に合いますでしょうか?」
黙々と食べる彼に、全ての食事を賄ってくれているシェフのジェットが和やかに問う。彼は無言で頷いた。
それを嬉しそうに見つめた後、ジェットが彼のグラスにシャンパンを注いだ。
「え…」
「よくお出ししていたものでございます」
明らかに困惑した様な彼を見て、私ははっとした。
「ジェット、今の彼はお酒は嗜まないのでは?」
「あ…そうでした。先に伺うべきでしたね。申し訳ございません」
今の彼は13歳なのだ。
反応から見るに、彼は初めてお酒と対面したらしい。
「お下げします」
「待って」
しかし、すぐに下げようとしたジェットの手を私は止めた。
「身体はもう大人ですし、お酒は好まれていましたから、アルコールに弱いという訳ではないと思います。
無事退院出来た祝いに、乾杯しませんか」
そう言いながらジェットに私のグラスを差し出す。
そして同じシャンパンを注いでもらい、彼の方へ掲げた。
「挑戦してみましょう。
そんなに癖はないと思いますよ」
彼からしたら折角飛び級で大人になれたのだから、少しは楽しめばいい。
そう思いながら提案した結果、彼はおずおずとグラスを持った。そして私が傾けたグラスに当てて乾杯する。
私もジェットも、サーブしてくれているメイドも思わず凝視する中、彼はシャンパンを一口含んだ。
「……っ」
あからさまに歪んだ表情の彼。
私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ…苦かったですか?」
「…少し」
「魚と一緒に飲むと美味しいですよ」
そう言うと、彼が私に言われた通りに従う。
「…まあ、確かに」
「でしょう」
その時、よく考えたら彼とこうして晩酌したのはかなり久しぶりだと気付く。
毎日朝は早く帰りは遅かったし、そもそも帰ってこない事が殆どで、ゆっくり一緒にお酒を飲んだのはもしかしたら結婚したその日だけだったかもしれない。
『ハルリナさんは、お酒はあまり嗜まれないようですね』
『ええ…最近まで仕える身でしたのであまり』
『そうですか。私の周りは仕事柄か大酒飲みが多くて、どんどん飲まされる内に好む様になりました』
『そうなのですね。あの…良かったら、私にも教えて下さい』
『ええ、私で良ければ』
「奥様?」
「…え?」
いつの間にか飲み切ったグラスを片手にぼうっとしていたらしく、メイドに声をかけられて我にかえる。
「お注ぎしてもよろしいでしょうか」
「ええ…お願い」
トトト、とシャンパンが私のグラスを満たす。
彼はまた、恐る恐るシャンパンに口をつけていた。
食事が終わる頃には夜も更けて、部屋へと戻る。
後ろからついてくる彼から、緊張の空気を感じた。
何故だろうと思いつつ、私は何も考えずに自分の部屋の扉に手をかけていた。案内すると言ったのに、久しぶりにお酒を飲んだからかもしれない。
はっとして後ろにいる彼に振り向く。
「何」
「ごめんなさい、ここは私の部屋なんです」
「うん、だから?」
「あの…」
そう言ったのに、入室しようとしている彼の変わらない態度に疑問を抱く。
「何で入らないんだ?」
「え?」
「俺もここなんだろ?」
「え!?」
さも当たり前の様に言われて思わず赤面する。
すると、彼は違う事に気付いたのか、すーっと頬を赤くした。
「ふ、夫婦なんだから同じ部屋なんじゃないのか…?」
そう問う彼に合点がいく。だから少し緊張していたのか。
「その、ここでは違うというか…こういったお屋敷に住む方々は大体別室が多くて…」
「お、俺の両親は一緒に眠ってたからてっきり…そ、そもそも間違えんなよ!」
「ご、ごめんなさい!」
「俺の部屋はこっちか!?」
「はい、そうです!」
「酒の飲み過ぎだ!くそ!お休み!!」
顔を真っ赤にさせた彼は、そう吐き捨てながら乱暴に扉を開けて部屋へと入る。
あんなに慌てた姿は初めて見た。
そこでようやく彼は本当に13歳に戻ったのだと実感した。
10代らしい、素直な反応と無知な所。失礼だと思いつつ、少し可愛らしくて笑ってしまった。
そんな彼との生活が始まった訳だが、食事以外彼が部屋から出てくる事はなかった。
一度様子を見に行ってみると、部屋に置かれた大量の本と資料を読み漁っているようだった。
それは彼が今まで携わってきた仕事やそれにまつわるもの。確かに私の口から説明するよりもこの方が色々知る事が出来るだろうと思い、特に邪魔はせずお茶とお菓子を差し入れた。
それから彼が退院した事は騎士団にも知らされたのか、毎日誰かしらから手紙が届いた。
一度国王からも労いの手紙が届き、思わず手が震えた。流石の彼も驚いた表情を見せ、ベイにも協力してもらい3人で熟考して返事を出した。
私は誇りに思った。これは彼が身を粉にして今まで頑張ってきた証以外の何物でもない。
なのに当の本人はその記憶がないので、全くピンときていなかった。自分の事なのに、他人が褒められている様な感覚って何だろうか。彼の表情がどんどん複雑なものになっている事を、私は知っていた。
何か出来ることはないだろうかと考えていたら、彼の同僚から私宛に手紙が届いた。その同僚は彼が意識不明になって最初に目覚めた時に、初めて対面した騎士である。
その手紙には、彼の13歳の頃を知っている人物を連れて来てもよいかと書かれていた。
これはぜひお会いしなければならない。もし彼が駄目だと言っても、私だけでも会わせてもらおう。そう意気込みながら彼に話すと、意外にもあっさりと了承してくれた。
すぐにその旨を手紙にして送る。何通かやり取りをして日取りが決まり、そしてその日はやってきた。
屋敷の前に一台の馬車が止まる。
子どもの様にまだかと待っていた私は、それを自室で確認すると慌てて下に降りた。
「お久しぶりです、夫人」
「お久しぶりです、チャーリーさん。
そんな堅苦しい呼び方はよして下さいとお願いした筈ですよ」
「ですが私はただの一騎士ですから…いえ、ではそうさせて頂きます、ハルリナさん」
「ふふ…ええ、それでお願いしますね」
チャーリーさんは彼が1番仲良くしている騎士である。
とても気さくで、せっかく腕があるのに出世を望まない変わった人である。チャーリーさんを紹介された時、彼はそれを嘆いていた。
「ご紹介します、彼がゼストと同期入隊したセオです。
怪我が原因で引退して、今は農家に転身しています」
「は、初めまして」
そう紹介してくれたセオさんは、緊張気味に私に礼をした。その時私ははっとした。
「もしかして、よくうちに野菜を送って下さる…?」
「そ、そうです」
「まあ嬉しい!とても美味しくて、いつも楽しみにしているのです」
「ゼストからもそう聞いて、家内も喜んでいました。
本当は結婚式にも招待してもらっていたのですが、丁度麦の収穫で立て込んで出席出来なかったのです。
お会い出来て光栄です」
「こちらこそですわ。ようこそ、我が屋敷へ」
ほぼ毎月届く、美味しい食材達。彼は古くからの友人が送ってくれている、とだけで深くは教えてくれなかった。
ずっとお会いしたかったので、とても嬉しかった。
しかもセオさんが、今回のキーパーソンとなる人だったなんて。
「この度は、その…」
嬉しそうに微笑んでくれていたセオさんが、突然言葉を詰まらせた。
彼の事を憂いてくれているのだろうと察する。
「ええ、医師からも今までにない事例だと言われて…彼が1番苦しいと思います。
どうか話を聞いてやって下さい」
「…はい」
そして彼のいる部屋へ案内しようと踵を返すと、彼が部屋から出てきていた。
「驚いた…今貴方のところに案内しようと」
「セオ…?」
彼の目はセオさんだけに注がれていた。
歳を重ねても分かるのだろうか、その驚きの中に嬉しさも混ざっている事に私は気付いた。
そしてゆっくり近付いて、彼は言った。
「お前…おっさんじゃねえか」
その一言にセオさんが目を剥く。そして大きな声で笑って言った。
「お前もだろ!」




