終幕 3
魔王の領域のそこかしこでは、熾烈な戦いが続いていた。
「兄さん!俺が判らないのか!兄さん!!」
鋭い鉤爪が鎧を切り裂く。
危ういところで身を捩り、深手を避けたファラムの叫びに耳を貸そうともせず、魔物と化した兄は、棘だらけの尻尾を振り回した。
「畜生!こいつら、どんだけいやがるんだ!!」
その向こうでは、うじゃうじゃと沸き出す同じ魔物たちを相手にカノッサや騎士たちが奮戦を繰り広げている。
少し離れた場所では大型の魔獣やザムルが猛威を振るい、救護所ではエレたち小聖女が力の限り負傷兵を癒している。
そんな終わりのない戦乱の中、大聖堂は張りつめたように静まり返っていた。
地下に向かう階段口には濃い『穢れ』が渦を巻いている。
翼廊側に避難したシャノワとフェリシアたち、反対側の翼廊で立ち尽くすセオ、内陣で蹲るナルファやルルナスたちと、それを護るようなレティ、颯太、アル……そして。
彼らの中心には淡く輝く聖結界があった。
「本当に………みんな、甘すぎるよ。聖女、とくにきみは」
外界と遮断された聖結界の中、少し震える声でコンラートが呟く。
清浄な空気に満たされた、わずか5メートルほどの聖結界には依那とコンラート、ただふたり―――それから。
―――………エリシュカ……
声にならない囁きが、依那の後ろ、朧気に浮かびあがるそのひとの名を紡ぐ。
―――コンラート………
ゆらりと揺らいで、エリシュカの残留思念が彼の名を呼ぶ。
―――ごめんね……コンラート……わたしがあなたを置いて逝ったから……わたしがあなたを…そんなふうにしたのね……
「……違うよ、エリシュカ。きみのせいじゃない。おれが……おれが弱かったんだ」
そう、弱かった。
だから、きみを失ったことに耐えられず、きみを死に追いやった者たちが、人間が赦せなかった。
きみがいなくても変わらないこの世界が、許せなかった。
でも―――だけど。
「……どんなに殺しても…たとえ世界を滅ぼしても、おれの気が済むはず、なかったんだ。だって、結局のところ……おれの願いはただひとつ……もう一度きみに逢うこと……それだけだったんだから……」
つうっと涙がコンラートの頬を伝う。
依那の肩越し、エリシュカを見つめながらコンラートは一歩一歩、ゆっくりと足を進め、やがて依那のすぐ前で足を止めた。
「……きみたちの……勝ちだよ、聖女」
穏やかな声でそう言って、コンラートは依那の手を取る。
「だって、きみが……無類のお人好しのきみのおせっかいが……おれの願いを叶えてしまった……今のおれは魔王じゃない、ただのコンラートだ」
そう言って彼は依那の手を自分の心臓の真横、大穴のすぐ上に導いた。
「……ほら、ここ。ここがおれの核だ。ここを貫けば、今度こそおれは滅びる」
《 っ!! 》
聖結界の外で思わず息を飲んだセオを見やって、苦笑して。
「当然だろう?……おれは、それだけのことをしたんだ。そのむくいは受けなきゃいけない。本当は、首を刎ねてもらうのが一番なんだろうが……そんなことをしたら、黒髪のぼうやも巻き添えだからね」
「……コンラート……さん……」
依那は、おどけたように笑うコンラートを見上げた。
「……手早く頼むよ、聖女。おれが魔王に戻る前に……おれがおれでいられるうちに……終わらせてくれ。それに、そろそろぼうやも限界だしね」
穏やかに微笑む瞳は金色。
だが、その中央には確かに青が残っている。
このひとは、オルグを返そうとしてくれている。
「……そうだね。………かえろう。オルグさんも……コンラートさんも……みんな」
すうっと大きく息を吸い、目を閉じて。
うたは、一度目の時よりも自然に唇をつく。
そうして、依那は歌い出した。
二度目の、そして違う願いを乗せた、『最期のうた』を。
同じ頃、エリザベートはとうとう大聖堂の地下深く、隠された聖地へ辿り着いていた。
「ここが!?ここがそうなのね!ウルリーケ!」
息を乱し、血走ったアイスブルーの瞳でエリザベートは薄暗い室内を見渡す。
「ずいぶんと薄暗くてみすぼらしい場所なのね。わたくしの、おひめさまの夢のお城にこんな場所があったなんて!」
白皙の頬を薔薇色に染め、恐々と奥を透かし見るその姿は、左側から見れば美しいと言えるかもしれない。だが、ぎらぎらと光る目の光と、捻じれた唇、額に浮き出た蚯蚓のような血管は、じくじくと体液を滲ませる右頬の無残な傷と相まって彼女を恐ろしい魔女のように見せていた。
「ええ!あれですわ!姫様!ほら、あの奥に!!」
「ああ!奇跡の泉!この水を飲めば、わたくしは美しい世界一のおひめさまに戻れるのね!!そして、アルフォンゾ様も!!」
さっそく奥へ駆け込んでいくウルリーケを追うように、エリザベートも足早に泉を目指す。と、その腕をようやく追いついたナイアスが掴み止めた。
「エリザベート!!」
肩で息をしながら、ナイアスは必死でエリザベートに訴える。
「待ってください、エリザベート!あの女の言葉を鵜呑みにするのは危険です!せめて、もう少し事の真偽を……」
「お黙り!ナイアス!!」
だが、甘言に目の眩んだエリザベートはナイアスの懇願をびしりと撥ね退けた。
「どうしてわたくしの邪魔をするの!?わたくしがアルフォンゾ様と結ばれるのがそんなに許せないの?」
「エリ……」
「……ひどいわ……ナイアス……」
ナイアスの頬を打った手を押さえ、エリザベートはぽろぽろと涙を零す。
「やっと……やっと、あのかたが……アルフォンゾ様がわたくしを迎えに来てくださったのよ……?それなのに、わたくしはあの魔女の呪いを受けて……わたくしはただ、こんな醜い傷を治して、あの魔女を倒し、あのかたを取り戻したいだけなのに………それがそんなにいけないことなの?」
「エリザベート……」
震えながら泣くエリザベートは普段の美しい彼女に戻ったようで、ナイアスの胸は哀れさで痛んだ。
「お気持ちは判ります。でも、もっと慎重にならなくては。いいですか。ウルリーケを信用し過ぎてはいけません。あの女は、ダイムラー公だけに忠誠を誓っているのですから」
「……ダイムラー公………?」
くすん、と鼻を啜り、エリザベートは涙を拭うナイアスを幼子のようにいたいけな瞳で見上げる。
「だあれ?それ」
「エ……」
無邪気に放たれた言葉に、ナイアスは絶句した。
「な……何をおっしゃっているのです?エリザベート!?ダイムラー公ですよ!?ほら、父上と……エイダスとの結婚を後押しした……」
「知らないわ。そんなひと」
数瞬の間を置き、ひきつった笑みを浮かべながら説明するナイアスを、エリザベートはまたしても遮った。
「そんな、どうでもいいかたのことなんか、いちいち覚えていられないわ。だって、わたくしの王子様はアルフォンゾ様。わたくしは一途でけなげなおひめさまなんですもの。たいせつなのはアルフォンゾ様ただおひとり。他のかたのことなんてどうでもいいの」
「……姫様、これを」
あまりの言い草に呆然と立ち尽くすナイアスの横から、異様に目の座ったウルリーケが恭しくグラスを差し出す。
「まあ!ありがとう!これが奇跡の泉の水なのね!!」
嬉しそうにそれを受け取り、高く掲げ。
「駄目です!エリザベート!!」
我に返ったナイアスが止めるより早く、エリザベートは一息にそのグラスの水を飲み干した。
「エリザベート!」
いっさい目の笑っていないウルリーケの笑みが耳まで裂けるのと、落ちたグラスが砕けるのと、どちらが早かったか―――エリザベートの変化は、それに負けぬほどの速さで始まった。
頬の傷から滲み出していた体液が止まり、薄皮が、かさぶたがその醜い傷を覆う。
「まあ!」
ウルリーケが差し出した鏡を覗きこんでいたエリザベートが目を輝かせた途端。
かさぶたが剥がれ、傷は再び口を開いた。
それだけではない。
傷はあっという間に広がり、上は生え際まで、下は顎を伝い、首筋から鎖骨のあたりまで伸びて血を噴き出した。
「あらあら……本当に魂まで穢れていましたのね」
一瞬置いて上がったエリザベートの悲鳴を、まるで堪能するかのように目を細め、ウルリーケが嘯く。
「ウルリーケ!?貴様!」
「あら、わたくしではありませんわよ?その傷を負わせたのは、世界樹の剣。破魔の力を誇る、青の世界樹の剣でございます。……世界樹の剣が傷つけたのが、たかが顔の皮膚だけですむものですか。その傷は姫様の穢れた魂を切り裂き、その腐りきった性根を浄化しようとしているのですわ」
「なんだと!?」
「あ……ああ……わた……わたくしの……かお………かお、が……」
抱き締めたナイアスの腕の中で、エリザベートがしわがれた声で呻く。
「エリザベート!しっかりしてください!エリ……」
その顔にせめて治癒魔法をかけようとして、ナイアスはぎょっと身を強張らせた。
ナイアスの袖を掴むエリザベートの手が、やせ細ったように皮がたるみ、妙に萎びていたからだ。
「まあ!!」
目ざとくその変化に気付くと、ウルリーケはエリザベートの顎を掴み、無理矢理顔を上げさせる。
「……ふっ………」
まじまじと、穴が開くほどにその顔を見つめ。ウルリーケは肩を震わせた。
嗚咽かと思われたそれは、すぐに甲高い哄笑となって薄暗い聖地を満たす。
「ウルリーケ!黙れ!黙らないか!!」
ナイアスが怒鳴りつけるも、狂ったようなウルリーケの嘲笑は止まらない。
「ほほほほほ!その顔!!ざまあないわ!なにが、世界一のおひめさま、よ!あはははは、あーーーっはははははは!」
言い尽くせぬほどの悪意と嘲りに満ちた割れんばかりのその声は、幾重にも反響して淀んだ空気を震わせ続けた。




