もう一度 3
「誰だ!!」
聞きなれぬ声に、一同ははっと白百合の扉を振り返る。
そこに立っていたのは、髪を振り乱し、額と唇から血を滴らせた侍女服の女。真っ青な顔の中で、そこだけらんらんと輝く目で一同を見渡し、ウルリーケは獣じみた唸り声を上げた。
「お前は!」
「シャノワ様!フェリシア様!下がって!!」
「姫様!」
彼女の姿を目にした刹那、颯太の胸を貫いたのは絶望だった。
聖剣を向ける間もなく、ウルリーケの爪が伸びるのが見える。
毒々しい紫に染まった鋭いその爪が、エルフの結界を破り、シャノワに迫る。
ああ……また、護りきれない……!!
だがその瞬間、聖剣の柄頭から飛び出した黒い靄が、ウルリーケの爪を粉々に打ち砕いた。
「!!」
「なっ……」
――そんな顔をするな!小僧!!
――まさか貴様、我らを忘れていたわけではあるまいな!!
あまりのことに反応すらできない一同の周りを、誇らしげに、高らかに声を上げて靄が取り巻く。
「み……みんな!!!」
それは、青の塔から颯太が連れ出したなり損ないたち―――ともに大神殿の戦いを潜り抜けた、他国召喚の犠牲者たちだった。
「皆様!!どうして……」
――愚問だな、娘!貴様ら生身の人間はあの記憶を持ち得ぬが、実体を持たぬ我らは記憶を持ち越した……それだけのこと!!
――勇者の小僧、貴様の恩義に報いる機会、これを逃してなるものか!
「くっ……なに!何なの!!この靄は!!」
そうこうするうちにも、渦巻く靄はウルリーケを絡め取り、その身動きを封じていく。
「シャノワ様!フェリシア様!ジュリアさん!お怪我は!」
「え……ええ。大丈夫ですわ。ありがとうございます!皆様!!」
「助かったわ!やるじゃん!なり損ないたち!!」
「ひ……姫様……」
大神殿でなり損ないとの面識があるシャノワやフェリシアは彼らとの再会を喜んでいるようだが、一歩間違えたら自分も彼らと同じなり損ないになっていたかもしれないジュリアは、複雑そうにその動きを見守るしかできない。
――さ、小僧!!今のうちに!!
――魔王が戻らぬうちに!!
「わかった!!」
なり損ないたちの声援を受け、颯太は改めて大聖女像に向き直った。
―――やめろ!!ルルナス!!
大聖堂で、今まさにステファーノの手を取ろうとするオルグの裡で、コンラートは絶叫した。
『聖女の涙』も、3000年の悪意も、そこに宿る自分の魂の半分も、どうでもいい。だが、大聖女像は。彼女の、最期の微笑みを模した、あの像だけは。
最愛の許へ戻ろうとする心と、親友の許へ向かおうとする心と。
相反する心が激突した瞬間。
ずるり、と身体が―――もはや別々の存在であることすら忘れていた『半身』が抜け落ちた。
「!!」
後退ろうとした勢いのまま、コンラートを宿したオルグの身体はその場に膝を付き。
白い髪、白い服のこどもはステファーノの腕に飛び込んだ。
「ルルナス様!!」
悲鳴のような声で、ナルファがこどもの名を叫ぶ。
その声を聴きながら、コンラートは必死の形相で天井を―――白の居室を振り仰いだ。
白の居室では、颯太が改めて大聖女像を見上げていた。
純白のその石像の胸、真っ黒に染まった『聖女の涙』で闇が蠢く。
その奥で、絶望と苦しみが渦を巻いているのが手に取るように判る。
「……辛かったね。悲しかったね。……でも、もう大丈夫。終わりにしよう。全部」
不思議と、気負いも葛藤もなかった。
ただ、労りの言葉が自然に口をついた。
掲げた破邪の剣とともに、颯太の言葉ひとつひとつにも暖かな光が宿る。
「もう、誰も恨まなくていい。憎まなくていい。……楽になっていいんだよ」
おやすみ、と小さく呟いて、颯太はオルトを振り下ろした。
「やめろおおおおっ!!」
身動きもできぬまま、半狂乱で喚くウルリーケの声をも切り裂くように、薄青く光る白銀の刃は、銀の光を振りまきながら驚くほどあっさりと『聖女の涙』だけを分断した。
「!!!!」
瞬間、ぐわん、と空間を震わせた、部屋を満たす声のない叫び。
断末魔のようなそれは衝撃波のように一同をよろめかせたものの、一瞬にしてオルトの光に溶け、きらきらと光の粒子を遺しながら消えていく。
同時に、かしゃん、と微かな音を立てて真っ二つになった『聖女の涙』が床に落ち、砕けた。
そして部屋を満たすのは、驚くほどの静謐。
「……おわ……った……?」
呆然とあたりを見渡し、思わず颯太は呟いた。
空気が、軽い。
相変わらず白い室内は明るく、陽射しが差し込んでいる。
胸に抉れたような傷が残ったものの、大聖女像は何事もなかったかのように優しく微笑んでいる。油断なく杖を構えていたレティが、やがてゆっくりとその前に跪き、祈りを捧げ始めた。
「……やった……」
壁際でひと固まりになっているシャノワやフェリシアの無事を確かめて、ようやく颯太は緊張を解いた。
今度こそ、やり遂げた。
『聖女の涙』の飽和を食い止め、シャノワの死を回避した。
「やったぁ……」
以前の記憶を持ち得ない颯太には、この腰が抜けそうな安堵の理由が判らない。それでも心底ほっとして、颯太はその場に座り込んだ。
そして、大聖堂でも、また。
「ぐっ……!」
《 コンラート!? 》
胸を刺し貫く痛みに、堪らずコンラートは胸を押さえて蹲った。
間違いない。
あの忌々しいぼうやが、『聖女の涙』を―――コンラートの魂の半分を破壊したのだ。
「……エリシュカ?」
だが、コンラートにとってそれはどうでも良かった。問題は、大聖女像だ。それさえ無事なら、自分は―――。
「みんな!オルグさん……じゃなかった、魔王!それに……ええっ!?ルルナス!?」
虚空を睨み、一心に白の居室の様子を探るコンラートの邪魔をするかのように、崩れた壁の隙間から依那が駆け込んできたのはその時だった。
「エナさん!!」
「おお!無事だったか!」
「エナ!!」
案じていた聖女の到来に、ラウやナルファが喜びの声を上げ、前の時間軸を知るセオとステファーノは前回より早い合流にほっと息をつく。自覚は無いにしろ前回同様魔王に飛ばされた前庭から戻ってきた依那は、ステファーノにしがみついて泣いているルルナスと座り込んだコンラートを何度も見比べた。
「えっと……なんで分裂してんの?どういう状況?」
「おかえりなさい、エナさん。簡単な話ですよ。大神殿で死にかけたときに、ぼくを救ってくれた大賢者エノクの呼びかけに、魔王の中のルルナス様が応えてくださっただけのことです。ほら、エナさんが教えてくれたでしょう?ほんとうのルルナス様は、ただエノクに会いたいと、彼のところへ帰りたいと、それだけを願っていたって」
「え?えええええ?」
事も無げに言うステファーノに、事前に「奥の手がある」としか聞かされていなかった依那はますます混乱した。
「え?ちょっと待って、エノクが救ってくれたって、なに?どーやって呼びかけたの?あ、それがステファーノさんの言ってた、奥の手ってやつ?」
「まあ、そんな感じです。エノクの許へ行きたいルルナス様と、『聖女の涙』の元へ戻りたい魔王の反発が、長らく溶け合っていた彼らを別ったのでしょう。それより……どうやら、ソータくんが成功したようですよ。『聖女の涙』の破壊にね」
「えっ……」
さらりと落とされた爆弾発言に、その場の面々は息を飲み、はっとコンラートを見つめる。
「………やれやれ。さすがは傍観者。おれたちを別ったことといい、洞察力は歴代の傍観者の中でも群を抜いているようだね」
全員の凝視を受けて、コンラートは豊かな黒髪を掻き上げて、困ったように苦笑した。
………金の中に、ほんのわずか………針で突いたような、微かな青の残る瞳を細めて。




