黒の飽和
それは、想像を絶するような嵐だった。
気の弱い者ならそれを感じただけで息絶えそうな悍ましさと禍々しさが、黒い『穢れ』となって荒れ狂う。
咄嗟にオルトで結界を張った颯太だったが、そう長くはもたないのは明らかだった。
「大丈夫!?レティ!フェリシア!魔人の人も!」
「え……ええ!どうにか!」
なんとか颯太の手助けをしようと頑張るレティだったが、小聖女筆頭の力を誇る彼女の祝福も、結界を張るそばから砕かれ、浸食され、かき消されてしまう。
半狂乱になってシャノワの亡骸に縋りつくフェリシアを気絶させて肩に担ぐと、颯太は祭壇を睨みつけた。
闇を吐き続け、『穢れ』の元凶となっている大聖女像を破壊したいのはやまやまだったが、レティやフェリシアを庇ったままでは近寄ることすらできない。
「とにかく!ここから出よう!!」
ここは一旦退くしかないと決め、颯太は改めて室内を見渡した。
今や、純白だった室内は真っ黒い『穢れ』に覆い尽くされている。
台風の目のようなものなのか、中心であるこのあたりの『穢れ』はぐんにゃりと緩く渦を巻いているが、割れた窓からは『穢れ』が凄まじい勢いで流出していくのが見える。
……いくらオルトがあるとはいえ、あの激流を結界を維持したまま乗り切れるか?皆を連れて……シャノワの亡骸を抱えて………?
「………行って」
逡巡する颯太の迷いを悟ったかのように、ジュリアが固い声を上げる。
「わたくしのことならいいの。だから、置いて行って。わたくしも……姫様も」
「!でも!!」
「いいの!」
反論しようとするレティを遮って、ジュリアは―――フローリアは、じっと颯太を見据えた。
「迷ってる暇なんかないわ。わたくしなら大丈夫。魔人だもの。だから……行きなさい。勇者様。それがあなたの使命でしょう?」
すべての覚悟を決めたその声に、颯太は唇を噛み締めるしかない。
「……行くよ!レティ!」
「……シャノワ様を頼みます」
もう一度、目に焼き付けるようにシャノワの亡骸に目をやると、颯太は踵を返した。涙を堪えながらレティも後へ続く。それを見送って、ジュリアは小さく息をついた。
「……そのじゃじゃ馬をお願いね」
まっすぐ嵐に飛び込んでいく、その背中にかけた声が、届いたかどうか……。
「………姫様」
居ざるようにしてシャノワの亡骸に近付き、そっとその頭を膝に乗せる。
「………シャノワ……さま……」
ウルリーケの爪に貫かれた左手は、もう動かなかった。
魔人とはいえ、力の弱いジュリアにはウルリーケの毒に耐える術などない。勇者にはああ言ったが、彼女の命が尽きるのは時間の問題だった。
「……いいえ、この『穢れ』に喰い尽くされるのが先……かしらね……」
自嘲気味にそう呟いて、フローリアはそっとシャノワの髪を梳く。
……望んだ『終わり』ではないけれど。……それでも………それでも、わたくしは。
「……今度こそ、最後までお傍に……お仕えいたします……姫様……」
大事な主に囁きかけ、彼女はそっと目を閉じた。
災厄は、真っ先に眼下の夢幻城に襲い掛かっていた。
天から降り注ぐ真っ黒な『穢れ』が瞬く間に美しい城のあちこちを侵食し、溶かし、無残な廃墟へと変貌させていく。
その真っ只中で、半狂乱のエリザベートは成す術もなく世界が崩れるのを見ていた。
「なに……なんなの……ああ…わたくしの夢幻城が……おひめさまの、夢のお城が……」
闇雲に部屋から部屋へと駆け回り、崩れ落ちた個所を見ては悲鳴を上げ逃げ惑う。
「誰か!誰かいないの!?ウルリーケ!!何をしているの!どこにいるの!ウルリーケ!!!」
声を限りに叫んでも、侍女たちはすでに拘束され、エリザベートの悲鳴に応える声はない。
むしろ、真っ先に『穢れ』に身を投じたウルリーケの怨念が乗り移ったかの如く、『穢れ』はエリザベートの退路を断つかのように彼女の逃げ場を奪っていく。
そのうち、エリザベートは躓いて回廊を飾る鏡に肩からぶつかった。
痛みに呻き、鏡の中に見たのは、青褪めて髪を振り乱した、醜い自分の姿。
宝石のようだと謳われたアイスブルーの瞳は血走り、陶器のようだと褒められた額には太い血管が浮かび、薔薇の花と讃えられた唇は歪み、ぴくぴくと痙攣している。
「…こんなの……こんなことって……わたくしは、おひめさまなのよ!世界一のおひめさまなの!!そのわたくしが……どうして……どうして……」
ぎりぎりと鏡に爪を立て、エリザベートは呻く。
恐ろしいほど身勝手で自己中心的なエリザベートは、ここに至っても自分の行いが招いたものだとは露ほども思ってはいなかった。
ただ、どうして、と理不尽な怒りだけが胸の裡に渦巻く。
美しく、愛らしく、清らかで純真な、世界一のおひめさまであるわたくしは、運命の王子様であるアルフォンゾ様といずれ結ばれて、あの素晴らしいエンデミオンの王宮に迎えられ、生涯幸せに暮らす。
それこそが、あるべき世界。正しい世界なのだ。
魔女によって陥れられ、望まぬ結婚を強いられた可哀想なわたくしは、それでも健気にアルフォンゾ様を待ち続け―――悪い魔女を排するために祈り続け―――そうして、ようやくあのかたがわたくしを迎えに来てくださった。―――それなのに、どうして。
「………あの、魔女のせいね」
血が滲むほどに拳を握り締め、エリザベートはぎらぎらと燃える目を上げた。
「あの女……あの嘘つきの魔女が、往生際悪くわたくしを殺そうとしているんだわ!お母様の手紙を捏造し、アルフォンゾ様を操って!あの、クソ女が!!」
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、エリザベートが黒の礼拝堂へ取って返そうと身を起こしたとき。
不意に自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、エリザベートははっとそちらを振り返った。
「まあ!ナイアス!!」
見れば、瓦礫を掻き分けるようにして、ナイアスがこちらへ駆けつけてくるところだった。
「ああ、エリザベート!!よくぞご無事で!」
「ナイアス!来てくださったのね!」
髪と息を乱し、ほっとしたようにエリザベートを掻き抱くナイアスの腕に、エリザベートも縋りついた。
「怖いわ!ナイアス!ああ、いったい何があったの!?」
「私にも何が何だか……ただ、突然城が崩壊する音を聞いて、慌てて飛び出してきたのですよ。あなたが無事で本当に良かった」
「ナイアス……」
もう一度ぎゅっとエリザベートを抱き締めると、ナイアスは彼女の体を離す。
「とりあえず、外へ出ましょう!ここは危険だ。いつ崩れるか判らない」
「待って!ナイアス!」
テラスの大窓へと誘導するナイアスの手を掴み、エリザベートはそっと囁いた。
「……わたくし、知っているの!この災厄の、理由も、どうすればいいのかも!」
「……エリ…サベー……ト…?」
じっと見上げる二つの瞳は、異様な色に燃え上がっていた。
「『聖女の涙』が飽和しただと!?」
コンラートの言葉に、一同は凍り付いたように動きを止めた。
「まさ…か……では……では……『穢れ』が……」
「そうだよ、溢れ出した『穢れ』が、外まで流出した。今はまだ夢幻城を喰らっているけど、この城の敷地内から外へ広がるのも時間の問題だろう」
「そん……な……では、ソータは失敗したのか!レティ姫は!フェリシア姫は!」
「ああ……彼らはかろうじて無事みたいだよ。勇者のぼうやは幼いが馬鹿じゃない。ももいろの姫君やお転婆エルフを連れたままでは戦えないと悟ったんだろう」
「みんな!!!」
顔面蒼白のラウにコンラートが答えたあたりで依那が聖地に駆け込んでくる。
「!!オルグさん!……じゃなかった、魔王!?それに……ええっ!?ルルナス!?」
コンラートにより前庭のすみっこへ転送された依那は、それでも魔王の気配を追い、この隠された聖地へ辿り着いたのだ。
「えっ?えっ?なにこれ、なんで分裂してんの!?どういう状況!?」
「やれやれ……相変わらず、忙しないねえ、きみは」
呆れ顔のオルグ(コンラート)と、涙で濡れた顔を上げてせいじょ、と呟くルルナスを見比べ、慌てる依那に、コンラートは大きなため息をついた。
「見ての通りだよ。そこの傍観者の策略で、ルルナスとおれは分かたれた。世界樹の剣に隠されていたカナンの姫君は邪悪なおひめさまの手下に殺され、それを目の当たりにしたフェリシアの絶望でめでたく『聖女の涙』は飽和を迎え……今、まさに『穢れ』が溢れ出した……ってとこかな?」
「シャノワが!?」
肩を竦めるコンラートの説明に、依那はさっと青褪める。
「じゃあ……じゃあ、シャノワは生きてたの?生きてたのに……殺されたの!?よりによって、フェリシアの目の前で!?」
「……そういうことになるね」
くすくすと笑い、コンラートは長い黒髪を弄びながら愉しそうに依那を見た。
「そ…んな……」
あまりに惨い現実に、依那は思わずふらついた。
目の前で最愛の親友を失ったフェリシア。その絶望を思うだけで胸が潰れそうになる。
「……それ……で……フェリシアは?無事なの?颯太は!?レティは!」
「どうやら命だけは無事のようだよ?もっとも……『穢れ』を消すことはできないようだが」
胸を押さえ、なんとか言葉を絞り出す依那を揶揄うようにコンラートは嘯いた。
「さあ。どうする?聖女。あの『穢れ』は、おれにも制御できない。3000年の間、溜りに溜まった黒い感情が尽きるまで、『聖女の涙』は『穢れ』を吐き続け、やがてはこのカナンを、そしてエンデミオンを、シナークを、世界すべてを喰らい尽くすだろう。もう、一刻の猶予もないよ?最後の……10番目の聖女として、きみはどうするのかな?」
優しい声で。
優しい微笑みで。
もはや、ひとかけらの青も残っていない、完全な金の瞳が、じっと依那を覗きこんでいた。




