邂逅
「な……なに!?」
不意に部屋を満たした青い光に、フェリシアとジュリアは勢いよく振り向く。
フェリシアに取り縋るジュリアが、咄嗟にソファの上に置いた、あの木の実を。
「姫様!?」
「シャノワ!」
フェリシアの胸で、桜貝の片割れは今も柔らかな光を放っている。
だが、木の実は脈動するような淡い光を放ってはいなかった。
代わりに溢れるのは、澄んだ青い光。冬の空のような、深い青の―――。
「………オル……グ……?」
それは、魔王の依り代となった彼の、瞳の色。
シャノワが愛し、命を差し出しても護ろうとした彼の心の色。
「……シャノワ!!」
泣きながらフェリシアは木の実を引っ掴み、爪を立てた。
「フェリシア!?」
「起きて!起きてよ!シャノワ!」
ぎょっとするジュリアを振り払い、声を限りに叫ぶ。
「もう時間がないの!エナが危なくて、オルグも限界なの!!きっと、ソータだって……レティだって!だから、起きて!!起きて、一緒にオルグを止めに行こう!?約束したでしょう!?すぐに駆け付けるって!だったら……だったら、起きなさいよ!!シャノワ!!」
ぱきり、と音を立ててフェリシアの爪が割れた。
それでも、木の実は固く閉ざされたまま、割れるどころか傷つく気配もない。
「フェリ……シア……」
何も、できなくて。
泣き崩れるフェリシアを止めることもできぬまま、ジュリアはただ茫然とその姿を見つめ続けていた。
同じ頃、礼拝堂の奥、周歩廊では。
「ええい、ちょこまかと!!」
屠殺の黒剣で斬りかかるエリザベートの攻撃を、依那はかろうじて避け続けていた。
「エナ!!」
「エナ殿!!」
黒銀の格子の向こうでは、アルとエリアルドがなんとか脱出しようと躍起になっている。
「つっ!!」
何度目かの攻撃を避けた拍子に格子にぶつかり、依那は呻いた。
どうもこの格子には、触れた者の生気かなんかを吸い取るような、そういう機能があるらしい。力が抜けてぐわんと目が回る。これでは何故か剣が石化したらしいエリアルドや丸腰のアルは成す術もないだろう。
「……ようやく観念したようね。嘘つきの魔女」
格子のぎりぎりに追い詰められ、どうにか上半身を起こし肩で息をする依那を、こちらも息を乱したエリザベートが嗤う。
「武器も持たない相手を殺そうだなんて、とんだおひめさまね、エリザベート!」
「まあ!わたくしの罪悪感に訴えようというのね?でもだめよ、わたくしは、王子様を護る、とっても勇敢で、とっても健気な、特別なおひめさまなの!!それに、ほら!ごらんなさい、この『屠殺の黒剣』を!」
勝ち誇ったように、エリザベートは黒剣を掲げてみせる。
「これはね、特別なおひめさまに相応しい、特別な剣なの!この剣でちょっぴりでも傷をつければ、その相手を思いのままにできるのよ!だから、わたくしは自分の手を汚す必要はないの。あなたにかすり傷でも負わせたら、後は命じるだけ。アルフォンゾ様の呪いを解いて、お前は自分で自分の首を刎ねなさい、って!そうすれば、あなたは勝手に自決して、アルフォンゾ様は無事におひめさまの許へ戻るのよ!!」
「なっ……」
あまりのえげつなさに息を飲む依那を気にも留めず、エリザベートはうっとりと黒剣に頬擦りした。
「素晴らしいでしょう?この剣があれば、何人の魔女を倒しても、おひめさまは清らかなままでいられるのよ!……例外はあのかただけ。おひめさまだったくせに、魔女に加担なんかするから……でもいいの。シンシア様は裏切り者だけど、魔女ではないんですもの。おひめさまの手が汚れたことにはならないわ」
「!!」
陶然と紡がれる独り言に、依那は息を飲んだ。
ざっと血の気が失せるのが、自分でも判る。
「シン……シア……さま?じゃあ……まさか……本当に……あんたが……シンシア様を……その剣で………?」
「だって、シンシア様ったら、わたくしのとっておきの呪具を横取りしようとしたのよ?それに………ああ、そうよ、傷なんかないんだわ。なかったことになったのよ。だから、シンシア様を殺したのも、わたくしではないの。わたくしはただ、おひめさまとして、魔女を退治しようとしただけ。シンシア様は……そう、わたくしを庇ってくださったのよ!なんといっても、あのかたはおひめさま。わたくしたちは同じおひめさま同士なんですもの!!」
目の前で、エリザベートがシンシアの殺害を自分の都合の良い記憶にすり替えた瞬間。
ぶつり、と音を立てて、依那の中で何かが切れた。
「……あん…た………あんたって…人はああああっ!!!」
怒りで、視界が真っ赤に染まる。
右手に絡みつき、アルタの具現化を阻んでいたエリザベートの悪意そのもののような黒い波動をぶち破る勢いで、何かが内側から爆ぜそうになる。
にやり、と口許を歪めたエリザベートが飛びかかってくる。
「エナ!駄目だ!」
アルが叫んだ、その瞬間。
「駄目だよ。おひめさま。これは約定に反する行為だ」
ふわり、と。
深い声とともに艶やかな黒髪が視界を過った。
「「「「!!」」」」」
皆が息を飲む中、黒髪を靡かせて現れたそのひとは、縫い留められたように動きを止めたエリザベートと依那の間に舞い降りる。
「………オルグ………」
ぽつりと、呆然と彼の名を呟いたアルを振り返り、オルグ―――魔王は首を傾げ、小さく肩を竦めてみせた。
「やあ、赤毛のぼうや。これはまた、とんでもないところに囚われてるね」
「ひどいわ!あなた!何で邪魔をなさいますの!!」
話しかけられてもまだ呆然と魔王を見つめるアルとは対照的に、エリザベートは頬を染めて魔王に食ってかかった。
「あと少しで、あの魔女をやっつけられましたのに!!」
「っ……エナ!?」
その言葉ではっと我に返り、依那がいたあたりに目をやったアルは、またしても息を飲む。あの男勝りの聖女の姿が、忽然と掻き消えていたからだ。
「言ったろう、約定に反すると」
怒りに震えるエリザベートを、魔王はそれ以上に怒りの籠った冷たい目で見据えた。
「あの聖女と小さい勇者は、おれの獲物。手出しは無用と、最初から言ってあったよね?」
「それ……は……そうですけれど……」
声を荒げるでもないのに、凍てつくような物言いに、さしものエリザベートも引き下がるしかない。
「おれがきみに与えたのは、敵意を持つ者に対抗する力と、有象無象を好きにする許可だけだ。勇者と聖女、そしてその従者たちまで好きにしていいとは言っていないよ。エリザベート」
「でもっ!」
「エリザベート」
なおも食い下がろうとするエリザベートを、名を呼んだだけで黙らせて。
妖しく光る金の瞳で、魔王はじっと我儘な「おひめさま」を見つめた。
「おれは、約定を守っただろう?きみの『アルフォンゾ様』を、こうして連れて来て、語らう機会をあげた。それなのにきみが約定を違えるというのなら……おれも、好きにさせてもらうけど?」
静かな声に含まれた、身が凍るような凄みに、思わずエリアルドの喉が鳴る。
ややあって、俯いたエリザベートが震えながら頷いたのを確認し、魔王はアルに向き直った。
「………会いたかったよ、ぼうや」
そう言って微笑む顔は、アルが生まれてからずっと傍にあった、懐かしい従兄弟のもの。
「きみがこうしてここにいるということは……おれと戦う意思がない、ということかな?」
「……そうだ」
探るようにその金の瞳を見つめ返し、アルはその中に青の痕跡を探す。
「俺は……お前を倒しに来たんじゃない。オルグを、俺の大事な従兄弟を取り戻しに来たんだ。……教えてくれ。魔王。あいつは、まだお前の中にいるのか?そこに、いてくれるのか?」
まっすぐに目をそらさないアルをしばしじっと見つめ、魔王は肩を竦め、首を振った。
「……やれやれ。本当に、健気なことだ。きみたち従兄弟ときたら……エンデミオンの王族はえてして馬鹿みたいに正直で阿呆みたいに一直線なのが多いけど……これはもう、血筋なのかな?」
「っ……自分は、そうであるからこそ、王家は我が命と忠誠を捧げるに相応しい方々だと、そう確信しております!」
どう思う?と問われたエリアルドがひっくり返ったような声で叫ぶ。
それに苦笑して、魔王は髪を掻き上げた。
「黒髪のぼうやはね。……まだ、かろうじてここにいるよ。ほんのわずか……きみや妹への想いと、あのカナンの姫君の祈りだけが、彼を生かしている。本当に……藁どころか、蜘蛛の糸にも縋るような儚さでね」
「!!」
ぱっと顔を輝かせるアルを見て、魔王はひょいと片眉を上げる。少し皮肉気に―――意地悪そうに。
「……そうだね。彼はずっと外界から隔離したままだったけれど……こんなところまで飛び込んで来たぼうやに免じて、今何が起きているかを見せてあげることにしようか。小さな勇者や男勝りの聖女がどんなに頑張って戦って、どんなに無残な最期を迎えるか……異界で戦う騎士たちの哀れな姿……悲惨な現実を前に、ぼろぼろの彼の心が、どこまで保つかなぁ?」
「魔王!?」
さっと顔色を変えるアルを見つめ、魔王は蕩けるような微笑みを浮かべる。
「競争だよ、ぼうや。きみたちが俺を倒すのが早いか、現実に絶望したあの子が消えるのが早いか。おっと、おれに殺意を向けない方がいいよ?きみが消滅したら、それこそあの子も消えてしまうだろうからね」
「くそっ!待て!魔王!オルグと話をさせろ!オルグ!!オルグ!!」
格子を叩き、叫ぶアルを満足そうに見やり、魔王の姿は掻き消えた。
オルグを呼ぶ、悲痛なアルの声を遺したままで。




